二と一 123

闇の中に立っていた彼が肉体の主導権を取り戻した時、目の前にはレアリアがいた。
慌しく動いている周囲。ケレスメンティアの城の広間で、動きを止めている者は彼ら二人しかいない。
アージェは女の長い睫毛とその下の澄んだ双眸をじっと見つめた。青紫色の瞳が微かに震えて彼を見上げる。
彼女の眸に幾許かの不安を見て取ったアージェは、吐き出す息と共に言った。
「ありがとう」
レアリアはそれを聞いてびくりと体を震わせる。
彼女はおどおどと窺うような顔で左右を見回すと、もう一度アージェを見た。白皙の頬に血の色が差す。
「い、いいの……役に立てたなら」
それきりまた口を噤んだレアリアは、それでも何か言いたそうにしていたが、臣下に呼ばれると姿勢を変えた。
すっと横を向いた顔。その一瞬で彼女の貌が女皇のものに変化したのを、アージェは驚きの目で見やる。
神代より在る最古の国。その玉座に座する孤高の女。
彼女の背にはそういったものが全て負われている。誰も代わることは出来ず分かち合うことも出来ない。
そうしてレアリアは毅然と裾を引くと、一人至尊の席に戻っていった。
アージェの目にその後姿は美しく映ったが―――― 孤独にも、また見えた。






大陸北東部にある皇国ケレスメンティア。
切り立つ高山に囲まれたこの国は、一年中涼やかな気候に恵まれた草原と鉱脈の国である。
国土自体はそう広くはないが、その四割は豊かな牧草地となっており、また国を囲む岩山からは魔法具の核となる空結石が、大陸で唯一採掘出来る。水晶よりも魔法具に適していると言われる空結石は、他国に売られることは決してないが、城での加工を経て国民の暮らしをそこかしこで支えていた。
豊かな自然に恵まれ、また戦乱に脅かされることもない神の国。大陸においては希有なる存在であるこの国は、その基盤として民の持つ信仰も篤い。彼らは皆、ディテル神の慈愛に感謝しながら平穏なる日々を過ごしていた。
そして神代より続く皇国は、古くから一人の女皇によって治められている。
神の娘とも言われる初代女皇クレメンシェトラ。彼女の血を継いで存する女皇は現在第七十二代目、若干二十歳の若き統治者だ。
ただケレスメンティアの長い歴史において、十代を終えたにもかかわらず娘を生んでいない女皇は―――― 今までただの一人もいない。



空気が清んでいる。
朝、外を歩いていてそう言いたくなったことは一度や二度ではないが、それら今まで感じた空気よりもケレスメンティアの朝は清浄さに満ち溢れていた。
緩やかな坂道を下りながら、アージェは空を仰ぐ。
標高が高いせいか天も近い。
青空に広がる薄い帯状の雲は、背後に佇む城の方角から、彼の向かう坂の下へと緩やかに流れていた。
眼前に広がる街並みを青年は無言で見渡す。
アージェがずっと避け続けてきた皇国に入国した理由は、先日の一件にレアリアの介入を求めた為であるが、その日から一月半経った今でも彼はこの国に滞在したままである。
それは一つには、城の離れに逗留しているコデュたちを、他に知り合いもいない国に置いていくのが躊躇われたからだが、彼がケレスメンティアに残っている理由はそれだけではない。どちらかと言えば、暗黙のうちにアージェ自身へ、周囲からの強い希望がかかっていることの方が大きかった。
その希望に応える為にか否か、日々ケレスメンティアにて特筆することもない時間を過ごしているアージェは、この日は早くから世話になっている屋敷を出て、別の屋敷へと向かっていた。その屋敷には豊富な蔵書が蓄えられており、彼の知人である学者がちょうど研究の為に滞在中なのだ。
アージェも逗留場所である貴族の屋敷で時間を潰しているより、知人と一緒である方が幾分気が紛れる。
リィアなどは、サーラの子が無事と分かるとさっさとケレスメンティアを出ていってしまったが、彼は立場的にそうもいかない。そもそもレアリアの助力が得られたのは、一行に彼がいたからなのだ。
レアリア自身はそのことを盾にアージェに何かを要求してくるということはしなかったが、彼女の臣下たちなどは程度の差こそあれアージェに何らかの見返りを求めてきている。
それに関してはアージェももっともだと思っており、また分かっていて「彼女」に許可を出したのだから、出来る範囲で応えようとは思っていた。
―――― ただその見返りが「ディアドになること」に行き着くと、さすがに頷くことは出来なかったのであるが。
坂を下りたアージェは広い石畳の道を迷わず歩いていく。
緩やかに弧を描く道は中流以上の屋敷が居並ぶ区画へと繋がっていた。
ケレスメンティアのことをよく知らない彼ははじめ、神の国と言われる国で階級の差があることを意外に思ったものだが、女皇を頂点として彼女に仕える者たちには、歴史が長い分上下も生じているのだろう。
ただ、アージェと祖先を同じくするはずのディアドの家系だけは、何の爵位も与えられていないらしい。
彼はそのことについて特に意外には思わなかったが、知人の学者によればそれはケレスメンティアの謎の一つなのだという。
知人はアージェにその理由について聞いて欲しいようだったが、今のところ当の一族とは顔をあわせる機会もない。
その中に自分の実の父親がいるのではないかと思うと、余計に会う気にもなれなかった。

