記されぬ時 113

イリデアにとってそれは、生殺与奪を握った上でのいわば慈悲であったのだろう。
断られるはずもないと思っていた誘いをにべもなく拒絶され、彼女は顔をどす黒くした。嬲るような補食者の目でアージェを撫で回す。
「そう。そういうこと? お前、命が要らないのね?」
「いや、要るけど」
「どう見ても自殺志願者だよね、君。折角助かりそうだったのに」
さらりとしたリィアの感想にアージェは振り向かぬまま肩を竦めた。魔法士の女は変わらぬ調子で続ける。
「でも、見直した。後ろ向きに前向き」
「そりゃどうも」
アージェはアリスティドの斜め後ろに立つ。男の肩越しに覗き込むと、エルは苦しげな呻きを上げながら主君の膝上に頭を乗せていた。激しく上下する背は見えるが、矢をしまった胸元は窺えない。だがアリスティドであれば、それを取り出すことが出来るだろう。青年は男の背に囁いた。
「矢を使え」
「矢を?」
いくらおかしな男でも、それが何の矢であるかはすぐに分かったらしい。
アリスティドはじっとエルを見下ろし、だが一向に神具の包みを取りだそうとはしなかった。
イリデアが朗々とした声を上げる。
「お前たちの死体は、あのおかしな猿たちにでもくれてやるわ。ルエンの気持ちを味わいなさい」
死体になっていたら気持ちを味わうも何もないのではないかと、アージェは思ったがわざわざ口にはしなかった。動かないアリスティドを小声でせき立てる。
「早くしろよ。死人が増えるぞ」
「だ、だが」
「何だよ。神具だってようは使い方次第だろ。この際贅沢言ってられないぞ」
「だが、女性の、それも目下の人間の胸を勝手にまさぐるなど、王族として許されることではないぞ」
「…………」
アージェは無言で拳を作ると、それをアリスティドの後頭部めがけて振るった。
ぐはっ、と声をあげてのけぞる男に、イリデアでさえも目を丸くする。
アリスティドはすぐに頭を押さえて顔を上げた。
「何をするのだ!」
「いやもう何か色んな鬱憤が溜まって……。いいよ、俺がやる」
「待て! エルに触るな!」
「もう一発殴っていいか?」
突然押し問答を始めた二人に、周囲の人間は呆気にとられていたが、気を取り直したイリデアが二人を指さすと、場の空気は元の緊張状態に戻った。
シャーヒルの娘である彼女は、美しい貌に嗜虐的な炎を揺らめかせて宣告する。
「最後の言葉を聞いてあげるわ。命乞いでもいいけれど」
大きく開けられた胸元、蜘蛛の入れ墨の上を女の指が這う。
アージェは左手でアリスティドの肩を握りつぶしながら、半眼で女の様子を窺った。
痛いとも何とも言わないアリスティドが先に口を開く。
「私の言いたいことは、『もうちょっと待ってて』だ!」
「そう。嫌よ」
すげない拒絶は先程の仕返しであるのかもしれない。
アージェはけれど、イリデアの方をまったく見ていなかった。
彼はアリスティドの腕の中のエルをじっと見やる。表情は見えない。ただ何をするかは分かっていた。
イリデアは、アージェが自分の方を見る気がないと分かると、冷えた目になった。周囲の騎士たちに軽く手を振って命じる。
「殺しなさい」
居並ぶ白刃が殺気を込めて上げられた。壁に寄りかかっていたリィアが体を起こし、ユーレンが隣の部屋から顔を出す。
アリスティドに付き従っていた最後の騎士が、主君の隣で剣を抜いた。
全員がそれぞれの目的に向かい動き出した一瞬、その中の一人であるアージェは、持っていた短剣を素早くイリデアへと投擲する。
「な……っ!」
さすがにそう来るとは予想してなかった彼女は、突然の攻撃に逃げることも出来ず立ち竦んだ。二人の騎士が咄嗟に主人を庇い前に立つ。
弾かれる短剣。だがそれは最初から、単なる時間稼ぎの意味しか持っていなかった。
今まで動かずにいたエルが顔を上げ、懐から取り出した包みをアリスティドに渡す。
それが何であるか、分からないまでも異様さは感じ取ったのだろう。コダリスの騎士二人はアリスティドを止めようと斬りかかった。しかしそのうち一人はセーロンの護衛騎士に止められ、もう一人はリィアの魔法に打たれる。
そうしている間にアリスティドは、布の中から白い矢を手に取った。
「裂破」と言われる矢。男はそれを振りかざすと―――― 真っ直ぐに、目の前の床に向けて突き下ろす。
鏃が床に刺さる直前、男の動きを見たアージェは絶叫した。
「阿呆か! 何でそんな近くで―――― 」
そこから先は激しい破裂音にかき消される。
鏃の激突した一点。そこを中心として石床が砕け飛ぶのを見たアージェは、混乱の中確かに記憶の断裂を迎えたのだった。



