楽園 122

突如現れた黒糸は、細さの中に恐るべき切れ味と柔軟性を兼ね備えていた。
石畳を覆う闇色の海。さざなみだつ水面から次々と跳ね上がる糸は、人間に絡みつき、引き裂き、その体を闇の中へと引きずり込んでいく。
そこかしこで聞こえる絶叫は本能的な畏れに彩られており、おそらくは歴戦を経ているのであろう男たちを、恐慌に陥った単なる弱者のように見せていた。
「彼女」は淡々と異能を操作しながら、悲鳴を上げる敵兵を排除していく。
ログロキアでの暴走を思い出させる黒い海は、しかし今は完全に制御下に置かれているようだった。
コデュは自分の足下を浸しながら、まったく危害を加えてこない澱を、蒼ざめた顔色で見下ろす。
その彼を置いて、「彼女」は確かな足取りでサーラたちのいる方向へ歩き出していた。
先程からか細くなった悲鳴。すすり泣くような声に、リィアの励ましが重なって聞こえる。
時折詠唱を挟みながら続くそのやり取りは、この混沌の中にあって唯一歪められていない生を思わせた。
その声を背に、「彼女」の行く手を遮ろうとする者たちを、黒糸が襲う。

展開する悪夢そのものの光景。
ほとんどの者が何も出来ず、体中を切り裂かれて飲まれていく中、しかし一人だけ「彼女」へと反撃の魔法を放ったものがいた。
かつてエルがアージェに対ししたように、己の魔法によって黒い海を退けている男。ゴーダンは、強張った表情ながらもまだ笑みを湛えている。
彼は、左手で攻撃魔法を弾いた「彼女」を舐めるように見回した。
「お前は何だ」
「それはどちらに聞いているの? 私? それともこの子?」
二重の精神を意味する回答。その意味を咀嚼したゴーダンは、くしゃりと顔を歪める。
「……化け物め。さては禁呪使いか」
「この異能のことを知らないとは、無知ね」
肉体を得たせいか、アージェの中にいる時よりも流暢に話す女は、残酷な微笑で男を見返した。
黒い指が夜の中から這い出でた神秘のように、何もない空中を踊る。
「私たちは―――― 古き血を継ぐ者。呪われし騎士。神の国に仕える、女皇を守護せし者」
「……っ、ディアドか! そんな人間が何故ここに……」
「守りたかったから」
一言だけの答は幾分かの自嘲を孕んでいる。
彼女は歩みを止めることなく左手の指で不可視の糸を繰った。
ゴーダンの体はそれにあわせてゆっくりと宙に吊り上げられる。ばたばたと四肢を暴れさせる男を、「彼女」は笑って見上げた。
「さて、頭を押しつぶす予定だったかしら」
「待っ……」
命乞いをする時間もない。
黒い糸はまたたく間に束となって包帯のように男の頭部に巻きつく。
口を覆われた男がくぐもった悲鳴を上げた直後、その頭は耳を塞ぎたくなるような不快な音を立ててひしゃげた。
露出している首筋から血が雨のように滴っていく。壊れた人形を思わせる体を「彼女」は何の感慨もなく一瞥した。
黒糸がようやくその体を解放すると、魔法士の死体は他の兵士たちと同様、黒い海に飲まれて見えなくなる。
そうしている間に、広間ではほとんどの人間が姿を消していた。
「彼女」は辺りを見回し、ようやく一息つく。強張った声が奥の方から聞こえた。
「―――― ありがたいけど、終わったならこれ引かせて欲しいな」
「ああ、ごめんなさい」
黒い海の中、サーラに寄り添っているリィアは、恐怖と嫌悪を微量に滲ませて「彼女」を見ていた。
