楽園 121

冷たい石畳の広間には、大して時間が経っていない為であろう、先程部屋に突入してきた男たちがまだほとんど残っていた。
しかし彼らの多くは悲鳴を上げ続けるサーラに気を取られているようであり、開かれた転移門を振り返る者はいない。
彼女の姿は人垣に遮られてアージェからは見えなかったが、その向こうからはリィアの絶叫が聞こえてきていた。
「お前らっ、後で全員殺してやる!」
「ほざけ小娘。牢に入れるぞ」
石畳に跳ね返る嘲弄。アージェはそれを冷静に受け止めながら駆け出した。彼の気配に気付いた魔法士一人の胴を、まず足を止めぬまま斬り払う。鎧も何も身につけていない小柄な男は、大量の血を撒き散らしながらその場に倒れ伏した。短い悲鳴に更に数人が振り返る。
アージェはそれでも勢いを留めることなく、先にいた一人と切り結んだ。
騎士である相手は、若い傭兵を見て嘲りの顔になる。
「折角助かった命を無駄に捨てに来たか」
「そういうこと。手段は選んでられないから。恨むなよ」
大言壮語と取られるであろう言葉。それを聞いて失笑しかけた騎士は、しかし次の瞬間手に巻きついてきた黒い糸に目を瞠った。一体これは何かと口を開きかけた時、けれどアージェの長剣が男の腹に突き刺さる。
絶命の呻き。鎧の継ぎ目から血塗れた剣を抜き去った青年は、唖然としている周囲の男たちを何の感慨もなく見渡した。
一拍の間を置いて、彼らの間には共通の認識が生まれる。
「きさまあっ!」
叫び声を上げ、一斉に切りかかってくる兵士たち。
ぎりぎりまで彼らを引きつけたアージェは、複数の剣先に空を切らせ後ろへと跳んだ。
その後を追おうとする二人を、コデュの放った刃が切り裂く。
アージェはすかさず倒れ込む一人の体を、別の兵士に向かって蹴りつけた。
侵入者である青年に剣を振るおうとしていた一人は、ぶつかってきた仲間の体を避けてよろめく。アージェは男の側頭部を剣で殴りつけた。

混戦の様相を呈する広間。
しかしそれが長続きしないことは誰の目にも明らかである。
たった二人だけでの襲撃など、一過性のものでしかない―――― しかし多くの兵士たちがそう侮ったことが、事実としては被害を拡大させていた。
臆することなく切り込んでは柔軟に退く青年。彼の動きに翻弄され深追いした者は、コデュの魔法によって打たれて倒れる。
少しずつ、だが着実に減らされていく人数に、彼らは闇雲にかかっていっても仕方がないと悟った。騎士の一人が声を張り上げる。
「包囲しろ! 魔法士はあの小僧を撃て! 他の者はあの魔法士を狙え!」
剣には魔法を、魔法には剣をぶつけようとする常套策。アージェは鋭く叫んだ。
「リィア! どうなってる!」
「手が放せないのよ! もうすぐ生まれる!」
切迫した返答に、アージェは口の中で「そりゃ仕方ない」と呟いた。黒い左腕で宙を薙ぐ。
詠唱も何もない動作。しかし変化は唐突に現れた。
何もなかったはずの石床に黒い波が起こる。
兵士たちの膝下ほどの高さの細波。薄い幻覚にも思えるそれに、場は一瞬騒然となった。
青年は皮肉げな笑みを見せる。
「今までここで何やってたんだ? 澱がいっぱいだ」
「貴様、魔法士か!?」
「違う」
言いながらアージェは左手を強く上に引いた。
全てに繋がる糸を引く仕草。途端、彼の周囲にいた十数人は足を絡め取られ、動けなくなる。
その多くは兵士であったが、行動を封じられた者の中には魔法士も混ざっていた。
ローブを着た壮年の男は素早く詠唱する。生み出された炎の矢。燃え盛る数本がアージェへと向かった。
けれどそれはコデュの放った火線に飲み込まれる。
赤い炎はそのまま、逃げることも出来ない十数人を薙ぎ払った。
火をつけられたコデュの家と同様、石の広間はむっとした熱気に包まれる。
炎を生んだ本人である男は、それに気づいて顔を顰めた。
「不味いな。これじゃサーラも暑いか」
「別の魔法でお願いします」
ささやかな息苦しさ。自身も熱気の影響を受けているアージェはそう嘯く。
澱で捕らえていた人間全員が戦闘不能に陥ったと見ると、彼は異能を退かせた。
しかしそれを完全に手放しかけた時、アージェは半ば本能的に左手へと意識を集中しなおす。
真っ直ぐに頭を狙って撃たれた光条を、黒い手の平が弾いた。
「あぶね」
避けていたならそれは、おそらくコデュに当たっていただろう。
そこまで計算したわけではなく咄嗟に防いだのだが、彼の左手は熱を持っただけで幸い無事だった。
兵士たちの切れ目からアージェを狙撃したゴーダンは、歪んだ笑い声を上げる。
「皆、恐れるな。多少おかしな力を使うと言っても、たった二人だ。
 取り囲み圧してやればいい」
「……後でお前の頭も圧してやるからな」
アージェは忌々しさを込めて罵ったが、多勢に無勢であることは事実である。
出来れば早くサーラのところにまで辿りついて、転移門で離脱したい。
そう考えたアージェの耳に、だが女の絶叫が聞こえてきた。
今までの悲鳴とは異なる獣じみた高い声。思わずぞっとした青年はしかし、自分たちに向かって幾人かが近矢を番えるのに気付いた。肩越しにコデュを振り返る。
深手に対し、応急処置を施しただけという男は、間断なく魔法を使っている為か今にも倒れそうな顔色をしている。
彼を信じて強引に突破していいのか、それとも彼を助けに回った方がいいのか、アージェは一秒の半分ほど逡巡した。
その迷いが表に出たのか、兵士たちが一斉に二人に向けて矢を放つ。
「ちょ……っ!」
コデュが結界を張ってくれるかもしれないと、思いつつもアージェは一歩下がった。左右からの矢をかわし前方からのものは剣を立てて弾く。
しかしそれでもかわしきれないものはあった。左大腿部を掠めていった一本。
アージェは鋭い痛みを堪えて、その場に踏み止まった。
先程からやまないサーラの絶叫。アージェはもう猶予がないことを肌で感じ取りながら、コデュのところまで後退する。
前を見据えたまま下がる彼の外側はじりじりと包囲が狭まり、あとは獲物に食らいつく切っ掛けだけが待たれていた。
コデュの様子を窺ってから出方を決めようと口を開きかけたアージェに、男の方から罅割れた声がかかる。
「面倒な感じだなあ」
「そうですね」
「ちょっと僕が周りにいるの何とかするから……そしたら二人のところ行ってそのまま逃げてくれる?」
普段と変わらぬ、単に動くことを面倒がっているような口調。しかしアージェは語られた内容に違和感を覚えた。即答せずに問い返す。
「それって、あなたはどうやって離脱するんですか」
「する必要がないから。悪いけど二人を頼むよ」
アージェの返答を待たず開始された詠唱。効果の分からぬそれに、けれど青年は確信を得た。
―――― はじめからコデュは、妻と子を取り戻す為に自分の命を使うつもりだったのだ。
否それは「取り戻す」とは言えないだろう。サーラたちが助かる時、彼はもういない。
魔法には、術者の命を使うことで強力な効果を発揮するものがあるという。
おそらく彼はそれを使うつもりで、その後の為にアージェは共に連れてこられたのだ。
淡々と続く詠唱。女の泣き叫ぶ声。
正気かとも疑った無謀さの真意を理解したアージェは、不分明な感情に沈黙した。
このようなことはよくないと思いながら、自分はそれを止めないだろうとも分かる。
いつでも何処でも容易く死すことが人の運命ならば、その終わりを己で選べることは決して惨くはないだろう。
彼は、彼の意志を持って妻子を守るのだ。残されたものは残る者が負う。
―――― そう思いながらもアージェはしかし、確かにこの現実の不条理を呪った。



