二と一 125

夢を見た。
前にも見た気がする夢。
何の色も、見えるものもない。ただ暗闇の中で声だけが響く。
響いて、遠ざかる。名を呼ぶ声。女の声。
それが何であるのか、夢の中で泣く彼だけは分かっていた。






おかしな少女の来訪を受けた翌日、アージェは朝方から一人ケレスメンティアの街を散歩していた。
またミルザに襲撃を受けたら面倒だからと一応用心して屋敷を出たのだが、外で彼女にばったり出くわすようなこともなく、またもう一人が待ち伏せしていたということもない。襲撃や忠告のことは全て冗談かと思えるほど平穏であった。
彼は、賑わってはいても何処か落ち着いた空気を感じさせる街並みを歩きながら、昨日言われたことについて思い返す。
前女皇のディアドが自分の父親ではないかという話は、予想していたよりも驚きを覚えなかった。
それはアージェが無意識のうちにその可能性を考えていたからなのかもしれない。
代々ディアドの息子が次のディアドになるという話が本当なら、アージェの父がディアドであってもおかしくないだろう。
そうなるとレアリアのもとを出奔したディアドと彼は、腹違いの兄弟ということになる。
だがそうは思っても大した感慨も抱けないアージェは、ミルザが何をしに自分のもとへやってきたのか、昨日の言葉の方が気にかかっていた。
「不要な力なら私が貰う」と言っていた少女。一体どうやってそれを貰うつもりなのか、青年は首を捻る。
「彼女」に聞こうかとも一瞬思ったが、アージェは特に理由なくその考えを打ち捨てた。
面倒な予感がやまない日。
緩やかな坂道を上る途中で昼近くなってきたことに気付いた青年は、何処かで昼食を取ろうと小奇麗な建物ばかりの辺りを見回す。
その時、坂の更に上から大声で彼の名が呼ばれた。
底無しの明るい声。もしかしたらこの国で一番苦手かもしれない男の声に、アージェは反転して逃げ出したくなる。
しかし相手はそのような猶予を与えず坂を駆け下りてくると、彼の肩を叩いた。
「よう! 昼これからか?」
「……もう食べた」
「残念ながらお前の嘘は分かりやすいんだよなあ。よし、いい店紹介してやる」
「…………」
ファリシアとは別の意味で貴族らしくない男、エヴェンは、アージェを逃がさないようがっしりとその腕を掴んで歩き出す。
ほんの少女から妙齢の貴婦人に至るまで、広い人気を得ているというこの男は実際甘く整った顔立ちをしており、アージェに対するようににやにや笑っていると単なる優男崩れにしか見えない。
しかしその実、ケレスメンティアでも屈指の名門の出であり、女皇の親衛隊でもある凄腕の騎士の一人なのだという。
そのような人間がどうして今この時間自分を連行しているのか、アージェは激しく疑問を抱いた。
「城の仕事は?」
「さぼり」
「戻れよ」
「いやいや、ちゃんと許可は取ってきたのさ。
 陛下はお前の面倒見るからと言って休み貰いに行くと二つ返事で許可を下さる」
「レア……」
アージェはがっくりと項垂れたが、レアリアが悪いわけではないことは分かる。
彼をいいように口実にしているエヴェンは、目を細めて口元だけで笑った。アージェは呆れた顔でその笑顔を見上げる。
「で、俺は何処に連れていかれるんだ」
「肉食うか、肉」
「もう何でもいい……」
諦めが早すぎる気もするが、粘っても結局諦めざるを得なくなると、アージェはこの一月半で学習している。
結果彼はずるずると道を引き摺られ、エヴェンの言う「お勧めの店」へ連れて行かれることになった。
貴族の子弟が出入りするとはとても思えない単なる食堂。ただし奥の個室へと通されたアージェは、まだ料理の運ばれてきていないテーブルに半ば突っ伏して溜息を吐く。
エヴェンはそのような青年を無視して、馴染みらしい店の娘にどんどん注文していった。
アージェは娘が弾むような足取りで出て行くと顔を上げる。
「貴族の人間もこういう平民の来るような店に出入りするんだな」
「俺くらいだけどな。なまじ煩い顔見知りがいなくて便利」
何が便利なのかと、アージェは一瞬疑問に思ったが、その疑問はすぐに解けた。
エヴェンはテーブルに置かれていった硝子の水差しを指で弾く。
「ミルザに会ったんだって?」
「ああ、その話か」
昨日の来訪者のことを、アージェは特に誰にも言わなかったが、あれほど騒がしい娘だ。屋敷の使用人などは気付いて主人に報告したのだろう。青年はぽりぽりと頭を掻く。
「会った。何か色々言ってたな。俺が先代女皇のディアドの隠し子とか」
「そんなこと言ったのか、あいつ」
エヴェンは舌打ちしたそうな顔になったが、その言い方にアージェは少し引っかかるものを覚えた。多量に水滴のついた水差しを男の前から取り上げつつ聞き返す。
「で、それって本当?」
「分からない。そう思ってる奴は多いけど。その先代女皇のディアドってもう故人だからな」
「ああ。それじゃ仕方ないか」
死人に関しては好き放題言われても真偽を明らかにしにくい。
アージェはもし本当に実父が故人であるのなら、幾分気が楽になるかもしれない、と思った。
エヴェンはアージェの手から水の入ったグラスを受け取る。
「ただな、お前のその異能は歴代から見ても強すぎるんだ。
 傍系からはまずそこまでの人間は出ないんじゃないかって言われてる。
 だからミルザなんかは当主直系と思ってるんだろうし、前の当主はちょっと変わった人だったからな……。
 ―――― といってもお前にはあんまり関係ない話だ」
アージェの父親かもしれない前の当主について触れた時、男の表情は微かに濁って見えた。
青年はしかし、それには気付かぬ振りをすると気になっていたことを問う。
「ミルザは分かったけど、ザルムシスって誰?」
昨日の少女と並べて走り書きに記されていた名。それを書いた本人に尋ねると、エヴェンは肩を竦めて見せた。
「ミルザの従兄弟だ。傍系の人間の一人。あいつらは実の兄妹みたいによくつるんでる」
「何かよく分からなくなってきたんだけど。一族って何人くらいいるの?」
図に書いて整理してみたくなったが、アージェにはそこまでの気力も好奇心もない。
口だけで問う彼に、エヴェンは視線を宙に彷徨わせながら教えてくれた。
「今は二十人いないと思う。ただその全部が先々代女皇のディアドの弟の血を継いでる傍系だ。
 ザルムシスとかミルザの属してる家々だな。ルドリス……先代女皇のディアドから見て、従兄弟たちの家だ」
「直系はいないんだ?」
「いない。ルドリスの息子のネイってのが、例の出奔した元ディアド。
 で、ルドリスには妹と弟が一人ずついたけど、どちらも若くして故人になってる。二人とも未婚だったしな」
「へえ」
それ以上の返答を思いつかず、アージェは気のない相槌を打った。
限りなく黒に近い灰色。だがそれも本人が既に死んでいるのならば確かめることも出来ない。
第一確かめる意味もないだろう。アージェは少なくとも真実をはっきりさせたいとは思っていなかった。
それよりも生きている人間の方が、注意する必要はある。青年は昨日の少女の血気盛んな様子を思い出した。
「ミルザともう一人に会うなって忠告したのは何でだ?」
「あいつら何処かからお前の話を聞きつけたみたいでな。取って代わるのなんのって騒いでるみたいなんだよな。
 何か面倒なことされても困るから。ちなみにミルザよりザルムシスの方がえげつないから気をつけろ」
「取って代わる、か」
―――― 本当にそのようなことが可能であるなら、レアリアはその方が助かるのではないか。
ディアドがいないということがまるで瑕のように思われている女皇。
彼女の憂いがそれで晴れるのなら、ミルザの言っていることもあながち間違ってはいない気がする。
アージェがそのようなことを考えていると分かったのか違うのか、エヴェンは愛想のよい笑顔のままテーブルの上に身を乗り出してきた。考え込んでいる青年に問う。
「で、ディアドに関してだが、そろそろ腹割って話するか? もういい加減長すぎるだろ?」
「……そうかもな」
ケレスメンティアに滞在し出してから一月半。これはアージェにとっては異例なほど長い時間だ。
この二年間何の仕事も受けていないにもかかわらず、一つところにこれほど長居したことはない。
漫然と過ごす時間の終わりを何処に置けばいいのか、彼はずっとそれを探していたのだ。

