記されぬ時 111

異能で作り出したのではない剣は、手触りといい重さといい、他の何よりもアージェの手によく馴染んだ。
青年はそれをアリスティドに向かって構える。
剣を向けられた男は秀麗な顔を顰めて、だが自身も剣を上げた。
異なる祖を持ち、異なる血脈の末端である彼らは、白い部屋で相対する。
上手く御しきれない苛立ち。それがちりちりと己の内を焼いていることに、アージェは気付いていた。
この感情が何に端を発するものなのか。おかしな依頼を受けてしまったせいか、おかしな男に再会したせいなのか。―――― 彼はいくつもの面倒を振り返る。
アージェは平坦な声音で告げた。
「一応断っとくけど、俺たちは遺跡探索の依頼を受けて来ただけだ。
 で、神具を壊したのは俺の独断。あとの二人は関係ないから終わったら帰してやって」
「分かった」
即答するアリスティドは、しかし表情を見るだにまた事態をよく飲み込めていないようである。ただ剣には剣を以って対するとだけ弁えているようだった。
一方アージェは、目の前の男を見ながら自身の業腹ともまた戦っていた。波打つ感情が、ささやかな疲労となって張り詰めた四肢に散っていく。
―――― 本当は、何が自分を怒らせているのか分かっているのだ。
メルサルスの言った言葉。「逃げるな」というそれが、アージェの精神を刺激し、苛立たせている。
勿論アージェ自身逃げたつもりはない。手段の正当性に拘って、それで皆が死んだら元も子もないと思っている。
だがメルサルスの糾弾は、彼が望んで負ったわけではないもの―― つまりは「継承者である」ということに背を向けるなと、そう忠告されているような気がするのだ。
捨てられた子供。殺された母。そして、女皇から差し伸べられた手。
アージェ自身がそれら一つ一つを望んだわけではない。
だが全ては、もはや捨てることも出来ない彼の一部だ。拭うことは出来ず、忘れることもない。
青年はそれを理解しながら―――― しかし継承者であることを本分として、生きることはしたくなかった。
負っているものに流されず、ただ立ちたいと思う。それははたして、逃げているということなのだろうか。
アージェは剣を構えたまま、深く溜息をつく。
「さっさとやろう。いい加減疲れてきた」
「何だかよく分からないが分かった。終わったらエルに説明してやってくれ」
「あんたは聞かなくていいのかよ……」
名前を挙げられたエルは「今説明して欲しい」というような顔をしたが、緊張状態に口を挟むことはしなかった。
祭壇近くにまで下がったメルサルスが、片手の中の神具に目を落す。
「始めよ」
温度のない声。
二千年近い昔から取り残された男は、今は何を考えているのだろう。
アージェは彼の声を頭の中で反芻しながら、ふと選出者たちは神の選択を喜んで受け入れたのかどうか、今更ながらに疑問に思ったのだった。



思考と感情はそれぞれ動けども、青年の意識は目の前の敵に向けて集中したままである。
アージェは軽く足で石床の感触を確かめると、ふっと肺の中の空気を吐き出した。前触れなく男の間合いへ深く踏み込む。
風を切る速度で振るわれた剣。刃同士のぶつかり合う金属音が、白い部屋に反響した。
それはこの場に居合わせた人間たちに、現実を思い出させる力を持っている。
アージェは受け止められた剣にそれ以上力を込めることはしない。力比べをするのではなく、巧みに剣を切り返してアリスティドの速度を上回ろうと狙った。
正面に、肩口に、脇に振り下ろす刃。しかしアリスティドはその攻勢にぴたりとついてくる。
十数合にも及ぶ打ち合いは、アージェの性格を反映してか、苛烈さより淡々とした隙のなさの方が目立った。
鋭く突きこまれた長剣を外へと弾いたアリスティドは、素早く剣を引くアージェに感心の目を向ける。
「鍛錬を怠らなかったようだ。よい腕になっている」
「口で評価されても嬉しくないな。あんたまだ本気じゃないだろ?」
「私はいつでも割りと本気だ! ちょっと気合の量が違うだけで」
「何でも気合で片付けんなよ」
吐き捨てると同時にアージェは右足で踏み込んだ。
半身になりながらの突き。アリスティドの顔面を狙ったそれを、男は身を屈めて避ける。
アリスティドは、一瞬無防備になった青年の胴目掛けて剣を薙いだ。アージェは大きく右に飛んでそれを避けようとする。
「……くそっ」
普通の傭兵や騎士が相手であれば、避けきれたであろう斬撃。
しかしそれは、アージェの腹に浅い傷をつけていった。動きを制限されることを嫌って軽い皮の胴当てをつけていた青年は、ぱっくりと鎧に斬り筋が開いているのを見て嫌な顔になる。その下から溢れてくる血が思いの外少ないのは、リィアがかけてくれた結界の為だろう。
―――― 幸い痛みは強くない。
アージェは追撃で返ってくる剣を、己の長剣で受けた。力を込めてそれを押し返しつつ、アリスティドの右手首を蹴り上げる。
騎士であればまずしないだろう攻撃に、男は意表を突かれたらしい。アリスティドは咄嗟に腕を上げて衝撃を受け流したが、軽く痺れでもするのか左手で手首を押さえた。アージェはその隙を見逃さす、素早く長剣を切り上げる。鋼の切っ先は、ぎりぎりで体を反らしたアリスティドの前髪を散らした。青年は更に追撃の剣を振るう。



