楽園 118

件の男はゴーダンという名で、かつてはサーラと共に宮廷魔法士であった。
二人は多くの任務を組んでこなしており、宮廷内ではかなり名の通った一対であったという。
ただその関係も、サーラがコデュと出会ったことにより終わりを告げる。
彼女はそれまでの地位や名声が何でもないかのようにあっさりと宮仕えを辞め、男の妻として野に下ってしまったのだ。
残されたゴーダンは、サーラがいなくなった後も元通り仕事を続ければよかったのだろうが、彼にとって彼女は欠かすことの出来ない力であった。結果男は彼女に拘泥してその後を追い、今では己も宮廷から放逐されているらしい。

「変な人だな」
山道を登りつつ、リィアから先程の男について説明されたアージェは、端的な感想を述べた。
人一人分しか幅のない獣道。大きな荷物は全て彼が持っているが、それでもリィアは一歩一歩を手こずってついてきている。
通り雨でもあったのか、泥濘の中に足を埋もらせつつ進もうとする彼女に、アージェはしばしば振り返って手を貸してやらねばならなかった。
リィアは肩で息を切らせながら吐き捨てる。
「変質的なんだよね。私もサーラさんと一緒にいるところ見られて顔覚えられちゃったし……。
 君の名前もだから呼んじゃ不味いかなって思ったんだけど」
「呼んでいいよ。もう俺、今更って感じがする」
既にケレスメンティア、コダリス、セーロン、イクレムの四カ国の皇王族に名と顔を知られている青年は、そこに魔法士の一人くらい増えたところで支障はないだろうと思ってそう返した。気遣ってもらえるのはありがたいが、アリスティドと呼ばれる方が気持ち悪い。
リィアは大きな木の根を越えると溜息をつく。払われた服の裾から金色の装飾具が零れ落ち、叢に消えた。
「なまじあいつも腕のいい魔法士だからさ。私とは相性悪いんだよね」
「リィアは嫌いそうな性格だな」
「性格も嫌いだけどそうじゃなくて。魔法士同士の戦闘って厄介なんだよ。
 私もあいつも体術とか出来ないから、構成の崩しあい、防御しあいになるし。魔力の無駄」
「戦闘するようなところまで揉めてるの?」
「やられる前にやるのは当然じゃない?」
何を聞くのか、といわんばかりの女に、アージェは沈黙した。今後リィアと揉める時は気をつけようと心に刻む。
そのような決意をまったく知らない彼女は、青年の手を借りて泥濘から足を引き抜くと、背後を振り返った。
「ま、今はちょっと用心しないとね。サーラさん魔法使えないし」
「女の人って大変だな」
「何言ってんのよ」
呆れ顔のリィアに手を差し伸べ、彼らはようやく見え始めた家へと向かう。
晴れ間の見える空。早く流れる雲は、ささやかな庭に移り変わる光と影を投げかけていた。



クラリベルが生まれた時、その出産は村の女たちによって手伝われた。
だから幼かったアージェには、父と共に別の部屋で待っていた記憶しかない。ただ聞こえてくる母の苦しげな声が、子供心に怖かったことだけをよく覚えている。
―――― そのような話を昼下がり、サーラにしたところ、彼女は声を上げて笑った。
「かなり痛いんだろうなっていうのは確かに不安なのだけれど、終わらない痛みではないから。そう思えば気が楽よ」
「そうなんだ。凄いな」
「あなたを生んだお母様も痛かったと思うけれど」
薄めた果汁を手にサーラは微笑む。
アージェの出生について知らない彼女の言葉に、同席していたリィアは口を挟みたそうな顔をしたが、青年はそれを無言で制した。彼はじっと澄んだお茶の表面を見つめる。
「母親はみんなそう思うのかな」
アージェは、彼を生んだ女のことを知らない。
産み落としてまもなく彼を捨てたのだろう女。彼女が何を思ってその痛みを越えたのか、想像してもまったく答は出なかった。
サーラは彼に向かって小さな蜂蜜壷を押し出す。
「どうかしらね。私も色んな母親を見てきたから一概には言えないわ。
 理想を吐くことが虚しくなることもあるし」
「そっか」
「ただ痛みは多分越えられるのよ。それが一時のものならね。
 本当に大変なのは……子供と一緒に居続けるってことなのかもしれない」
目を伏せたサーラはその時、何か別のことを思い返しているようにも見えた。
コデュが仕事場に篭っている時間、彼女が普段見せない顔がそこには垣間見える。
アージェは蜂蜜壷を開けながら聞き返した。
「居続ける? 育てる方が大変ってこと?」
それならば、彼に心を砕いてくれたのは育ての母であるテフィの方だ。
拾い子を我が子同然に育てることにどれだけの苦労があったか、アージェは遠い母の面影に表情を消す。
サーラは瞳の中に定まらない困惑を抱えて微苦笑した。
「子供って当たり前だけど夫とは違うでしょう? 何にも定まっていなくって、どうにでもなって。
 そういう相手に自分を見せ続けて、相手を見続けるってきっと……すごく大変。
 私たちはこれからの一生、それをしていくわけだから……」
ぽつぽつと足跡のように零された不安。サーラは顔を上げ、二人の視線に気付くと笑いなおす。
「変な話しちゃってごめんなさい。あなたたちにはまだ先の話ね」
何と言っていいか、アージェが返答を考える間に女は立ち上がった。仕事をしている夫に差し入れるのか、お茶を淹れに行く。
食卓に残された若い二人は一瞬顔を見合わせたが、アージェは開けたままの蜂蜜壷に気付くと中に匙を差し入れた。黄金色の蜜を一滴だけカップに落す。リィアが声を潜めて問うてきた。
「元気?」
「ん。元気だよ」
再び飲み始めたお茶は、前と変わらない味がした。
だが何かは少しだけ変わっているのだろう。たとえ彼自身気付くことはなくても。
アージェは黙ってお茶を飲み干す。それは彼の体に染み入ると、その内をほんの一時温めたのだった。






