記されぬ時 110

扉の向こうに立っていた男、アリスティドは二年前と外見は大差ないが、中身はもっと変わっていないようだった。白い人型であるメルサルスを指して「お化けだ、お化け」などと囃し立てている。
そのせいか存在を気づかれていないアージェは、「来るの早すぎだろ」とぼやいたが、何故このようなことになったのか、相手の男に問い質すことまではしなかった。勿論、自分からアリスティドに関わりたくないという気持ちは強かったが、それ以上に男の向こうにイリデアの姿が見えたので。
イリデアはアージェと目が合うと、困ったような戸惑いの視線を送ってくる。
けれどアージェは何も応えなかった。単に答えられることがないのだ。
彼は、アリスティドとメルサルスがお互い顔を見合わせている間にリィアへと駆け寄った。腕の傷口を示す。
「悪い。治せる?」
「多分いける」
短い詠唱と共にリィアは小さな手を彼の傷口にかざす。
血が止まり、穴が塞がると同時に気分の悪さも軽減した。ほっとしたアージェは、だがイリデアとは違う人間の視線に気づいて振り返る。
そこにはアリスティドの従者である魔法士の女がいて、じっとアージェを凝視していた。
主君よりもよほど記憶力がいいらしいエルは、すぐに彼が誰であるか気づいたらしい。驚きと警戒を滲ませて彼に問う。
「あなた……どうしてこんなところにいるの?」
「仕事。俺、傭兵になったんだ」
「傭兵……? あの、お、大きないいい、犬は、今日はいないの?」
「引退したよ」
エルはそれを聞いてほっと眉を緩めた。もしかしたら彼女は、二年前の一件で犬が嫌いになってしまったのかもしれない。
アージェは少し悪い気がしなくもなかったが、そのようなことまで気にしていてはきりがないだろう。肩を竦める彼に、リィアが警戒の表情で尋ねる。
「誰、あの女。知り合い?」
「セーロン王子のお付きの魔法士だよ」
二人の女魔法士の視線はアージェの眼前でぶつかりあった。
お互いを敵と見なしていいのかどうか、すぐには決めかねている彼女たちの表情に、アージェは幾分安堵する。
その時、メルサルスがようやく口を開いた。
「我が継承者よ。お前も試練を受けに来たのか?」
「試練? 探検に来たのだが、別に試練でも構わないぞ!」
「殿下、探検ではなく調査です」
恥ずかしそうにエルに訂正されても、アリスティドはまったく堪えている様子はない。
アージェは男に顔を見せぬようよそを向きつつ、そしらぬ声で言った。
「継承者は自分の祖先と戦って、実力を証明しないといけないんだってさ」
「そうなのか! 分かった、その試練受けるぞ!」
「……よし、リィア。今のうちに神具壊して逃げるか」
「君、結構いい性格してるよね……」
声を潜めるアージェにリィアは呆れ顔になったが、彼女も異論はないのだろう。ユーレンに、扉近くに移動するよう手振りで指示する。
アージェは大分短くなってしまった己の短剣を見て、その形を作り変えた。
―――― 出来るだけ薄く、しかし切れ味は研ぎ澄ませて。
神具を壊すだけならばそれで十分だ。彼はメルサルスの向こうにある祭壇の矢を見やった。

アリスティドの祖である人型は、ちょうど白い弓に矢を番えているところである。
一方アリスティド自身はそれを興味津々の目で注視していた。
二人が戦闘状態に入ったら動こうと身構えていたアージェは、けれどその鏃が突然自分に向けられるのを見てぎょっと身を伏せる。放たれた矢はすんでで彼の頭上を通り過ぎ、壁に当たって消えた。
「何で俺なんだよ!」
「己の継承者が現れたからといって、お前の存在を忘れるはずもない」
「む、そこにいるのはひょっとしていつかの少年か!?」
「気づくの遅……」
どんどんと強くなる脱力感に、アージェは今すぐにでも撤退したくなったが、それではここまで来た意味がない。彼は隣のリィアに小声で頼んだ。
「ちょっと防護結界かけて」
「いいけど、どうするの?」
「適当にくぐりぬける」
メルサルスは当然ながら、アリスティドも味方であるわけではない。
アージェは白い人型が、剣を携えた男に向かい矢を放ち始めるのを見て、ざっと全員の位置関係を計った。
室内に踏み込んでいる者は今のところアージェも含めて六人。
そのうち三人はアリスティドとエル、そして彼らに付き従ってきた騎士の一人であり、イリデアと他の騎士たちは扉の向こうで困惑顔のままだった。二つに切断された獣の死体を恐る恐る見やる彼女の眼前で、扉が再び閉まり始める。
イリデアはそれに気づくと、部屋に入ってしまうか否か逡巡を見せた。そこにアージェの声が飛ぶ。
「来るな! 外で待ってろ!」
女はびくりと身を竦めた。そうしている間に、石扉はもはや人が通れぬほどの隙間だけが残された状態になる。
ぴったりと扉が閉ざされる直前、イリデアはくすぶる火のような、静かな毒のある瞳でアージェを見つめた。
しかし青年は、イリデアから何の関心もなく目を離すと、アリスティドを見やる。

