楽園 115

かつて世界に大陸は一つきりであった。
五人の神々が暮らし、協力して治めていたという広大な大地。
そこには全ての惠みがあり、穏やかな不変があったという。
しかしある時、彼らの中で増え続ける人間について意見が分かれる。
己が正しいとして譲らぬ神々は、やがて大陸を五つに分割し、その大陸ごと世界のあちこちに散っていった。
人間の中から王を選び、代理統治をさせようと主張したディテルは、己の大陸においてその主張の通り選出者を選び、国を生ませる。
しかし彼の思惑も虚しく、生まれた国々はすぐにお互い激しい争いを始めてしまった。
―――― 今は遠い、遥か昔の話である。






「神の娘?」
思わずアージェが素っ頓狂な声をあげると、少女は妖しく微笑んだ。金色の瞳が途端、人ならざる者のように煌めいて見える。
『神とは何であるか』と。
それは今まで幾度かアージェの前に現れた疑問だ。
そして彼にその疑問を呈した人間たちの結論は、いずれも「神と呼ばれる者はいた。だがその正体は分からない」というものだった。
アージェは表情に困って少女を見やる。
「えーと……クリュア?」
「あ、やっぱその名前なし」
「何だよ」
「それ、私の真名だから。あんまり呼ぶのよくないんだよね。ルクレツィアって呼んで」
何だか分からない理由ではあったが、アージェは「分かった」とだけ了承した。外見年齢は十五、六に見えるが、ひどく年上に感じられる彼女を注視する。
「で、ルクレツィア」
「何?」
「正気?」
「もっちろん。こんなこと嘘ついたって仕方ないでしょ。わざわざ別大陸まで来て」
両手を広げてみせる彼女は、おどけた子供のようではあったが、深淵へと誘う魔のようにも見える。
覗き込めば即引きずられそうな不形の力。
アージェは用心して一歩下がった。懐の短剣を意識しながらも、ルクレツィアからは目を逸らさない。
「悪いけど、さすがに信じられないな」
「まぁそうよね。すぐには受け入れられないかもね」
屈託なく笑う少女はアージェに向けて手をさしのべる。
天に向けられた掌。そこにふっと、赤い光が生まれた。神の娘は美しく謳う。
「でも事実よ―――― 神はいた」
炸裂する赤い光。アージェはとっさに腕で目を庇う。
襲ってくるものは何もない。ただ途中で空気が変化した。彼は息を止め、肌で様子を窺う。
そうして腕を下ろしたアージェが次の瞬間見たものは―――― 平穏な街角の風景ではなく、地平まで広がる色とりどりの花畑だった。