全身が痛い。壁へと叩きつけられた衝撃に、すぐには声も出ない。
不可思議な力に巻き込まれて壁に激突したイリデアは、しかしそれでも確認したところ、怪我らしい怪我をしてはいなかった。おそらく彼女を庇う騎士の体が衝撃のほとんどを引き受けてくれた為だろう。
イリデアは男の腕の中から脱すると、ぐったりと動かない彼を揺すった。
だが騎士は既に事切れているようで何の反応も返してこない。イリデアは赤い唇をきつく噛む。
「何があったの……? あの矢は一体……」
呟いてはみたが、答が返ってくるわけでもない。彼女は立ち込める砂煙の中、変わり果ててしまった室内を見渡した。
崩れかけた壁や床。それらのところどころには大きな穴が開いており、大きな石や破片があちこちに転がっている。
白い瓦礫に混じって四肢を垂れた騎士たちがそこかしこで倒れており、そのほとんどは一目で絶命していると分かるほどだった。
イリデアは衝撃で痛めたのか、上手く動かない足を引き摺りながら立ち上がる。死した騎士の手から剣を拾い上げた。
―――― まずはアリスティドの生死を確かめなければならない。
あの矢が爆発の中心であるのなら、そこにいた男は普通に考えれば死んでいるはずである。
だが、何の対策もなくあのようなことをするとは思えない。無事である可能性も高いだろう。
イリデアは、誰か騎士の生き残りがいないか呼び起こそうとしたが、その声で敵である者たちを起こす可能性もあると気付いた。仕方なく自らアリスティドの姿を探し始める。彼女は、まだ視界の悪い部屋の中を、足下に注意して進んでいった。
―――― 完全に優位に立っていたはずだったのだ。
あのおかしな部屋にアリスティドたちが入ってから、イリデアのもとには本国からの応援がやって来た。
彼らを使いセーロンの人間たちを殺し、後はアリスティドを殺せば終わるはずだったのである。
しかし彼女の思惑は外れ、事態はよく分からぬことになってしまっている。
イリデアは自然沸き起こる苛立ちを、アリスティドともう一人、自分を拒絶した青年へと向けた。どのように彼らに後悔をさせてやろうか、惨たらしい手段を幾つも思い浮かべる。

徐々に晴れていく砂煙。
動くものの気配はまだない。イリデアは剣で体を支えながら進む。彼女は足首の痛みに、ほうと息をついた。
その時、不意に塵煙の中から何かが突き出される。
真っ黒い何か。思わず身を硬直させた彼女は、首筋に突きつけられてからそれが漆黒の刃であると理解した。
途中から折れた剣身となっているそれは、長身の青年の手に握られている。
イリデアは声もなく彼を見上げた。暗い緑の瞳が物を見るような目で彼女を見返す。
首の後ろの毛が逆立つような緊張感。女は、自分の命が相手に握られていることを悟ると、喘ぐように問うた。
「私を……殺すの?」
「いいえ」
すぐ返って来た返事にイリデアは安堵した。だが体から力を抜こうとした時、不思議な違和感に気付く。
彼女はもう一度よく目を凝らして青年を注視した。
「お前、何か感じが……」
「殺さない。お前はいい器になりそうだから。―――― ちょうどよかった」
イリデアの話をまったく聞いていない述懐。彼女はそのことに本能的な恐怖を覚えた。目の前の青年から遠ざかろうと後ずさる。
しかしそれよりも一歩早く、大きな手がイリデアの顎を掴んだ。無礼を非難する間もなく相手の顔が近づく。
「……っ!」
重ねられた唇。割って入る舌に口をこじ開けられたイリデアは、次の瞬間何かが入ってくる気配に戦慄した。
熱い、圧倒的な激情。それに類するものが男の中から彼女の喉の奥へと注ぎ込まれていく。
イリデアはそれから逃れようと暴れたが、相手は抵抗を許さなかった。黒い左手が彼女の腕を固定する。
精神の侵食。数秒の後解放された彼女は、涙の滲む目でえずいた。入ってきた「何か」を吐き出そうと、四つ這いになって喉を鳴らす。
だがそれは一向に外に出ようとはしない。男の冷ややかな声が彼女の頭上に降った。
「その体をあげる、ダニエ・カーラ。あとは好きになさい」
「―――― いいわ。これで我慢してあげても」
自分の声ではない声。愉悦に満ちた女の声が自分の口から紡がれたことに、イリデアは蒼白になる。思わず喉を押さえたが、それは何の制止にもならなかった。初めて聞く女の声が頭の中で響く。
『これからゆっくり調教してあげる』
「何よこれ!? 何なの!」
イリデアは頭を抱えて絶叫したが、くすくすと笑う声は内側で反響したままだ。彼女は震える体を縮込めて嗚咽を上げる。
彼は感情のない目でその姿を一瞥すると、踵を返した。



