記されぬ時 112

神具の矢が継承者に継がれた。
その事実は、室内の全員が理解するところであった。彼らは息を飲んでアリスティドを注視する。
稀に歴史の表に出でて戦乱を薙ぎ払ってきたというそれが、今また一つ人の手に渡ったという現実。
その重みは、彼ら全員の双肩にのしかかった。
或いは、一番それを何とも思っていなかったのはアリスティド本人かもしれない。彼は手にした矢を無造作にエルに手渡す。彼女は恐る恐るといった様子で神具を受け取ると、それを見下ろした。
「で、殿下。これはどうすれば……」
「とりあえず持って帰ろう。父上や兄上がお喜びになるかもしれない。
 ああ、フィレウスも神具を欲しがっていたかな」
「か、かしこまりました」
エルは腰に下げていた袋の中から赤い布を取り出すと、丁寧に矢を包んだ。そうして魔法士のローブの隙間、自身の懐に入れる。彼女は服の上から胸に手を当て神具を確認すると、改めて主君に問うた。
「彼らの処置はいかが致しましょう」
「ああ」
言われてようやくアリスティドは、リィアやユーレンに注意を払う。それぞれ壁際にいる彼らは、ユーレンは緊張に満ちた真剣な目で、リィアは不満と怒りの目で、アリスティドを見ていた。彼は軽く首を傾げる。
「遺跡探索の依頼を受けただけと言っていたか? ならば厳重注意のみでよいのではないか?」
「依頼主を聞きませんと」
「そうか。そうだな。メルシア嬢は盗まれた品を探して来たと言っていたが」
「盗まれた品? それって一体誰が……」
食い違う認識にリィアが訝しむ声を上げた。アリスティドは不躾な質問に答えようと口を開きかける。
その時、閉ざされていた扉がゆっくり開き出した。自然、彼らの視線は一人を除いてそちらへと集中する。
先程から動かないままのアージェは、伏せた目で床上の剣先を見つめていた。

剣を失った。
それは本来なら、このように気に病むようなことではない。
アージェの剣は、彼の手によく馴染む良質な一振りではあるが、ものとしては何の変哲もない長剣なのだ。
けれどそれはまた、彼にとって代わりのないものでもあった。
今は亡き男がくれた剣。刻まれた記憶は、青年の目に幾つかの破片となって映っている。
アージェは、手元の折れた剣を見下ろす。皹の入った剣身。そこに自分の愚かさが映るようで、青年は息をついた。
―――― 結局は何も飲み込めていなかったのかもしれない。
ダルトンはこの剣をアージェに与えながら、一つの武器に拘るなと言った。
それだけではなく彼は、そもそもアージェが傭兵になることを勧めてはいなかったのだ。
しかし彼はその言葉を覚えていながら何一つ言う通りにしてはいない。今も何処かで喪われた彼らの足跡を辿っている。
そうして彼は、死者の姿を意識しながら今まで歩き続けてきたのだ。あの暗い森が密やかに彼の運命を決定づけた夜から、ずっとずっと。
青年はかぶりを振ると、白い祭壇に歩み寄った。矢の立てかけられていた銀格子に触れる。
ひんやりとした感触を伝えてくる神代の一片。アージェはその格子に、折れた剣を立てかけようとした。
だが背後が急に騒がしくなり、青年はようやく開いた扉の方を振り返る。
「何だ?」
聞こえてきたものは女の悲鳴だ。
アージェは、それがエルのものだと判断すると顔を顰めた。折れた剣を鞘に戻すと、代わりに短剣を抜く。
隣の部屋で何が起きているのか、アージェのいる位置からは角度的に分からない。
青年は、まだ部屋の中にいるユーレンに駆け寄った。男は扉の向こうからは死角になる柱の影に隠れ、蒼白な顔色をしている。アージェは騒がしい空気を感じながらも、まずは状況を把握すべく声を潜めて彼に問うた。
「どうしたんだ?」
「コ、コダリスが来たんです」
「は? コダリスが? 何で?」
「彼女が……私たちについて来た彼女が、コダリスの王女だったんです」
「え? リィアが? ってそんなわけないか……。悪い、よく分かんない」
アージェはいまいち事態を飲み込めず首を傾げる。改めて詳しいことを聞き出そうとした時、だが扉の向こうから激しい怒声が聞こえてきた。続く剣戟の音に、彼はさすがに話をしている場合ではないとその場を駆け出す。

