楽園 117

アージェに割り当てられた部屋は、普段コデュが仕事部屋としている部屋であった。
妻がいるせいか、ログロキア城都時代より大分片付けられている室内は、しかしよく見ればそこかしこにおかしな道具が並べられている。
今はここで魔法具を作り、それを多くの町に卸しているというコデュは、仕事机に座りながら簡易寝台のアージェを振り返った。二年前より穏やかになった目が、青年を捉える。
「面倒かけちゃってるね。ごめんね」
「別にいいですよ」
夕方になって戻ってきたコデュは、受注品の作成作業がまだ残っているらしい。先ほどまで机に向かい何やら細かい作業に励んでいたが、今は一段落したのか手の中で針状の道具をもてあそんでいた。
男はそれにも飽きたのか、針を机の上に放り出す。定まらない視線が本棚を撫でていった。
「まだあんまり実感がないんだよね」
半ば独り言のような呟きは、明かりの灯された机にぽつりと落ちる。
アージェは口を挟むことを憚って沈黙を保った。
「子供が生まれるってこともそうだけどさ。自分が家族を得て平穏な暮らししてるってのが実感湧かない。
 幸福だとは思うけど、それは客観的に見て幸福だって判断してるんだ。
 夢の中の自分を別の自分が見てる感じっていうか……分かる?」
「少し」
「こういうことサーラに言うと、『諦めるな』って言われるんだけどさ。
 どうなんだろうね。僕、諦めてるつもりはないんだ。ただ実感がないだけで」
「分かります」
短い返答に、コデュは軽く笑った。
穏やかではあるけれど、妙にあっさりとした笑顔。
それを見た人間は確かに不安を抱くのかもしれない。アージェは鏡を見るような気分で苦笑した。
「俺もリィアに言われましたから。『もっと生きようと思え』って」
「あの子の言いそうなことだ」
コデュは弟子である女について、まるでまだ彼女が子供であるかのようにそう評した。
もっともそれはアージェがそう感じただけで、実際は他人にも前を向かせようとする彼女に、憧憬めいた感情を抱いているのかもしれない。
まもなく父親になる男は、一つだけの掌をじっと見つめた。
「こういう実感っていずれ得られるものなのかな。それともずっとこのまんまなのかな」
不安は感じられない。ただ欠如を覗き込む問いは、アージェの言葉で埋められるようなものでは到底なかった。
コデュは肩を落すと立ち上がる。黙って手を伸ばし、明かりのつまみを絞った。
「何か色々話してごめん。また明日」
「おやすみなさい」
妻のいる寝室にコデュが戻ると、アージェは明かりを消す。
途端に強く感じる月光。故郷の家を思い出す夜の窓を、アージェは注視した。自分の中にいる女に向かって呼びかける。
「おい」
返事はない。
だが青年は、自分の中で「彼女」が沈黙したとわかった。彼は構わずに続ける。
「聞こえてるんだろ? ―――― お前はまだいる」
(…………)
「俺の体を動かして神具壊したんだって? お前は何をしたいんだ。何故俺の中にいる?」
初めてコデュから自分の異能について聞いた時、「彼女」は自身のことを「いずれ消える」と言っていたのだ。
しかし、二年経った今も彼女はアージェの中にいる。
その目的は何であるのか、何がこの先あるというのか、アージェはそろそろ確かめる必要を感じていた。
彼は正体の知れぬ女に問う。
「ダニエ・カーラを追い出して何がしたい? 何を企んでいる?」
(あのおんなは、よくない、わ)
「だからってコダリスの王女なんかに移したらよけい不味いだろ」
ダニエ・カーラは、彼であったからこそ押さえつけ眠らせることが出来ていたのだ。
それがただの女に移ったとあっては、今頃イリデアがどうなっているか分からない。
いくらどちらも腹立たしい女だったとは言え、散々ダニエ・カーラに悩まされてきたアージェは、不安を抱かずにはいられなかった。答えない「彼女」に彼は続ける。
「お前、最初にレアが現れた時、あいつの依頼を受けるように言っただろ?
 クレメンシェトラについても知ってたし……。何を知ってる? 俺に何をさせたい?」
過去のことを振り返って思ったことは、「彼女」はもしかしてケレスメンティア側の存在ではないかということだ。
レアリアと繋がりを持ち、他の継承者を殺そうとする存在。そうとも疑え、だが真意を掴みきれない相手に、アージェは低い声を向ける。
「俺は、お前を消したいと思って村を出た。だがお前はいずれ消えるという。それはいつだ?
 ずっと黙っていたのは、俺がレアの誘いを断ったからか?」
ログロキアでのあの日より沈黙し続けていた「彼女」は、今もその延長線上にあるかのように沈黙している。
拒絶ではなく黙秘。アージェはそのことに苛立たしさよりも―――― どうでもよいような諦観を覚えた。
寝台の上に胡坐をかいていた彼は、溜息をつくと横になる。
「彼女」が答えないのであれば、これ以上かける言葉もない。アージェはそのまま眠りに入ろうとした。
その時、形なくたちこめる夜の空気のような揺れが、微かに彼の中で生まれる。
(かみのむすめに、きをつけて)
「何? ルクレツィアのことか? それとも」
(わたしは、あなたを―――― )
途切れる囁き。アージェは聞こえぬ続きの意味するであろうことに眉を寄せた。喉の奥が熱くなる。
言葉にならない思い。―――― その先はけれど、聞きたいとも思わない。
あの夜森の中から彼を呼んだ声、「彼女」のもたらしたものは確かに、彼の道筋を望まぬ方へと向けたのだ。