アージェが一呼吸置いて天井を見上げている間、給仕の娘がやって来てテーブルに料理の皿と酒瓶を並べていく。
二人は娘が去ると、どちらからともなく食事に手をつけだした。
気取ったところはないが、舌の肥えた男が勧めるだけあって味のよい料理をアージェは黙って口に運ぶ。
だが、その味つけを美味いとは思っても、何処か上の空であるのはこれからの話に意識がいっている為であろう。
多くの皿が空いた頃、エヴェンはおもむろに口を開いた。
「で、何でディアドにならない?」
直接的な問い。
今までその理由をアージェに聞いた者は何人もいたが、男のそれは他のどの問いよりも強くアージェへと呈された。
黒い左手を持つ青年は、目を伏せてテーブルの上を見つめる。
「騎士が嫌いだ。自分がそれになりたくない」
「ほう……。まぁ傭兵と騎士は仲が悪いもんだけどな。それだけの理由か?」
「権力を背にして武器を振るうことが嫌なんだよ。自分に正義があると信じて、平気で他者を踏み躙る」
今までアージェが出会った騎士は、皆そのような人間だった。
元騎士であったというログルはそういう傲岸さのない人間であったが、彼は出会った時既に騎士を辞めていた。
そこに答の一つがある気がして、アージェは眉を顰める。
エヴェンは潔癖にも見える年下の人間の顔を、目を細めて見やった。
「そりゃ騎士にとって忠誠は第一だからな。余所から見たらそう見えることもあるだろうさ。
 ただそうやって権力の武器になりかねないから、騎士にとって精神ってのは大事だ。
 精神を失った騎士は単なる塵屑でしかない。俺は、そう思ってる」
男はそこで言葉を切ると、酒盃ではなく水の入ったグラスを手に取った。乾いた喉を湿す男にアージェは問い返す。
「主君の命に従った結果なら何でもするのか? それが精神か。
 俺には主君の命の下に動いていた騎士たちが高潔に見えたことなんて一度もない」
「高潔でいようなんて思ってないさ。少なくとも俺はな。
 ただ、主君の命に盲従するだけの人形と騎士は違う。お前、騎士の頭は皆空っぽだと思ってないか?
 命じられた範囲での最上を、主君にも守るべき者にも返す。それが理想だろ」
「口だけの理想なら何とでも言える」
吐き捨てたアージェは、腹の底からどろどろとした熱が沸き起こってくるのに気付いた。
気付かぬうちに、見ないでいるうちに、冷え固まってしまったのではないかと期待する熱。
過去から続く憎悪は、そうしてふと首をもたげては彼の身の内を焼くのだ。
アージェは手の中にグラスを握り締める。
「俺の知ってる人は女を庇って、その隙に殺された。
 相手の騎士は味方を盾にして、その影から人を刺し殺したんだ」
―――― まともに戦って、誰かに負けるような人間ではなかった。
その彼を殺した騎士のやり方を、アージェは今でもよく覚えている。
死した人間の足跡を追い続ける虚脱とは別に、あの時抱いた憤懣は未だ彼の中で熱を持っているのだ。
彼はあの後ダルトンを殺したノーグがどうなったかは知らない。
自分の異能に飲まれて死んでいるのなら、それでもいいとは思っていた。