夢を見ているのであればよかったのかもしれない。
しかしアージェは今を、残念ながら現実として認識していた。噎せかえるほどの甘い香り。足下から遙か彼方まで続く無数の花々を見渡す。
何がどうなってこのようなところにいるのか、さっぱり分からない。
転移魔法で移動したにしては、門も見えず、独特の浮遊感もなかった。
ただ突然違う場所に立っていたとしか言えない現状。アージェは痛みそうな頭を押さえる。その彼にルクレツィアは、楽しげに声をかけた。
「どう? 信じた?」
「……信じられない」
「あら。魔法士だったらもっとちゃんと凄さを分かってくれるんだけど。
 あと一応ここ、何処でもない場所なんだけどな。私が呼び寄せた空間だから」
アージェの向かいに立っている少女は、よく見れば一輪の花も踏んではいない。
だがそれは彼女の足が小さいからなどという理由ではなく、花の方が少女を避けているのだ。
ルクレツィアが一歩踏み出すごとに密集している花たちがさっと割れるのを見て、アージェは声にならない息をついた。彼は乱雑に前髪をかきあげる。
「それで……神の娘とやらが何の用なわけ?」
受け入れがたい現実は適当に流してしまうしかない。
そうアージェは割り切ると、いささか投げやりに問うた。少女はくすくすと笑う。
「あんた面白いわね。気に入ったわ」
「別にそんなのどうでもいいけどな。大体神って何だよ」
「人の似姿」
「え?」
ルクレツィアは金色の眼を閉じてさらりと答えた。
その内容を反芻しようとしたアージェに、しかし彼女は平然と続ける。
「で、用件なんだけど」
「ちょ、ちょっと待った」
「何? 今話してる途中じゃない」
「そうじゃなくて、えーと……」
言いながらアージェは混乱する頭を振った。気を抜けば濁る思考を整理しようとする。
―――― 確かに今、おかしなことを聞いた。
だがそれが何であるのか、何故おかしいと思ったのかよく分からない。アージェは今ここにユーレンがいればいいと思った。自分と少女の他に誰の姿もない周囲を見回す。
しかしながら当然彼以外、ルクレツィアに向かうものは誰もいない。アージェの中に生まれた疑問は、目覚めた後の夢のように虚しく形を失った。青年は乱暴に頭を掻く。
「あー、もういいや。一つずつ片づける。……で、用件は何だって?」
「だから、必要なものがないかって聞きにきたの」
「特にない」
「もうちょっと考えなさいよ!」
即答するアージェにルクレツィアは白眼を向けた。
「大体西の大陸だと魔女って貴重な存在なのよ? 魔女に望みを聞かれて即答で断る人間なんていないわ」
「って言われても。こっちの大陸じゃ魔女とか聞いたことないし」
強いて言うならダニエ・カーラがそれに相当するのかもしれないが、彼女に望みを聞かれてもアージェは「ない」と即答するだろう。不審な相手に何かを頼むつもりはない。アージェは興味がないことを示す為に、顔の前で片手を振った。
ルクレツィアは男を籠絡することに慣れた微笑みを斜めにする。
「でもそのままじゃあんた、いずれ勝てない相手と当たるかもよ?」
「勝てない相手?」
その言葉には、単なる腕の立つ相手という意味だけではない含みが感じられた。
訝しむアージェに、少女は指を鳴らしてみせる。
「そう。例えばあんた、自分の異能だけで神具や……もっと上のものを相手取れる?」
「神具?」
突然の例え話にアージェは意表を突かれた。
―――― 彼にとって神具とは、動き出す前に破壊するものであって、正面から立ち向かうようなものではない。
万が一そのような事態になるとしたら、アージェは普通に逃げて別の手段を考えるだろう。
何を言っているのかと冷たい目で少女を見た彼は、けれど彼女に顔を指さされて眉を上げた。
ルクレツィアは悪戯を思いついた子供のように、にんまりと笑う。
「簡単なことよ。つまり、あんたも神具を持てばいいわけ」
「は? 俺、神具の継承出来ないぞ?」
思わずそう返したアージェは、しかしそこでようやく「ルクレツィアが何処までを知っているのか」という問題に気づいた。
神の娘、魔女だという彼女は、不可思議な力によって何もかもをお見通しなのだろうか。
それともアージェが呪われた継承者であることまでは知らないのか。
彼が見つめると金の瞳は、中に光を閉じこめているかのように気だるく揺れる。

彼女の作ったというこの空間に風は吹かない。
ただ花々は、みなそれぞれの意思で揺れている。
アージェはしかし、そのことに恐ろしさや神秘を感じるわけでもなく、ただ「自由だ」と感じていた。そしてこの世界で、一番自由であるのだろう女を見やる。
ルクレツィアは芝居がかった仕草で肩を竦めた。
「知ってるわよ。あんたの血筋、呪われてるんでしょ?」
「……らしいな」
「でもそれってさあ、要はディテルダ限定なんだよね。アイテアは関係ないわけ」
「ディテルダ? ディテル神のこと?」
「そう。―――― ああ、神の名って違えられてるんだっけね。忘れてた。
 まぁあんたの呪いは、この大陸の神だけのものなの。別大陸の私には関係ないわ」
「……だから、何」
「まだ分かんない?」
呆れ顔のルクレツィアは、近くにいたなら彼の足を蹴ってきそうである。
アージェは微妙に用心する必要を感じつつ、少女を見下ろした。
「分からない」
「分かりたくないんじゃなくて?」
ルクレツィアは何もかもを見透かすような金の目を細めると
「つまり、あんたは私の神具なら扱えるのよ」
と忌まわしくも囁いた。



