楽園 119

灰色の雲からこぼれ落ちる水滴が、山の木々を濡らしその葉の上を滑り落ちていく。
鳥の声もしない静寂。辺りは雨の音だけが重なり、小さな家の周りを薄暗い世界に閉じこめていた。
目の届くところに人影はない。アージェはそれを確認すると、慎重に家の影から周囲の林へと移動する。幸い足音は湿り始めた土と雨音に吸い込まれ、ほとんどさせずに済んだ。
彼は息を殺し、気配を探る。
感じ取れるものは複数の人間の存在で、彼らの意識がコデュの家に向けられていることは容易に想像がついた。
今、山道を登ってきたばかりなのだろう。気配はアージェの方にも近づいてくる。彼は木の影に身を隠した。
―――― 包囲されてしまう前に気づけたことは幸運だ。
アージェはそう現状を前向きに把握すると、近づいてくる気配を待つ。正面から出くわしてしまわぬよう、家を見張る人間を見張るくらいの位置を保った。二人の男の囁きあう声が聞こえてくる。
「本当にここでいいのか」
「ああ。出産間近らしい。魔法は使えないが、母子ともに殺さぬように注意しろと。―――― 大事な駒だ」
闖入者の目的。それを聞いてアージェは不快を露わにした。
コデュとサーラの力を得ようと彼らを勧誘した組織は多かったと聞くが、大方そのうちの何処かに居場所を突き止められたのだろう。
強力な魔法士になることが見込まれている赤子もまた確保対象とされてしまったのだ。
相手方の人数と配置を把握しようとするアージェの近くで、彼らは続ける。
「男はどうする?」
「そっちも強力な魔法士だったらしいが、今は隻腕で戦闘は出来ないのだそうだ。
 抵抗するなら殺しても構わん。ただ、サーラの見えないところで殺せ。生死を知らせなければ脅しに使える」
ぎり、と己の歯軋りが聞こえ、アージェは我に返った。卑劣な思考に、今すぐ男たちを斬り捨てたくなる。
だが今、下手なことをすれば、彼自身だけではなく残る三人も危ない。
アージェはじっと機を待った。雨音に紛れて少しずつ移動する。
―――― 七人、か八人。
それが男たちの会話や気配から割り出した人数だ。
一人で相手取るには少しやり方を考えなければならない人数。しかも相手の中に魔法士がいるなら、事態はもっと厄介になってくる。
リィアが共にいるのならばいいが、男たちに気づかれず彼女に連絡を取る方法はない。
アージェは少しずつ男たちを片づけていこうと結論を出した。まずは最初の二人を標的に定める。
背後に若い傭兵が忍び寄っているとも知らない男たちは、しのび笑いを漏らした。
「若い魔法士の娘もいるとゴーダンが言っていたからな。上手く捕らえられれば陛下もお喜びになる」
「それにしても、かつての相棒をこのように売るとはな」
「裏切られたと思っているんだろう。勝手な期待をしておいて」
「魔法士とは陰湿なものだ」
話の中に現れた名。その相手を思いだし、アージェは唾棄したい衝動に駆られた。
あの日、街で出くわした男が、どうやってかこの家を突き止めたのだ。そしてその上で国に情報を売った。
サーラが身ごもっていると、分かっていながらの行いにアージェは激しい憤りを覚える。
―――― 今までの会話からはゴーダンがこの場に来ているのかどうか分からない。
ただ顔を合わせる機会があれば思い知らせてやろうと、アージェは心に決めた。目の前の背中を見据え、草むらに足を踏み出す。
草を踏む足音。明らかに異質なそれに男二人は振り返った。うち一人がくぐもった呻きを上げる。
アージェは素早くその男の胸から短剣を抜き去った。
もう一人の男はそれを見て、悲鳴か怒声をあげたかったのかもしれない。
しかし声を出す前に、青年の手が男の口を塞いだ。
がっしりと顔の下半分を掴まれた男が目を白黒させる間に、アージェはその喉を切り裂く。
瞬く間に崩れ落ちた二人を見やって彼は息をついた。
「俺、暗殺者じゃないんだけどな」
こういう仕事は暗殺技能者が本分なのであろうが、そうでなくともやらねばサーラたちが危ない。彼は足早に木々の間を移動した。



外で何が起きているのか、家に残る者たちの間で聞いているのはリィアしかいない。
しかし彼女は出産の激痛と戦っているサーラたちに、そのようなことを教えるわけにはいかなかった。緊張に走り出しそうになりながら、彼女の額の汗を拭い声をかける。
「大丈夫ですから……がんばって」
「ああっ!」
時折強くなるらしい痛みは、気丈な女に小さな悲鳴をあげさせていた。
ただただ時間だけが過ぎていく焦り。寝台傍に膝をつき、妻の背をさすっていたコデュが立ち上がる。
男は何かに勘付いているのか、氷のような目で弟子の女を見下ろした。
「ちょっと外に出てくる。サーラを頼む」
「師匠……」
「もしどうしてもという時は、取り上げに転移の併用を許可しておくよ」
「それは―――― 」
「判断は君に任せる。これはサーラも納得していることだ」
師の言葉にリィアは息を飲んだ。
出産時に魔法でその後押しをすることや、転移魔法を応用して赤子を引き寄せることは、余程の難産でなければ考えられることもない最終手段だ。しかも施術に細心の注意を必要とし、赤子にも魔力耐性が必要となる為、実行の条件自体が厳しい。
そのような施術の許可を何故始まったばかりの出産に与えていくのか―――― リィアは理由を理解し唇を噛んだ。いつもとは空気が違う師の目を見上げる。
「絶対戻ってきてください、師匠」
「大丈夫だよ」
コデュは苦しむ妻の手を取ると、その甲に口付けた。サーラの定まらない瞳が夫を捉える。
そうして言葉なく視線を交わす一瞬に何が伝わるのか、リィアには分からない。
ただ男はそれで全てが済んだかのように二人に背を向けると、黙って寝室を出て行った。