アージェはやがて、一軒の屋敷の前に立つ。
すぐに出てきた小間使いに用件を伝えると、引っ込んだ彼女の代わりに一人の少女が出てきた。
ファリシアという名のこの家の娘は、アージェに愛想よく笑いかける。
「こんにちは。彼なら今、図書室にいますわ」
「あ、邪魔しちゃ悪い感じ?」
「どうでしょう。そうならばあなたが隣にいらしても気付きもしないと思いますけど」
彼女の言うことはおおむね真である。アージェは頷くとファリシアの案内で図書室へと向かった。
伯爵位を持ち、古くは城仕えの優秀な騎士を多く輩出してきたというこの家は、しかしファリシアの祖母の代から女児ばかりが生まれ、今ではすっかり宮廷から遠ざかっているらしい。
ただその分、栄えていた頃に蓄えた蔵書は多く、希望する学者などにはそういった資料を閲覧させているのだという。
ファリシアの気さくさなどは、宮廷から離れて久しいことも大きく影響しているのかもしれない。
伯爵令嬢と言いながら身分の差を気にもしていないような彼女は、客人の男も、その知人のアージェも快く迎え入れてくれていた。
この日もそうして図書室へ案内された彼は、机に向かい本にかじりついているユーレンを見つけ、軽く片手を上げる。
「おはよう」
「……………………ああ、おはようございます」
数秒遅れで挨拶が意識に届いたらしいユーレンは、本から顔を上げアージェを見た。
夢中になっている時はまったく来客に気付かないのだから、今日はそれなりに区切りがよい時であるのかもしれない。
ファリシアが「お茶を持ってこさせますね」と部屋を出て行くと、アージェは男の向かいに座った。
「進んでる?」
「詰まってます」
大きく溜息をついてユーレンは机の上に額を落す。アージェは男の消沈に同情を覚えて、散らばった書き付けを眺めた。

前回の神具の一件が終わった後、自分の研究に戻ると言って別れたユーレンは、その足でケレスメンティアに来ていたらしい。
たまたま街中で彼と再会してそれを知ったアージェは、今までにも何度か彼のもとに足を運び、気分転換をしていた。
ユーレンもこの国におけるアージェの難しい立場を知ってはいるが、彼からそのことに触れてくるということはない。
そしてそれは彼の優しさなのだろう。アージェはここに来ると少しだけ解放される気がして、机の上に頬杖をついた。
「何かいい加減体がなまるんだけど。この国って平和だよな」
「軍に関しては大陸一と言われていますよ。城を見学させてもらってはどうでしょう」
「もうさせられた」
溜息をつきたい気分で青年は高い天井を見上げる。
城内の見学はケレスメンティアについて真っ先に体験したことで、その案内役となったのはエヴェンという名の若い騎士だった。エヴェンはそして、今アージェが滞在している屋敷の次期当主でもある。
ファリシアの家よりも数段格上の家柄の出という男はしかし、個人の性格としては妙に陽気で人懐こく、アージェは平気で他人事に踏み込んでくる彼をいささか苦手にしていた。案内の時も七割方がふざけた説明だったことを思い出す。
「神兵と騎士、どっちも凄いと思ったけどさ、この国って滅多に戦争しないんだろ?」
「しないですね。ケレスメンティアはどの国にも恐れられていますし。
 数十年に一度、あんまりに大きな戦が起こった時などに、介入して平定するくらいです」
「そのあるかどうか分からない数十年に一度の為に毎日訓練するのか。なんか勿体無い気もする」
「大きな戦なんて、ないにこしたことはないですよ」
ユーレンはペンを走らせながら苦笑した。それに関しては彼の方が正しいと、アージェも頷く。
実戦が第一でその為に他がある傭兵と、平穏を守る神の国の騎士たちでは出発点も向かう先も違うのだろう。
手持ち無沙汰で手近にあった本を捲り始めるアージェに、ユーレンは何かを思い出したのか声を潜めて問うた。
「そういえば神具を壊した件……ケレスメンティアの方には言ったんですか?」
「言ってないよ。怒られそうだし」
「そ、そうですよね」
「何でかレアにはばれてたけどな」
「へっ!?」
ユーレンの間の抜けた声が図書室内に響き渡る。男は反射的に首を竦めたが、この部屋に彼ら以外の人はいない。
男は気を取り直すと机の上に乗り出した。改めてアージェに聞き返す。
「それでどうしたんですか?」
「どうも。壊した? って聞かれたから壊した、って言った」
「それだけ?」
「それだけ」
重ねて聞かれても他にはない。
彼は、他に誰もいない時に城の廊下で、やって来たレアリアにそう聞かれただけなのだ。
女皇の仕事を抜け出してきたらしい彼女は、アージェの肯定を聞いて怒るわけでもなく「他の人間には言わないで」とだけ念を押した。その時の様子からいって、ケレスメンティアに実害はないのかもしれない。アージェは軽く頭を掻く。
「この国にも神具があるっていうのは本当なのかな」
「どうでしょう。ケレスメンティアの人間はそう信じているようですが。女皇陛下に聞いてみれば分かるのでは?」
「うーん……」
そう言われても、アージェがレアリアに会ったのは、ケレスメンティアに来たその日と神具について聞かれた時の二度だけである。
それ以外では顔をあわせてもいない。勿論女皇が容易く国外の人間の前に姿を現すなど、本来無いことであるのだろうから、会わないことの方が当然なのだろう。
だがアージェはそれを、レアリアが意識してそうしているのだと思っていた。
会おうと思えば会いに来られる。ただ彼女は来ない。
それは、彼女が彼の意志を尊重してくれた結果なのだと、アージェは気付いていたのである。