楽園 120

訪れるその階に呼ばれる名はない。
空間ではなく時間の概念もない場。
辿り付けるか否かは、生じた魂の性質によりだ。
見える者は見え、触れられぬ者は触れられぬ階。
かつて神の子は彼の場のことを「庭園」と称した。
―――― そして今、庭園に触れた者がまた一人生まれ落ちる。






狂ったような笑い声をあげながら炎の中へと飛び込んだ男。
アージェはそれを、自殺したのかと一瞬思ったが、ゴーダンは己の魔法によって己のつけた火を避けているようだった。
男の周囲だけは炎が割れ、その通りすぎた後からは元通り火の壁が戻る様を、アージェは唖然として見つめる。
我に返った青年は慌ててその後を追ったが、炎は幻覚でも何でもなくその苛烈さを以てアージェの行く手を遮った。彼は舌打ちすると、家の裏口へと回る。
「それにしても、放火とかするか?」
身ごもったサーラをその赤子ごと国に売るような男だ。何をしてもおかしくないとは思っていたが、その行動はアージェの予想を上回った。
一挙に熱の立ちこめる周囲。湿りかけた生木の爆ぜる音が聞こえる。
裏口から中へと入ったアージェに、リィアの怒声が聞こえた。
「何するんだよ、あんたらっ!」
凄まじい悪言へと繋がる叫びに、詠唱と剣の音が続く。
女の悲鳴。アージェは厨房を抜け寝室へと向かった。開け放たれた扉の前に立つ。
部屋の中を見た彼は、思わず場の醜悪さに言葉を失った。



微かに聞こえてくる外からの悲鳴に、リィアが異常事態を確信したのは、アージェの戻ってくる数分前のことだ。
出ていった師が何かをしているのだろう。魔力が動く気配が感じ取れる。
募る不安。だがそれと同じくらい彼女が安堵したのもまた事実だ。
余程の人数か何処か正規軍が来ているのでもない限り、コデュとアージェが何とかしてくれるだろう。
―――― そう思ったリィアはしかし、サーラの悲鳴に顔色を変えた。
「子供が……ああぁぁあっ!!」
膨らんだ腹を押さえてのたうち回ろうとする女。その様子が先ほどまでと異なることは明白だった。
リィアは彼女の体内から母体とは異なる出所の魔力を感じて絶句する。
―――― 赤子が魔力を暴走させかけている。
それは、いくら強力な魔法士同士の子とはいえ滅多にない事態だ。
外の異常事態を嗅ぎ取ったか、母親の不安が伝わったか、またはその両方だろう。
リィアはとっさに己の掌をサーラの腹に当てると、自分の魔力を注いだ。赤子のそれと相殺して落ち着かせようとする。
無言で結果を待つ時間。
魔力の波は和らいだのか、サーラは大きく息をついた。
しかし安堵しかけたのも束の間、外からの圧力に驚いたのか赤子の反発は一層強さを増す。リィアは背を汗が滑り落ちていくのを感じた。
―――― このままでは母子のどちらかは損なわれてしまう。
一刻も早く二人を分離するか、子供を落ち着かせするかせねば悲劇的な結果に終わってしまうだろう。
だが後者のやり方など分からぬリィアは、師に許可された通り転移を併用して出産を進めるか迷った。今の自分一人でそこまでの魔法が使えるかどうか、恐れを覚える。
「師匠……」
早く戻ってきて欲しい、と。口に出しかけてリィアは言葉を飲み込んだ。
今、大変なのは皆がそうである。
そしてこの現状を恐れているのは、リィアではなく誰よりもサーラなのだ。
ここで弱音を吐いては彼女や、ひいては生まれようとする赤子までも不安にさせる。
リィアは意を決すると意識を集中させた。抑えた声でサーラに告げる。
「サーラさん、魔法を使います。……いいですね」
浅い息の下、サーラはリィアを見上げ頷く。
芯のある意思の瞳。その意味するところに後押しされ、リィアは気を強く持った。精神を落ち着かせ、頭の中に構成を思い描く。

『魔法とは意志の具現化である』と。かつてコデュは彼女に教えた。
彼女がまだ己の力を完全には制御出来ていなかった、子供の頃の話だ。
その日以来、リィアは魔法を己の意志の延長線上にあるものと思っている。
「始めます」
彼女は両の掌をサーラの腹に当て直すと、詠唱を開始した。魔力を頼りに赤子の位置を特定し、座標を取得する。
とは言え、直接転移で外に出すような真似は出来ない。リィアは少しずつ構成を調整しながら、赤子を産道へと引き寄せ始めた。同時にサーラの苦痛を軽減する魔法も施す。
慎重にゆっくりと開始された施術。
僅かな誤りも許されないその最中に轟音が聞こえたのは、赤子が産道を下り出した半ばでのことだ。
壁越しにもむっと伝わってくる熱に、リィアは誰かが魔法で火をつけたのだと悟った。
あってはならない事態。詠唱を続けていなければ、彼女は罵り言葉を吐いてしまっただろう。
やめることも出来ない術の途中で、リィアは焦りを募らせた。せめてもと素早く寝台の周りを回ると、熱の伝わる側の壁と寝台との間に自分の体を立たせる。
その直後、扉を蹴り開けてコデュが戻ってきた。
「サーラ! リィア!」
コデュは室内に入るなり二人の女を対象として結界を張る。
熱を遮断し、魔法攻撃を防ぐ強力な結界。その完成と同時に―――― だが部屋の壁には大きな穴が開けられた。