四人目までは何とか大きな声を出させぬまま片付けることが出来た。
アージェは男の死体を林の奥へと引き摺り隠すと、家の正面側へと向かおうとする。
しかし濡れた落ち葉を踏んだ瞬間、薄暗い木の影から銀の刃が突き出された。
矢のような速度で彼の脇腹を狙ったそれを、アージェは咄嗟に短剣で逸らす。高い金属音が辺りに響き渡った。
「くそ!」
相手の存在に気付かなかったのは、男が伏兵として待機していたからだろう。
気配を殺し草陰にしゃがみこんでいた兵士は、最初の一撃に留まらず細い突剣をアージェに向かって突いてきた。
連続して襲い掛かってくる鋭い剣先。足場の悪い場所でその攻勢を捌く青年は、舌打ちしたい気分でいっぱいになる。
これでは剣の音で他の敵が気づいてしまうだろう上に、家の中までは聞こえない。
いっそ大声を出してリィアたちに知らせてしまおうか、アージェは迷った。執拗に足を狙ってくる剣を避け、一歩後退する。
そうして距離を取った彼の耳に、しかし知らない人間の詠唱の声が聞こえた。咄嗟に辺りを見回したアージェは、少し離れた木の影に敵の魔法士を見出す。
考えるよりも早く、体は危険を察してその場から跳び下がった。彼のいた場所を鋭い風の刃が通り過ぎていく。
草陰から飛び出してきた兵士が、態勢を立て直す間も与えず、再びアージェに切りかかった。
―――― 不味い。
彼が傭兵として仕事をしてきた中において、魔法士を相手取った経験はないわけではないが、それらの時はいずれも近距離で一対一の状況だった。
そして、それ以外の状況で魔法士と戦うべきではないと、ケグスからは言い含められてきたのだ。
今のように剣を扱う兵士を相手にしながら、離れた場所からの魔法攻撃に狙われるという状況は非常に不味い。
アージェはこれ以上敵が集まる前に兵士だけでも何とかしようと攻勢に出た。今まで使っていた短剣ではなく長剣を抜く。
林の中から庭の端にまで後退した青年は、追って来た兵士に刃を向けた。詠唱を完成させたらしい魔法士が、片手を振り上げるのが見える。

濡れた地面から跳ね上がる不可視の縄。
それは魔法を打ち出そうとしていた男の顔を殴打した。鞭の鳴るに似た音と同時に悲鳴が上がる。
魔法士の男は削がれた鼻を押さえて蹲った。指の間から溢れ出す血。鮮やかな滴が地面にしたたっていく。
兵士と剣を交えていたアージェはそこまで確認しなかったが、何かが起きているのだということは分かった。突剣を振るっていた兵士が何かに足下を薙がれて転倒する。青年はその隙を見逃さず、男に向かって長剣を振り下ろした。
短い悲鳴に重なって、別の場所でも断末魔の叫びが上がる。アージェは周囲で起きているらしき異変を確かめようと首を巡らせた。背後から男の溜息が聞こえる。
「まったく嫌だよね。こういう風に押しかけられるのって」
「コデュ」
「一応探知結界も罠も仕掛けてあるけどさ。後が面倒じゃないか。死体を焼くのも大変だし」
かぶりを振る男は空中に指を走らせた。途端、林の何処かでまた男の絶叫が上がる。
隻腕となる以前から戦闘にはあまり出たがらなかった男は、煩わしげに頭を掻いた。
「面倒かけちゃったね」
「いえ」
こういったことも自分が呼ばれている役割の一部だと、アージェは思っている。
それよりも彼は、誰がこの襲撃を引き起こしたのか、コデュに伝えなければと思った。ゴーダンの名と国が関わっていることを口にしようとする。
だがその時―――― アージェの横顔は赤い光に照らされた。肌に刺さる熱。振り返った二人の目に太い火柱が見える。
「サーラ!」
家の中へと駆け戻るコデュに、アージェはそれが彼のしたことではないと知った。
火は家の屋根を焼きながら白い煙を立ち昇らせている。青年は家の外側を回って燃えている壁の方へと向かった。
辺りに火を消せるようなものは何もない。ただ誰かがそれを為したのなら、これ以上は攻撃させないようにと思った。
燃え盛る炎の前へと回った彼は、そこに立っていた男を見て「やっぱりか」と忌々しさを新たにする。
赤い火に照らされ満面の笑みを浮かべている男、ゴーダンは現れたアージェを一瞥すると、次の瞬間哄笑を上げ炎の中に飛び込んだ。