翌日アージェは早朝から家の仕事をしてしまうと、昼前にはリィアと大きな街へ買出しに出た。
前回の仕事を請けてから今まで、傭兵の仲介所に顔を出していなかった為、仕事絡みで何かの連絡が入っていないか気になっていたのだ。
転移門を使って適当な街へと出た彼は、あっという間に変わった景色に感嘆の声を上げる。
「やっぱ転移って凄いな。慣れたら不味そう」
「何でよ。いいじゃない」
「いつでも魔法士と一緒にいるわけじゃないし。ないのが普通って思ってないとな」
転移が当然のリィアは彼の感想に「そんなもん?」とだけ返した。
二人は待ち合わせ場所を決めると、それぞれの用事を済ませに別れる。
アージェはまず仲介所に寄ると、そこでケグスからの返信を受け取った。
前回仕事に向かう直前、念の為状況を記した書簡を送っておいたのが、無事ケグスに届いていたらしい。
あまり胡散臭い仕事を受けるなという忠告とケグス自身の近況がそこには記されていた。
今はケランと同盟している小国のうちの一つで雇われているという彼は、珍しいことに傭兵ばかりで構成されている隊に組み込まれ、戦争に備えているらしい。手紙の最後は「きなくさくなりそうだから、しばらくこっちの地方とコダリスには近づくな」と書かれている。
彼がイリデアとのことを知ったらどのような顔をするか、アージェは苦笑すると簡単に返信をしたためた。その後、街を回って武器屋を探す。
「うーん、なんかぴんと来ないな」
全部で三軒あった武器屋は、どの剣を見てもいまいちアージェの手にはしっくりと来なかった。
或いは折れてしまった愛剣に馴染み過ぎていたのかもしれない。
青年は散々悩んで、だが結局はどの剣も購入することなく待ち合わせ場所へと向かった。
彼が買出しについてきた理由は、自分の用事があったことが半分、もう半分が荷物持ちを期待されてのことである為、遅れればリィアに嫌な顔をされてしまう。文句を言われる前に到着していようと、彼は街の北西にある空き地へと向かった。
あまり人通りのない場所。煤けた壁にはそこかしこに焼け焦げたような痕がある。ここも戦いの舞台になったことがあるのだろう。アージェは薄汚れた砂壁に寄りかかり、雲の多い空を見上げた。
死んでいく人間がいる一方で、生まれてくる人間がいる。
それはこの世の常で、そうでなければ大陸ではとっくに人が死に絶えていただろう。
ただ知人のそれを諸手を挙げて喜ぶ資格が自分にあるのか、アージェにはよく分からない。
コデュが「実感が湧かない」と言っていたように、自分たちは心の何処かが硬化してしまっているのかもしれなかった。
彼は、屈託なく笑っていたクラリベルの姿を思い出す。
前を向き空を見上げることを当然のことと思っていた妹。誰を傷つけたこともない少女は今も、曇りなく笑っているのだろうか。



物思いに耽っていたアージェは、いつまでもリィアがやって来ないことに気付いて体を起こす。
彼女とはそれほど行動を共にしたことがない為、時間に煩い性格なのかどうか分からない。ただ怒りっぽいところから何となく前者だろうと踏んでいたのだが、約束の時間を少し過ぎた今でも彼女の姿は見えなかった。
この場所を指定したのは彼女であるからして迷子ということはないだろうが、荷物が重くて動きづらいのかもしれない。アージェはざっと周囲を回ってこようかと考える。―――― その時近くの路地から男女の言い争う声がした。
「何だ?」
まさかと思って近づいてみると、女の声はリィアのものである。
「ついてこないでよ!」という言葉から始まって脅し混じりの文句が混ざるそれに、相手の男はけれどしつこく食い下がっているようだった。ぼそぼそとした発音でよく聞き取れないが、粘着質な様子を感じる。
アージェは腰の長剣を確認して路地に入った。
「何してるんだ?」
「ア……じゃなくて……アリスティド!」
「……何で俺が馬鹿王子なんだよ」
反論した瞬間、両手に荷物の袋を抱えたリィアは、彼に向かって突進してくる。アージェはひょいと彼女を避けたが、すれ違いざま荷物を押し付けられた。反射的にそれを受け取った彼に、彼女は叫ぶ。
「ほら、行くよ!」
「何なんだ……」
走り出すリィアの後を追って踵を返したアージェは、振り返る一瞬前、彼女に絡んでいた男を見た。
暗褐色のローブを着た蛇のような目の男。おそらく魔法士と思われる男は、アージェを暗くぎらついた目で睨んでいた。
青年はその視線の強さに嫌な予感を覚えつつ、リィアを追いかける。
先に空き地にたどり着いていた彼女は、既にそこに転移門を開いていた。アージェを振り返り急き立てる。
「早く!」
飛び込んだ門は、コデュの家に続く山道の麓へと繋がっていた。
背後を確認した青年は、肩で息をしているリィアを見下ろす。
「あの男何だったんだ?」
「あー……」
心底嫌そうな表情。リィアは汚物を払うように自分の肩の上を払うと
「サーラさんの元同僚」
と吐き捨てたのだった。