(アージェ)
ささやかな呼び声は、しかし波のない水面に落ちる一滴のように、彼の中でよく響いた。
まるで場違いと思えるほどに澄んで聞こえた声。
その静謐に一瞬気を取られたアージェは、けれどすぐに聞き返す。
「何だ」
(たすけたい?)
「何故そんなことを聞く」
何を、と言う訳でもなく問われた言葉に、彼は不快を覚えた。
この急場にあってそのようなことを問うこと自体に、傍観者の安逸がある気がして、無性に腹立たしくなってくる。
しかし「彼女」を黙らせようとしたアージェは、続く言葉を聞いて、止まった。
(わたしは、たすけたいわ)
飾り気のない意思。抑揚のない真摯。
女の囁きに彼はその時、何かを思い出しそうになった。暗い夜の森に名を呼ぶ声が響く。
もはや消えかけた記憶。指間を滑り落ちたもの。
だが、現実は時間の猶予を許すほど優しくはなかった。
意識を引き戻したアージェは、手短に聞き返す。
「なら何とか出来るのか?」
(あなたがそれを許すならば)
「何を」
(わたしに、からだをかして)
「またか」
(それと―――― )
続いて呈された内容は、アージェを少なからず驚かせた。
しかし考えてみれば、そうでもしなければ自分たち全員を救うことは不可能なのかもしれない。
時間のない現状、少なくない抵抗はあったが彼は頷いた。
「分かった。許す」
(なら、目をとじて)
幼子に眠ることを促すに似た穏やかな声。
アージェは敵を前に視界を閉ざすことへの抵抗を、女の声によって乗り越えた。息を吐きながら両瞼を下ろす。
そして彼は、闇の中に立った。



自分の魂を力に変換して使う強大な構成を組みかけていたコデュは、その作業の途中において、不意に目の前にいる青年の雰囲気が変わったことに気付いた。
微かに揺れる魔力に似た気配。
いつかの暴走を思い出させる不穏に、彼は構成を作り上げる手を止めて、アージェの顔を覗き込もうとする。
しかしそれは、黒い左手によって遮られた。青年の声で、異なる口調の言葉が紡ぎ出される。
「禁呪はやめて、下がっていなさい」
「君は……」
「いいから。自分の体を何とかしなさい」
無造作にコデュを押しやった手は、人のものではないような冷たい温度を持っていた。
思わず息を飲む彼の前で、異能の手は宙を薙ぐ。
何の魔力も構成もない動作は、けれど彼らに向かって放たれた矢を全て空中で叩き落した。
不可視の防御。何が起こったのかほとんどの人間が分からないでいる中、「彼女」は一歩を踏み出す。
漆黒の左手が、石畳に向けて差し伸べられた。
朗々とした青年の声が醜悪な空間に響く。
「食らいつくせ」
その宣言と共に、広間にいた者たちの体を無数の黒糸が引き裂いた。