ちょうどその時アリスティドは、長剣を以て祖に切りかかっているところであった。
よく鍛えられた鋼の刃は鋭い軌跡を描き―――― 人型の胴を通過していく。
確かに薙がれたにもかかわらず、剣が過ぎた端から元通り繋がる腹を見て、アージェは思わず声を上げた。
「何だよ、そりゃ!」
「何だこれは!」
二人の継承者の重なる叫びは、状況を窺っていたリィアの白眼を誘った。彼女はアージェに向けてぼそっと呟く。
「ちょっと……しっかりしてよ」
「いやそれ俺に言われても。あの人、継承者の力が使えないのか?」
「エル! 剣が効かないぞ! やっぱりお化けなのか!」
「殿下……」
アージェたちから見るとまったくの茶番劇ではあるが、エルの顔色は真っ青である。彼女はかぼそい声で主君に進言した。
「殿下、やはり王家の剣を持ってくるべきであったのでは……」
「え。それないと、この人役立たずなの?」
「心配するな、エル! 気合いされあればよいのだ!」
「間違ってはおらぬがな……」
呆れているような声はメルサルスのものである。
残滓も残滓で、自分の子孫のおおらかさに多くを言えないのかもしれない。
アージェは気を取り直すとリィアに言った。
「じゃ、行ってくるから撤退の準備よろしく」
「撤退出来るの?」
「するよ。受けた仕事が二回連続でグダグダだなんて、ケグスに言ったら笑われる」
厄介な状況がただ厄介だけに留まらず、こうまで意味の分からない事態になってしまっているのは、アリスティドの負うところがやはり大きいのだろう。
だがそれはともかく、男の乱入は好機として使えるのだ。
アージェは何も言わずその場を走り出した。アリスティドを相手取るメルサルスの背後へと向かう。
白い人型はすぐに彼の動きに気付いたようで、右手に握った矢を大きく後ろへと振るってきた。
けれどその隙にアリスティドが、メルサルスの肩口へと剣を振り下ろす。
先程はただ白い体を通り過ぎただけの剣。しかしそれは「気合」が違うのか、メルサルスの右腕を肩から切断した。
床に落ちる直前、音もなく消え去った腕は、どうやら復活する様子もない。アージェは男のでたらめさに目を瞠った。
「すげ……変な人」
「お化けを倒したら次は君だ! 二年前の決着をつけよう!」
「遠慮します。それより先祖頼んだ」
「任せておけ!」
あまりにも即答されるとかえって不安になるが、そう言うからには任せてもいいのだろう。
アージェはメルサルスの背後を通り過ぎると、走って石の祭壇へと到達した。そこにある三本の矢を見やる。
―――― これがはたしてどのような力を持っているのか。
それを知りたい人間は数多くいるだろう。手にしたいと思う人間はもっと多いかもしれない。
しかしアージェにとって、これはただの武器だった。彼は黒い短剣を白い矢に向かって振り上げる。
メルサルスは、彼が何をしようとしているのかを察したらしく、厳しい声を上げた。
「待て!」
アージェは手を止めない。並んだ矢へと剣を振るう。
紙のように薄い漆黒の刃は、まず一本目の矢を砕き割った。そのまま二本目を折り、三本目へと迫る。
メルサルスの声が聞こえた。
「来い!」
黒い剣が届く寸前、矢は台座から掻き消える。
アージェは何が起こったかを察して素早く振り返った。
剣と弓で切り結んでいたはずの二人―――― そのうちのメルサルスが、いつのまにか今までの矢とは違う矢を左手に握っている。
片腕を失った残滓は、大きく後ろに跳んでアリスティドから距離を取ると、アージェを睨んだかのように見えた。冷ややかな空気がその場に流れる。
「まさか勝負のつかぬうちからこのようなことをしてくれるとはな」
「騎士らしい振る舞いでも期待してたのか? 俺は目的が果たせればそれでいい」
「だがそれでは不信を生む」
メルサルスは小さくかぶりを振った。
神代より残された男の残滓は、何が起きたのか分かっていないらしい子孫と、アージェを交互に見やる。そしてその上で彼は、弓を手元から消してしまうと、残り一本の神具を掲げた。
「ならばこちらもやり方を変えよう。
 これは神より与えられた神具。貫通・裂破・腐食のうちの一本―――― 裂破の矢だ」
「神具!? それが神具だったのか!?」
「お前たち二人が剣を交え、勝った方にこれを渡そう。
 カルディアスの継承者よ……お前は逃げるのではなく、己の力でそれを為さなければならないのだ」
石室にしんと響く声には、人間の抱く苦味が満ちていた。
アージェはただの窪みである両眼を見返し、けれど何も言うことなく床に置いたままの自身の長剣を拾いに行く。
アリスティドは彼が剣を拾う姿を呆気に取られて見ていたが、アージェが体を起こすと率直に尋ねた。
「何故神具を壊したりしたのだ」
「何故? あんたはあれをどうするつもりなんだよ」
―――― 言葉を費やすことも煩わしい。言っても理解されないことさえある。
アージェはメルサルスの「新たなやり方」に乗ると、抜いた剣をアリスティドに向けて構えた。今まで静観していた人間たちが息を飲む。
「さっきは遠慮するって言ったけど、やっぱり決着をつけた方がいいみたいだ」
ちりちりと胸を焼く苛立ち。それは二年前の自分のものであろうか。
アージェはあの時自分がアリスティドに敗北し、ひどく腹を立てていたことを思い出した。
今度はその苛立ちを拭うことが出来るのか―――― 少年の彼が感情の波間に顔を出す。
「悪いけど、あの矢は俺が貰う」
勝ちたいと、口にはしない。思うだけで充分だ。
神具を破壊せねばという義務感。リィアたちを守らなければと思う感情。しかしそれらよりももっと単純で強い欲求が、アージェの中で頭をもたげる。
自分の無力さを食んで過ごした二年間。あの時からどう自分が変わることが出来たのか。
青年は過去の清算をするように剣を上げると、改めて己の力を示すべく、アリスティドに相対したのである。