その傍で腹を抱えて横になっているサーラは、今は弱弱しい呻きを上げている。
赤子はまだ生れ落ちていないらしい。ただ周囲の急変のせいで心身ともに限界に来ているのだろう。
「彼女」は黒い海を消すと気遣わしげに二人へと歩み寄った。
「大丈夫? 手伝いましょうか」
「あんた、自分が男の体使ってるって思い出して欲しいな」
「勿論覚えているけれど。平気?」
「あとちょっと……。それより師匠か、誰か魔法士が欲しい。あんた魔法使えないんでしょ?」
サーラの下腹部に手を当てたままのリィアは、赤子の反発を魔法によって緩和しているらしい。
それだけではなく分娩にも構成を加えている彼女は、今までの間にかなりの神経を消耗したのだろう。この短時間でげっそりとやつれてしまったようにも見えた。
「彼女」はよろよろと近づいてくるコデュを振り返る。彼は自分の体に治癒を施したのか、幾分顔色はましになっていたが、憔悴していることは間違いない。
海に飲み込まれ体ごと兵士たちが消えてしまった広間で、残された彼らはお互いの顔を見合わせた。
「彼女」は広間の隅にある、上階への階段に視線を移す。
「確かに魔法士の人手は足りないけれど……すぐに応援がくるわ」
「敵の応援がね」
吐き捨てるリィアの言葉を裏付けるように、石の階段を駆け下りてくる大勢の足音が聞こえる。
すぐに現れた騎士たちは、遅れて現れた男の命令で左右に散開した。
服装から見て高等文官か、或いは宰相ではないかと窺える壮年の男は、四人を見て眉を潜める。
男は大きく溜息をつくと残念そうにかぶりを振った。
「サーラ、お前がこのようなことになっているとは……。不幸な入れ違いがあったようだ」
「言うにことかいて入れ違い? こんな風に攫って、妻も子供も死ぬところだ」
唾棄したそうなコデュの声音には憤りが溢れていたが、そこに力が残っていないことは相手の男にも分かったらしい。
男はたるんだ頬を撫でながら、皮相的な笑顔を見せた。
「許してくれ。ゴーダンの独断だった。改めて君たちはこちらで保護しよう。勿論待遇は保証する」
「結構。今後は一切関わらないで貰いたい」
「それは出来かねる」
きっぱりと結論を述べた男は、そこで本性を隠すことをやめたようだった。
今までも隠しきれていなかった傲岸さを目にちらつかせ、彼らを見やる。
「この状況を見てまだ分からないのかね。魔法士が数人集まって何になる。踏み潰されるだけだ」
「踏み潰そうとしている、の間違いでは?」
「そうなる前に従えと言っている」
平行線を辿る口論。それが決裂を結論としていることは誰の目にも分かった。
コデュはそれ以上論じることは無意味とおもったか、ただ妻を庇って立つ。
歯軋りするリィアの隣で、今まで黙っていた「彼女」が口を開いた。
「弱者の従属が当然というなら、あなたたちも従わなければならない」
「……何だと?」
「つまり、今後彼らへの手出しは無用ということ」
そう言って「彼女」は、腰の小袋へと左手を差し込む。
アージェが普段必要最低限のものを持ち歩く為に身につけている皮袋。その底から、「彼女」は小さな何かを取り出した。
内側に彫刻の施された銀の指輪。それを「彼女」はアージェの指に嵌める。
そして黒い左手を掲げた女は、一言だけ、呼んだ。
「―――― 我が女皇よ」