手の中でさざめく水面。アージェはそれをじっと見つめる。
このまま時が白けて静止してしまうような、逆に燃え上がり全てを飲み込むような、不思議な感慨が彼を浸した。
ほんの数秒であった静寂。しかしそれは、エヴェンの平坦な声によって打ち破られる。
「お前は傭兵だろ? 敵から慈悲でも期待してるのか? ―――― 甘えるなよ、小僧」
「…………」
「世の中もっと卑劣な手段を使う奴は五万といる。そいつらに比べればよっぽどはましだ。
 そもそもな、殺されることが嫌なら戦場に来なければいい。違うか?」
「それは、ケレスメンティアの人間だから言えることだ」
平穏が当然のものとして許される唯一の国。
神の国の貴族階級に位置する男は、アージェの切り返しにからからと笑った。
「そうかもな。俺のこれは、多分甘えだ。俺は恵まれて育ってるからな。
 ただな、お前のそれも甘えなんだよ。一を見て十が嫌だと駄々をこねてる。
 自分は違うものになろうと何故思わない?
 少なくとも、陛下が今、窮屈な思いをなさってるのはお前が甘えたガキでいるせいだ」
男の声音は乱れたところは微塵もなかったが、ほんの僅か、燃え盛るような苛立ちを感じさせた。
アージェは苦い顔のままエヴェンを見やる。
甘い顔立ちをした男は薄く笑ってはいたが、細められた目はやはり笑っていなかった。
二人はしばし無言で視線をぶつけあう。



罅割れて白々しい沈黙の時間は、エヴェンが大げさに肩を竦めたことで終わった。
男は今までの緊張感が嘘のように、テーブルに頬杖をついてぼやく。
「第一なぁ、ディアドが騎士って言われてるのは形式的なものなんだ。陛下の傍にいるから騎士って言われてるだけ。
 実質はもっと……何ていうんだろうな、もっと唯一のものだよ。あれは騎士じゃない」
「騎士じゃない?」
「女皇の影で代理だ。……いや、言葉にするのは難しいな。陛下に聞け」
「…………」
「お前が騎士の在り方に疑問があるっていうなら、それも陛下に聞け。一度ちゃんと話をして来い。
 あの方は怖いところもお持ちだが、狭量な主君じゃない。きっとお前の意を汲んでくださるだろうよ」
エヴェンはそう言って立ち上がると、まだ半分ほど中身が残っている酒瓶を手に部屋を出て行った。
一人残されたアージェは、茫洋とした気分で空いた皿を眺める。
無秩序に汚れた陶器の皿には、けれど触れられず残された部分もいくらかあった。
そこにそっと置かれた緑の葉と白い花。
アージェはふと手を伸ばして添えられた花を手にすると、小さなそれを手元のグラスの中へと落とし込んだ。