宙に弧を描く軌跡。
雑音は聞こえない。
ただ自分の息の音だけが思考に届く。血の流れる生温かさが鼓動を思わせた。
―――― こうして剣を振るっている間は、少なくとも多くを考えていない。
目の前を、今だけを見ている。
そうしていられることは、ほんの少しだけ……楽だった。
アージェは男の右肩を狙って剣を切り下ろす。アリスティドが半身になってそれを受け流そうとした瞬間、腕を返し逆に切り上げた。宙に鮮血の飛沫が飛ぶ。
アリスティドは己の右腕の裂傷を見やると、楽しげに笑った。
「面白くなってきたぞ!」
「いや全然」
「一対一で傷をつけられたのは久しぶりだ」
僅かに低くなる声。アージェは続く変化を予感し、気を引き締めた。アリスティドを注視する。
―――― 二年前の記憶が正しいのなら、彼の剣は本来もっと速い。
今までは単に、アージェの腕を見る為に防戦に回っていたのだろう。アージェ自身最初からそのことに気付いていた。青年は忌々しさを覚えつつ剣を握る手に力を込める。
最初の一撃は、踏み込みとほぼ同時であった。
気を抜いていればまったく対応出来なかったであろう切り下ろし。恐ろしい速度で襲ってきた刃を、アージェは剣で斜めに受け流す。
しかしそうして力を反らしたにもかかわらず、斬撃の強烈さは彼の長剣を軋ませた。
息つく間もなく振るわれる二撃目。アージェはそれを剣の根元近くで弾く。アリスティドはけれど、そこで終わることなく角度を変えアージェの首を狙った。あらかじめそこまでを読んでいた青年は、身を反らして相手の剣に宙を切らせる。

間断なく響き渡る金属音。澄んだ鐘を奏でるように続くそれは、周囲で見守る人間たちに息を飲ませた。
少しでも判断を迷えば決着がつくであろう切り合い。数十合に及ぶそれは、しかし唐突に終わりを告げる。
激しい攻勢を前に防戦に回らされていたアージェは、刃のぶつかりあう音に微かな濁りを感じ取った。自分の体同然に扱っている長剣へと目をやり、そしてぎょっと瞠目する。
「ちょ……っ」
よく手入れしてきた両刃の剣。その剣身の半ばほどに、いつの間にか薄く皹が入っていた。
襲い掛かってくる剣を咄嗟に長剣で受けたアージェは、皹が更に広がる様を見て息を飲む。
いくらアリスティドの剣が苛烈といっても、それだけが原因ではきっとないだろう。以前遺跡で父の剣を駄目にしたように、ここに来るまでの戦いで少しずつ限界に近づいていたに違いない。
アージェは思わず左手を見やったが、澱を減らされた今の状態では満足な剣は作れなそうだ。
彼は、相手の剣を受けるごとに深くなる亀裂に、自分でも気付かぬほど動揺する。
塵となって零れ出す破片。動きを鈍らせるアージェに、アリスティドは涼やかな声を投げた。
「もういいのか? 終わりにするのか」
「俺は……」
頭上に振りかかる剣。強力な一撃は、受けてしまえば剣身が折れてしまうことは明らかだった。
アージェは一秒よりも短い時間、己の命と愛剣を天秤に賭ける。
考えるまでもないとリィアなら言うだろう。だがアージェはその一瞬、確かに迷ったのだ。

思考以前の衝動。
喪失の破片。
もはや聞くことの出来ない声が頭の中に響く。
届くものはない。
取り戻せるものも。
逃げているのは何からか。
彼は溺れる人間のように天を仰ぐ。
身に染み付いた動作。
命を拾う為に、肉体は自ずから動く。
上げられた右腕。
そして剣は―――― 彼の眼前で砕け散った。



武器を失った青年。反射的にアリスティドから距離を取りながらも、どこか愕然としているような彼に、男はそれ以上剣を振るおうとはしなかった。アリスティドは祭壇を振り返り、メルサルスを見やる。
「これでよいのか? 勝負はついたぞ」
「……よかろう。お前に神具を継承させる」
メルサルスは白い右手を伸ばした。白い掌から輝く矢がゆっくりと浮かび上がる。
それは宙を移動すると、きょとんとしているアリスティドの手の中に収まった。男は手にした矢を目の上にかざしてみる。
「どう使えばいいんだ? 普通に射てもいいのだろうか」
「―――― お前の好きにするといい」
眠りに落ちる寸前のようなメルサルスの声は、その終わりと共に白い体そのものも掻き消していった。
風に吹かれた灯火のように、選出者の残滓は空気中に溶け入って見えなくなる。
アリスティドは目を丸くして叫んだ。
「エル! いなくなってしまったぞ!」
「そ、そのようですね……。殿下、お怪我は」
「ちょっとあちこち切れてるだけだ。大丈夫」
「治します」
主君へと駆け寄った女は細かい裂傷を魔法で治す。
その様をアージェは視界に入れながらも、何の感慨も持てないでいた。折れてしまった剣を見やる。
飲み込む息は言葉にならない。彼は目を閉じ、歯を食いしばる。
軽くなった剣の重みはそれ以上、何も伝えてはこなかった。