記されぬ時 114

アージェが意識を取り戻した時、彼らがいた場所は、小さな町の宿の一室であった。
寝台の一つに寝かされていた青年は、体を起こし室内を見回す。
何の変哲もない部屋。もう一つある寝台にはユーレンが仰向けに眠っており、その傍では椅子に座ったままリィアが転寝をしていた。
何がどうなって今に至るのか、さっぱり思い出せない彼は首を捻る。
アージェはとりあえず寝台から立ち上がると、眠っているリィアを抱き上げ、空いた寝台に移動させた。
それ以上やることも思いつかない彼は、とりあえず身の回りのものを確認する。
―――― なくなったものはない。折れた剣は元通り鞘に入っている。
依頼があのようなことになってしまった以上、前の宿屋に預けていた荷物を取りに行くことは難しいだろうが、こうなる可能性も考えて大事なものは元から持ち歩いていなかった。つまり、今回の被害はただ働きをしてしまったということに尽きるだろう。
アージェは腰の鞘に手を触れ息をつく。
失ってしまったものもあるが、それは遅かれ早かれそうなるはずだったものだ。ぽっかりと空いた喪失感も時間をかけて消化していくしかない。
彼はそう納得するとぼやける頭を振って―――― だが小さな違和感に気付いた。
意識を研ぎ澄まし、しきりに首を捻り、だがそれでも感じ取れない存在に愕然とする。
「……ダニエ・カーラ?」
普段であれば絶対呼ばない名。呼んでしまえば最後彼を苛む名に、けれど答える声はいつまでも返ってこない。
アージェはこめかみを押さえて呆然とした。
「何だ……何があった?」
小さな呟きには誰も答えない。
ただアージェは、己の内で誰かが沈黙する気配を感じて……奔放であった残滓がもういないのだということだけを知ったのだった。



結局彼が、自分の意識がない間に何があったのかを知ったのは、昼過ぎになってリィアが目覚めた後のことだった。
「彼女」がダニエ・カーラをイリデアに移し、遺跡を脱出したと知ると、アージェは複雑な表情になる。
「何か自分が勝手に動いてるってぞっとしないな」
「私も君が女言葉で話してるの見て気持ち悪かったよ」
宿の部屋に食事を持ち込んでの事後報告は、先程からアージェとリィアばかり話をしている。
ユーレンは食事もそこそこに遺跡内の調査書作成に夢中になっており、青年はそんな男の横顔を見て溜息をついた。
「まぁ神具が壊れたっていうなら結果としては問題なしか」
「私は問題あるわよ。報酬半分貰い損ねたし。最悪」
「あれ、前金貰ってたのか」
「あったり前! 転移使える魔法士は安くないんだよ」
「確かに」
アージェは頬杖をついて天井を仰ぐ。
報酬についてはユーレンもそれ以上のものを遺跡の中で得たと考えているようであるし、損をしたのは彼だけなのかもしれない。
だがアージェも、今回いくつか新たに知ることがあったのだ。
それは彼が、前から知りたがっていたことというわけではないが、知ってよかったという気もする。
あとは残る疑問がいつか解消されるか否かだが、神代のことなどについてはその可能性も低いだろう。
アージェはレアリアに会いに行ってまで遥か昔のことを知りたいとは思っていなかった。
無表情で食後のお茶を啜る青年を、リィアはじっと見つめる。
「君さ」
「うん?」
「やっぱりケレスメンティアに行った方がいいんじゃない?」
「何だそれ。何で?」
いささか驚いてアージェが聞き返すと、彼女は言葉を濁してかぶりを振った。
「何となく。女皇のこと大事にしてるみたいだし」
「大事っていうか……頑張ってるんだろうなと思う。……それだけだ」
「そう? でも君は―――― 」
リィアはそこで言葉を切る。当たり障りない言い回しを探しているような彼女は、結局そのまま黙してしまった。
はっきりとしないものが沈殿し、皮相だけは穏やかに思える空気が部屋に流れる。
アージェは急ぐわけでもなくお茶を飲みきると立ち上がった。リィアが怪訝そうな声で問う。
「何処行くの?」
「外回ってくる。武器屋があったら剣を買わないと」
「ああ、そうか。行ってらっしゃい」
リィアは軽く手を振ったが、ユーレンはよっぽど集中しているらしく青年の動きに気付いていないようである。
アージェは苦笑して宿の部屋を出て行った。