非現実めいた少女の誘い。それは、アージェにとって甘くもなければ救いでもなかった。
彼はしばしの驚きから覚めるときっぱり首を横に振る。
「別に要らない」
「あら、どうして? それさえあればもっと楽に越えられる場面があるんじゃない? 今までも、これからも」
「神具を要らないって思ってるから壊してるんだ。なのにそれを俺が使ってたら変だろ」
「ふぅん?」
「それより、何で俺に神具を渡そうとするんだよ」
突然目の前に現れた美しい少女が、凄い力を持っていて何もかもを知っている―――― そして自分に助力を申し出てくるなど、何の罠かとしか思えない。アージェは逃げ道もない周囲を鋭く見回した。足下をそっと確かめてみる。
ルクレツィアはそのような青年の様子を品定めをするかのように微笑んで見ていた。
「何でかってねぇ……あんたがこれからの変革に関わる可能性があるから、ってだけなんだけど」
「これからの変革?」
「たとえばあんた、魔法士ってものがどうして存在するか知ってる?」
唐突に転換された焦点。アージェは虚を突かれて目を丸くした。今までに何度か聞いた魔法についての説明を思い出す。
「生まれつき魔力を持った人間がいるからじゃないか?」
「じゃ、魔力を持った人間はどうして生まれるわけ?」
「……遺伝?」
「半分外れ」
舌を出したルクレツィアは、何も知らない彼とのやり取りを楽しんでいるようでもある。
次第に苛立ちが募ってきたアージェは、そのことに気付くと舌打ちしたくなった。かぶりを振って話題を切る。
「もういいよ。あんたの戯言に付き合うのも飽きた」
「残念。私は楽しいのにな」
「意図的に狂人を演じてる魔法士と問答する気はないって。これ、幻覚だろ?」
アージェは言いながら爪先で地面を蹴る。そこからは草の上ではない、石畳の感触が返って来た。
―――― 詳しくは知らないが、腕のよい魔法士の中には人の精神を操る者もいるのだという。
ならばおそらく、アージェに幻覚を見せることも不可能なことではないに違いない。
欺瞞を指摘されたルクレツィアは金色の目を瞬かせた。紅い唇が三日月のように歪む。
「せっかく別位階を繋げて見せてあげたのに」
「早く戻せよ。用事があるんだ」
「あとで泣いて御免なさいする羽目になっても知らないわよ」
子供の喧嘩の捨て台詞のような言い草。アージェはそれを横を向いて無視した。
ルクレツィアは片眉を上げると、しかし溜息をついて指を鳴らす。その瞬間、辺りの景色は元通りの町中へと戻った。
花の香りが消え、土と太陽の埃っぽさがアージェを包み込む。彼は内心安堵してルクレツィアの方を見た。
しかしその時、そこにはもう誰の姿もない。愕然とする青年の耳に、少女の笑声が聞こえる。
『これでもあなたには期待してるんだけどな。私に答を見せてくれるんじゃないかって』
「この直接中に声を届かせるってやつ、俺嫌いなんだけど……」
『我慢しなさいよ。足掻きなさいよ。
 ―――― 私は知りたいのよ。変わらず在り続けるってことに、本当に意味があるのかどうか』
小さくなって消える言葉。アージェは眉を顰めて天を仰ぐ。
そこに見えるものは薄い青空と煤けた壁しかない。
人の有限を思わせる景色。青年はそれを睨んで、言葉にならない息を吐き出したのだった。