寝室に戻ったアージェの見たものは、魔法士たちの姿だけではない。
そこには剣を抜いた兵士が数人、二人の騎士に率いられ半ば室内を制圧しかけていた。
開かれたままの転移門はゴーダンによるものなのだろう。何処か分からぬ石造りの広い部屋と繋がっており、そこには他にも武装した兵士や魔法士の姿が見て取れる。
だがそれより何より無視出来なかったのは、床に伏しているコデュとゴーダンに掴みかかるリィア、そして二人の兵士によって抱きかかえられるようにして連れて行かれるサーラの姿だった。
元は生成り色だった彼女の部屋着は、今は下半分がぐっしょりと血に染まっており、彼女の置かれた状況の切迫を思わせる。
悲痛な絶叫を上げるサーラは手当たり次第触れるものを掻き毟ろうとしていたが、兵士たちはその手を何の感情もなく押さえつけた。跳ね上げられた足の下からまた血と水が飛び散るのを見て、アージェは恐怖に似た危惧を抱く。
「やめろ!」
彼女を連れ去ろうとする兵士に向かい斬りかかった青年は、しかし割り込んで来た騎士の一人に剣を止められた。
拮抗する力。力任せにそれを押し切ろうとするアージェに、横合いから別の兵士が切り込んでくる。
剣を払いながら後退した彼は、だがその兵士の相手をする間にサーラが転移門の向こうに消えるのを見て、顔色を変えた。リィアが単身彼女の後を追いかけていく。
「やめろって言ってんのよ! 死んじゃう!」
叫びながら転移門に飛び込む女を、ゴーダンは張り付いたような笑みで見送った。
用は済んだと思ったのか、騎士や兵士たちが次々門の向こうへと撤収していく。
アージェは目の前の兵士を斬り捨てると、最後に門をくぐろうとするゴーダンに迫った。微塵の躊躇もなく男を切り伏せようとする。
しかしその剣は不可視の結界に当たって大きく跳ね返された。
崩れかけた態勢。アージェがたたらを踏む間に、男の姿は門の中へと吸い込まれる。
そして門は無情にも、青年の眼前で閉じた。彼は剣をその場に投げつけたい激情に襲われる。
「くそ……っ! 何なんだよ!」
やって来た人員を全て排除すればいいと思っていた、少し前の自分さえも腹立たしい。
はじめから敵はサーラ母子を手に入れる為、それなりの労力を払うつもりだったのだ。
国が背後にいると知りながら甘い考えを持っていたアージェは、火のついた家の中で歯軋りした。
その音に重なって、ともすれば聞き逃してしまいそうな呻き声が聞こえる。
「コデュ!」
床の上に手をついて体を起こした男は、上半身の前面が血に塗れていた。斜めに切り裂かれた服を押さえてコデュは立ち上がろうとする。アージェは駆け寄ってその体を支えた。
「怪我は……」
「とりあえず塞いだ。応急処置だけど」
「それで平気なのか?」
「さぁ……? それより、転移門の残留構成を解析して、向こうへ門を開きなおすよ」
「え。そんなこと出来るの?」
魔法に詳しくないアージェにとって、転移門とは閉じてしまえばどうにも出来ない代物である。
だが突出した魔法士として、かつては他国にまでその評判を謳われた男は、蒼ざめた顔で一本だけの腕を空中へと伸ばした。濁った声が木の焼ける音に混じる。
「出来るかどうかじゃなくて、やるんだよ。それで二人を連れて帰ってくるだけ。難しく考えることはない」
そうして詠唱を始める男を、アージェはかける言葉もなく見つめた。
血の匂いが残る部屋。物の燃える音。
熱された空気は、訪れた現実をまざまざと彼に示して見せた。
二人を助けられても、もはや戻ることの出来ない家。アージェはコデュが正気であるのか、その横顔を窺う。
男の額からは怪我の為か熱さの為か、次々と汗が生まれ滴っていった。
皺の寄った眉間。集中しているらしいコデュには、もはや何の掣肘も届かない。
アージェは力づくでも彼を止めて、態勢を立て直すことを優先すべきか迷う。
―――― ただそれでは、間に合わないかもしれないのだ。

いくら敵が母子ともに手に入れたいと思っていても、本当に彼らの安全が保障されるのか、連れ去られる状態を見ていたなら分からない。
アージェは短い間に決意すると、寝室を出てまだ火の回っていない作業部屋へと向かった。戸棚の中からコデュが作った魔法具の短剣を一振り選び出す。
結界破りを目的として作られたと聞くその短剣は、刃としては心許ないものであったが、今のアージェには充分だった。
寝室に戻った彼を、コデュは苦笑混じりに一瞥する。
「前にさ、実感が湧かないって言ったよね」
「ええ」
「いざ生まれるって時になってもそれは変わらなかったんだ。でも今は……実感してる。これが現実だって。
 こういう血腥い場にならないと身に染みないんだよね。つくづく親の資格がない人間だと思うよ」
自嘲ぎみの言葉は、すぐに詠唱へと変わった。
それが転移門を開く為のものであると気付いたアージェは、静かな声で返す。
「親だから、行こうって思うんでしょう」
自らを顧みず伸ばそうとする手。
その手の強さを知る彼は溜息をつかなかった。短剣を左側の鞘に収めると、右手は長剣を携える。
―――― 愚かであると分かっても、行かなければならないと思う。
そしてだが、負けるつもりはないのだ。アージェは左手の手袋を取り去った。
澱を操る指。漆黒の手が額の汗を拭う。
迫り来る熱気に目を細めた青年は、直後作られた転移門へと迷うことなく踏み出した。