空白の時間は、その場の全員が呆然としていた時間と同義であったろう。
驚きか呆れか、各人が抱く感情は種々であったろうが、皆が一瞬虚を突かれた。
声が反響して消え去るまでの数秒。それを経て何も起こらないと思った文官の男は、喉を鳴らして笑い始める。
「一体何を言うのかと思えば……女皇だと? そんなもの―― 」
言葉はそこで途切れた。
「彼女」のすぐ隣、何もない空中に水鏡に似た揺らぎが生まれる。
遠い空間を繋いで渡る為の転移門。その中から白い手が生まれ、前へと差し出された。「彼女」はその場に跪くと黒い左手で恭しくその手を取る。
白い靴。長い薄紫の衣。腰まである白金の髪には、真珠をあしらった黒糸が絡み付いていた。
清冽な美貌。神にもっとも近いと言われる存在。澄んだ青紫の瞳が灰色の広間を睥睨する。
女はそうして、跪く男を見た。
「私を呼びましたか、騎士よ」
「お呼び立てして申し訳ありません、レアリア様」
ケレスメンティア女皇レアリア・ルウザ・ディエンティア・ディテイ・ケレスメンティアは、その返答を聞いて大きな目を驚きで瞠った。

がらんとした広間に突如現れた女皇。
その存在が本物であるか否か、文官である男は心から否定したかったのであろう。
だがレアリアの来訪に続いて、広間のあちこちには七つの転移門が出現する。
それらの中からは次々に武装した騎士や魔法士たちが現れ、主君を守るように布陣すると剣を抜き結界を張った。
一瞬で優勢が逆転した場。優男然とした顔立ちの若い騎士は、たちまち蒼ざめる相手方の兵士たちを鼻で笑うと、女皇に問う。
「いかがいたしましょう、陛下」
「そうね……」
レアリアの目は、自らの手を取る男に向けられる。
アージェの体を動かしている女は、その視線に応えて立ち上がると背後の三人を示した。
「彼らを保護し、後に自由と安全をお与え下さい」
「分かったわ」
承諾したレアリアは、サーラの様子に気付くと無言で背後を見た。
魔法士たちの中から女性が二人、主君の意を察して進み出ると苦しんでいる彼女に向かう。
女皇はそれを確認すると、何も言えないでいる文官の男に視線を向けた。
絶句していた彼は、状況に気づくと震える体で膝をつく。額を石床につけ掠れた声で嘆願した。
「どうかご慈悲を……」
「お前たちが、以後分を弁えるというなら」
「に、二度といたしませぬ。王にもそう申し伝えます」
「よろしい」
レアリアの声は、鞭のようにしなって男を打ち据える。
一層強く頭を下げる男に、彼女はそれ以上見向きもせず傍らの男を見た。
女皇は鎖骨の下まで漆黒が侵食したアージェの体に気付いて、僅かに表情を曇らせる。
「彼は、承知しているの?」
「ええ。ご心配なく」
レアリアはそれを聞いて、哀しそうな微笑を浮かべた。






淡い緑を基調とする一室は、城の離れにある為か、常に心地よい静けさに満ちている。
普段聞こえるものは鳥や虫のさざめきだけで、だが今は赤子の張り上げる声が数時間おきに辺りへと響いていた。
中庭へと繋がる扉。そこに立って妻と子の休む木陰を眺めていたコデュは、やって来た青年に気付いて振り返る。
アージェは彼と並んで戸口に立つと、サーラがあやしている赤子を見つめた。
しばらくそうしていた青年は、けれど言いにくそうに口を開く。
「診察の結果ですが」
「分かってる。自分でも診たから。そうじゃないかと思っていた」
言うまでもないこと。だが言わなければならないことを先回りされて、アージェは無言で首肯した。
件の一件より一ヶ月、ケレスメンティアによって保護されたサーラは、その日のうちに無事娘を出産した。
騒動の中にあっても失われずに済んだ命。だが生まれた子は出産時の魔力の暴走により、視力を失ってしまっていた。
今はぼんやりとした光しか感じることが出来ないという赤子は、長じれば或いは魔法の処置によって症状を緩和出来るかもしれないが、それでも完全に視力が戻ることはないという。
アージェはそれ以上何といえばいいのか分からず、幸せそうに微笑むサーラの顔を見つめた。
彼の視線に気付いてか、コデュが微苦笑する。
「サーラはまだ知らないんだ。早いかと思って」
「ええ」
「いつか言うよ。僕から言う」
アージェはまるで贖罪のような言葉を聞きながら、だがサーラは既に気付いているのではないかとも思っていた。
何かを見せようとするのではなく、声で、触れる手で、生まれた子を慈しもうとしている母親。
その姿を見る度、アージェの中には言葉にならない感傷が生まれる。
口を噤む青年にコデュはぽつりと洩らした。
「この世界はさ、全然綺麗じゃないだろ? 汚くて、醜くて、本当嫌になる」
「…………」
「でもあの子がそれを見ないっていうなら、僕がその分少しでも優しいものを伝えられるのかなって思う。
 現実がどうでも、あの子の世界が綺麗で優しくあればいい。―――― これって駄目な親かな?」
聞こえてくる子守唄。温かな思いの呼び声。
答えることの出来ない問いに、アージェは小さく「いえ」と言った。
コデュは風に吹かれて目を閉じる。
「いや……やっぱり分からない。まだ混乱してるのかも。
 ただ僕は、生まれてきたあの子が幸せだと思いたいんだ。幸せを探したい。たとえそれが―――― 」
言葉の続きは、唐突に泣き出した赤子の声にかき消された。
穏やかな苦笑。コデュは泣声に引き寄せられるように外へと出ると、妻子の元へと向かう。サーラの腕の中から我が子を抱き上げ、そっと抱き締めた。
庭の木々から甘い香りの花弁が舞い落ちる。暖かな木漏れ日。小さな白い手がきつく空を掴んだ。

生を叫んで生きる子供。彼女が識るものがこの先何であるのか、アージェはそこに希望を思う。
そうすることを人は、願いと呼ぶのかもしれない。