獣道を上る足取りは重く、遅々として進まない。
荒い息。男はその下で悪態をつきながら、乾きかけた泥濘を踏みしめていった。
長い服の裾は既に擦り切れ汚れて、あちこちに破れ目が入っている。
両の手は木の幹や草に触れ細かい傷があちこちについており、血が滲む度に彼は治癒を施さねばならなかった。
やがて獣道を塞ぐ大きな木の根の前に立った彼は、その場にしゃがみ込むと手探りで叢の中を探す。罅割れた指先が土に埋もれた金の飾りを探り当て、彼は会心の笑みを浮かべた。
「見つけたぞ、サーラ」
妄執に爛れた目。昏い視線が獣道の先を見上げる。
そして男はその場に転移門を開くと、何も残さぬまま姿を消した。






それから十日ほどは何事もなく過ぎた。
アージェは懐かしい素朴な生活を送りながら、いつ子供が生まれてきてもいいように整えられていく準備に感心する。
彼を家庭的と言ったリィアは、彼女自身が意外にも家庭的なところがあり、自ら針と糸を手にして細々と産着などを作っていた。
小さな木の家と温かな食事、黙々と女の動かす針など、故郷での暮らしを髣髴とさせる光景に、彼は時の流れの緩やかさを思う。
まるで子供の頃の風景を大人になってから眺めているような、不思議な郷愁。優しいほろ苦さが胸を満たした。
そうして奇妙な共同生活を始めてから約半月後―――― 出産の時はやってきたのである。

最初に異変に気づいたのはアージェである。
庭での仕事を終えた彼は裏口から厨房へと戻り、そこで蹲っているサーラに気づいた。彼女はアージェを仰ぐと苦痛を堪えた顔で頷く。
「分かった」
青年は彼女に肩を貸し寝室へと連れていきがてら、リィアを大声で呼んだ。
部屋の掃除をしていた彼女はすぐに現れ、顔色を変える。
「君、お湯沸かして! あと布いっぱい。私は師匠に連絡取るから」
コデュは仕事で家を空けているが、連絡用の魔法具は常に持ち歩いている。リィアはそれを使って彼を呼び戻すつもりなのだろう。
アージェはその場を彼女に任すと、言われたものを用意しに厨房へと戻った。どれくらいお湯が要るのか分からないので、大きな鍋いっぱいを加熱すると、その間に布を集める。
―――― いずれ来ると思った日。
この日の為に彼は手伝いに来ているのだが、それでも何処かしら実感が伴わない。
そしてそれはコデュも同様のようで、依頼主の下より転移で戻ってきた男は呆けたような表情で、呻いている妻を見た。リィアが動かない師を叱りつける。
「師匠! 突っ立ってないで腰をさするとかしてくださいよ!」
「あ、ごめん……」
言われてようやく寝台に寄る男。彼の様子を見て、アージェはむしろ冷静になった。「用があったら呼んで」と言い残し、寝室を出る。
リィアは力仕事などに人手が必要と思って彼を連れてきたのだろうが、こういう場面ではやはりさして役に立たない。
クラリベルであったなら、もっと細々と先を読んで手伝うことが出来ただろう。アージェはそのようなことを考えながら、ふともう一人の女のことを思い出した。
「……レアも役にたたなそうだな」
日常的なことについてはまったく知識に乏しかった彼女は、いてもアージェと同様困り果てたに違いない。彼はレアリアのそのような姿を想像し笑いかけ―――― だが彼女も「母親となるべき女」だと思い出した。



寝室から断続的に聞こえてくる苦痛の声。することもないアージェは自分で淹れたお茶を飲みながら庭を眺めていた。風が通るよう窓を開け―――― 次の瞬間、表情を変える。
アージェは作業部屋から長剣を取ってくると寝室を覗いた。サーラの額の汗を拭っているリィアを手招いて呼ぶ。
「何?」
扉を背に廊下に出た女に、アージェは声を潜めて告げた。
「外の気配がおかしい。誰かが近くに来てるかもしれない」
「は? 何それ……」
「ちょっと様子を見てくる。いざって時は逃げててくれ」
唖然としたままのリィアは、けれどアージェが剣を手に裏口へ向かうのを見て、蒼ざめた顔ながらも寝室へ戻る。
振り返った青年はそれを確認すると、息を殺して外に通ずる扉を押し開けた。
厚い雲。いつの間にかぽつぽつと雨が降り出している。濃い色の土は水滴を吸い込んで湿りを帯びつつあった。
彼は雨が鳴らす葉々の音に混ざって、何かのさざめきを聞く。
「さて、単なる迷子ならいいんだけどな」
複数の気配が感じ取れる獣道。アージェは口の中でそう嘯くと、鈍い刃を抜いて踏み出した。