そうして隣の部屋に踏み込んだアージェの見たものは、やはりすぐには理解出来ない光景であった。
先程まではいなかったはずの騎士が十数人、武装した姿で居並んでいる。
アージェは彼らを一瞬セーロンからの応援かと思ったが、その考えは即座に間違いと分かった。
もし騎士たちがセーロンの人間であるなら、アリスティドに剣を向けているはずがない。第一、扉の外に取り残されていたはずのセーロン騎士たちは皆、物言わぬ躯となって部屋の隅に転がされていた。
アージェは、物々しい空気を醸し出す騎士たちの中で、一人悠然と立っているイリデアを見やる。
束ねられていた亜麻色の髪は、今は艶のある波を作りながら下ろされていた。それだけで彼女の雰囲気はまるで別人のように色を変えている。イリデアはアージェの視線に気付くと妖艶な笑みを浮かべた。
しかし彼女はすぐにその視線をアリスティドへと戻した。剣を右手に持ち、床に膝をついている男は、どうやら左腕に倒れたエルを抱えているようである。先程の剣戟音は、彼が襲ってきた騎士を切り払った為のものだろう。アージェはちらりと見える彼女の服に、血が滲んでいるのを見て眉を上げた。
イリデアがよく通る声で笑う。
「何処にでもすぐ来ては危ないと、あなたも身に染みたのかしら? 次に生かせなくて残念ね」
「……エルを傷つけたな」
「その女が自分であなたを庇っただけでしょう。もっとも死ぬ順番が多少変わっただけのことだけれど」
女の冷然とした声は、この場を支配し運命を左右する者の傲慢さがあった。
思わず口を出しかけたアージェは、けれど背後で「やな女……」という呟きを聞き振り返る。
そこには壁際で様子を見ていたらしいリィアがいて、彼と目が合うと更なる悪態をつきたそうな顔になった。
青年は彼女に、ユーレンにしたのと同じ質問をする。
「どうなってんの?」
「見たまんま。君、ちゃんと話についてきててよね。
 ―――― 私たちを雇ってここに送り込んだのは、コダリスだったみたいよ。あの女が王女。
 で、正規軍の応援が来てちょうどいいから、目障りなセーロン王子を排除しようってところ。
 ……多分私たちもその後で殺されるだろうけどね」
リィアはお手上げとでも言うように両手を上げると壁に背を預けた。細められた目がアージェを見上げる。
「何か策ある?」
「ない。転移陣の部屋に入れればいいんだろうけど」
それはしかし、相手方も承知しているところなのだろう。草花の彫られた扉の前には剣を抜いた騎士が三人立っている。
今は短剣しか武器を持っていないアージェは、この状況で突破はまず不可能だ、と判断した。
彼は、自分たちよりも先に窮地に立たされているアリスティドの背を見つめる。
―――― 彼一人であれば或いは、転移陣のある部屋まで突破出来るかもしれない。
しかしアリスティドは、自らを庇って負傷したエルを置いていくことはしないだろう。そして彼女を連れては、さすがにこれだけの人数の騎士を下すことは難しい。
そのようなことを考えながら、アージェはふと忘れるはずもない存在のことを思い出した。リィアにしか聞こえぬ声で囁く。
「そうか……神具がある」
「あの矢? 確かにコダリスは神具の存在に気づいてないみたいだけど。あれ、どうやって使うの?」
「分からない。適当にやってみるしかない」
いずれも強力すぎる力を持っていたという神具であれば、この状況をひっくり返せるかもしれない。
しかしそれには、何とかアリスティドと意思の疎通を図らねばならないだろう。
アージェはそのようなことが可能なのかどうか、不安を抱きつつも二人に近づこうと動き出した。イリデアに気付かれぬよう慎重に距離を詰めていく。その間にも、彼女とアリスティドは刺々しい応酬を続けていた。
「お前はこんなところまで来て何を企んでいる。悪いことはよせと、父親にも言った方がいいぞ」
「お父様は愉しんでいるわ。あなたをこんなところで殺せるんですもの」
「いくら美人の希望でも、私に殺される予定はない」
「人の多くは予定外な死を迎えるものよ」
イリデアはそこで言葉を切ると、不意にアージェを見た。
足音を殺して前進していた彼は、内心ぎょっとしつつも平然と彼女を見返す。イリデアは唇の両端を上げて笑った。
「あなたは……助けてあげてもいいわ。私の言うことを聞くのならば」
「言うこと? 何?」
「私のものになりなさい」
「は?」
反射的に上げた声は、繕いのないぶっきらぼうなものであったが、イリデアはそれでは不機嫌にならなかった。無知なる子供に慈悲を与えるかのように、彼女は言葉を変えて言い直す。
「コダリスに来て、私の騎士として私に仕えなさい。不自由のないよう飼ってあげるわ」
「何だそりゃ。何で俺なんだよ……」
まるで装飾品と同列に言われ、呆れと不快にアージェは女を睨む。
第一何故騎士が必要なのか。既に彼女には多くの人間が仕えているだろうに、意味が分からない。
単に優越感を味わいたいだけならばアリスティドを連れて行けばいい―――― そう言ってやりたくなったアージェは、けれど続く理由を聞いて表情を変えた。イリデアは可笑しそうに笑う。
「あなた、本当は女皇の騎士になる人間なのでしょう? あのレアリアとかいう成り損ないの。
 面白いわ。影を奪われた女皇なんて聞いたこともない。ねぇあの女、あなたを見たらどんな顔をするのかしら?
 あの人形みたいな成り損ないが」
「黙れよ」
半ば酔っているようなイリデアの弁舌を遮った声。そこには抜き身の剣のような怒りが込められていた。
彼女はそのことを軽く笑おうとし、だがアージェに睨まれ、続く言葉を飲み込む。
強い感情を燻らせた暗緑の瞳。青年は険を和らげることなくイリデアを見返した。言葉が自ずから口を滑り落ちる。
「あいつをそんな風に呼ぶな」
「な……」
『成り損ない』と。ユーレンからその話を聞いた時、彼がどれだけ理不尽に苛立ちを覚えたか。
思い出す淋しそうな女の横顔。アージェは湧き上がる感情に、己のことを言われた時よりもずっと頭の奥が熱くなっていくのを感じ取っていた。
言葉を失くすイリデアに向かって、青年は冷ややかな声で宣言する。
「俺は騎士にはならない。あんたに仕える気もさらさらない。
 脅されたって変わらない。論外だ」
「お前……」
「それに……レアは主人じゃないけど、俺の友人だ。―――― あいつの敵に回るつもりはない」
完膚なきまでの拒絶。
イリデアの顔が歪んで赤く染まる。断られることなどないと信じきっていたのだろう。
アージェはそれを他人事のように眺めつつ、けれどひどく自然な所作で、アリスティドに向かって一歩を踏み出した。