路地を抜けていく風が心地よい。
アージェは丸一日ぶりに浴びる日の光を感じながら、小さな町を散策した。
セーロンより北の小国だというここは、少なくともここ数年は戦乱に見舞われていないようである。
平和そのものの街角を見やり、彼は郷愁に似た気分に浸った。連れ立って駆けて行く子供の影が、石畳に長く伸びる。
―――― たとえば生まれた時に全てが決まって、それに疑問を持たないでいられたのなら。
彼とその周囲はもっと上手く回ることが出来ていたのだろうか。アージェはふとそんなことを考える。
分からないことだらけの中で、一つ一つに足を止めながら歩いていく現在。
その続きが何処に繋がっているのか、今はまったく予想がつかない。おそらく回り道も多いのだろう。
しかしそれが迂遠と分かっていても、割り切ることの出来ぬものもまた多いのだ。
アージェは軽くなった腰の剣に手を触れる。生まれた時から回り道など許されなかったのであろうレアリアのことが思い出された。
―――― 不当に彼女を謗られることが不愉快ならば、傍に行って支えてやればいい。
それが一つの結論であることは分かっている。だがその為に一国に属し、騎士という枠組みに自分を入れることは、アージェには抵抗があった。
彼にとって「騎士」とは、決して清廉な存在ではない。主君に盲従し他を踏み躙る欺瞞の力でしかないのだ。友人の為とはいえ、普段から嫌っているものに自分がなりたいとは思わない。
そしてそれは―――― きっとレアリアも同じなのだろう。
彼女は彼のことを友人と思ってはいても、周囲に謗られ孤独に苛まれても、国を捨て責を捨て彼と共に行こうとは考えない。
それぞれの精神を抱えた二人はつまり、最初から交わらない道を歩いているのだ。
柔らかなそよ風。目を伏せたアージェは一瞬、かつて少女の手を引いて町を歩いた時のことを思い出した。
無知のままでいられた時代。些細なことで喜んでいた彼女の笑顔を想起する。

貴重な記憶の断片。アージェは我知らず溜息をついた。そうして吸い込んだ風に、だが不意に甘い匂いが混じる。
記憶に残るそれを嗅ぎ取ったアージェは、反射的に後ろを振り返った。気配なくそこに立っていた少女を睨む。
「お前……」
「二日ぶり? また会ったわね」
金の瞳を持つ少女。二日前には遠い町で出会った少女に、アージェは警戒心を高めた。
偶然というには不自然な再会。青年は腰に提げた短剣を意識する。
彼女はアージェの敵意を感じ取ったのか、おどけた仕草で両手を上げた。
「別に何もしないって。ただちょっとさ、必要なものがないか聞きに来ただけ」
「何もない」
「そう? その剣、もう使えないみたいだけど?」
鞘に差したままの柄、折れているとは分からないはずの剣を指してそう言われ、アージェは息を詰めた。正体の知れぬ少女を見据えたまま、低い声で問う。
「お前は何だ?」
「あら。そういやまだ名乗ってなかったわね。私の名前はルクレツィア。別大陸の魔女よ。
 それともあなたにはこう言った方が分かりやすいかしら。
 ―――― 西の主神アイテアの末娘、クリュアと」
「……は?」
言われたことが理解出来ない。アージェの頭の中はその一瞬、半ば真っ白になった。
だがもう半分の思考で彼は一つの話を思い出す。
それは最古の女皇であるクレメンシェトラがディテル神の娘ではなかったかという―――― 半ば戯言のような話だった。