混乱と恐怖に泣く女の声だけが響く中、一人悠々と歩き回る彼は、瓦礫の隣に倒れている男女を見つけて足を止めた。
怪我をしている魔法士の女と彼女を庇うように抱いている男。アリスティドとエルを、彼は見下ろす。
爆発の中心にいた二人は、しかし死んでいるわけではない。エルが張った結界によって最悪の事態は免れ、気絶しているだけである。
彼はそのことを見て取ると、左手に持つ剣を上げた。半分だけの黒い剣身をアリスティドに向けて構える。
「やめなさいよ」
唐突な制止は壁際から聞こえた。
彼は顔を上げ、埃の中へと目を凝らす。
そこにはやはり結界を張って耐えたリィアがいて、探るような目で彼を見ていた。
リィアは乱れた髪を払うと「なるほどね」と呟く。
「あんた、アージェじゃないでしょ」
「どうしてそう思う?」
「感じが全然違うし。あんた女でしょう?
 ―――― それもきっと、アージェの母親を殺して左手に棲んでた女。違う?」
真実に限りなく近い指摘。
魔法士の推察に「彼女」は薄く微笑む。青年の顔が、本人ならばしない酷薄な笑みを湛えた。
リィアは薄ら寒そうに顔を顰める。
「勝手に体動かすとかやめたら? あんたが殺したって、結局はアージェが殺したことになるんだし」
「そうね。よくないわね」
「分かってくれたらさっさと戻って欲しいな。悪いけど気持ち悪い」
物怖じしていないようにも聞こえるリィアの声には、しかしこの時、微量の緊張が混じっていた。
僅かな恐れに気付いた「彼女」は微笑むと、上げたままの剣を見やる。そしてそれを、真っ直ぐ下へと振り下ろした。
黒い切っ先がアリスティドの鼻先、落ちていた白い矢へと突き刺さる。
砕け散る矢。あっさりと為された神具の破壊に、リィアは息を飲んだ。「彼女」はアージェの顔で悪戯っぽく笑う。
「今のうちに転移陣で外に出ましょう。彼らが目覚める前に」
「いいけど……あの女は放っておいていいの?」
リィアが指したのは泣いているイリデアである。「彼女」は肩越しに振り返ると「どうせ勝手に帰るでしょう」と事も無げに片付けた。
「彼女」は、リィアの結界に庇われ気絶しているユーレンに近づくと、その体を肩に担ぎ上げる。
まるで味方であるかのような行動。
そのまま転移陣の部屋へと向かう「彼女」を、リィアは胡散臭いものを見るような目で見やった。それでも大量の死体やアリスティドたちと残りたくはないのか、溜息混じりに後をついていく。
「彼女」は転移陣を前にリィアを振り返ると、青年の声で言った。
「外に出たら私は引っ込むから。転移門を開いて二人を逃がして頂戴」
「別にいいけど。……ねぇ、あんた一体何なの?」
それは、アージェ自身気になっていることであろう。
期せずしてそのことを尋ねる機会を得られたリィアは、内心の緊張を抑えて「彼女」を見上げた。暗い緑色の瞳が穏やかに笑う。
「私は―――― 」

そして知った真実を、けれどリィアは結局、アージェに教えなかった。