二と一 130

空は青い。
アージェは回廊に囲まれた四角い天を見上げながら、雨が降っていたなら何処でやることになったのだろうと場違いなことを考えた。
広場には他にも多くの人間が観戦の為に居合わせているが、彼らには見物人特有の物見高さはない。皆、何かの儀式に立ち会うかのように粛然とした空気を保っていた。
それは多くの騎士や魔法士たちだけではなく、女皇の傍に控えるエヴェンも同じである。
玉座を挟んで彼の反対側には灰色の髪の男が立っており、精彩のない乾いた目を広場に落としていた。
アージェが視線を広場に戻すと、ミルザが戦意も高く彼を睨んでくる。彼は二人が待つ中央にまで歩み出ると、小柄な少女を見下ろした。
「……可愛くない」
「何か言ったか?」
「何も」
ミルザは美しい顔を顰めて彼をねめつけたが、アージェはそれ以上彼女を見ようとはしなかった。代わりに何の武器も持っていないザルムシスに顔を向ける。
男は相変わらず笑顔であったが、その笑顔は仮面を貼り付けているようにしか見えなかった。
ザルムシスはアージェの黒い左手と、既に抜かれている長剣を目で確かめる。空々しい爽やかさで言った。
「よろしく頼むよ」
「よろしく」
そっけない返答をして青年は最後に女皇を見上げる。
壇上の玉座の前に立つ彼女は、まるでよく出来た人形のようだ。青紫の瞳が、いつか遺跡で見た花のように揺れている。
レアリアは皇杖を手に、広場を囲む一同を見渡した。澄んだ声がその場を支配する。
「此度はカルディアスの血を継ぐ者等がその剣を戦わせたいとの旨、確かに聞き届けました。
 わたくしがこの眼に入れしものは、我が神が目にせしもの。その結果に偽りなきと誓いなさい」
「誓います」
「誓います」
ザルムシスとミルザが同時に声を上げ頭を垂れる。
しかしアージェは何も答えず動かないままだった。
神を崇めぬ彼には、神への誓いはする意味もない。けれどそれは決闘の作法に則っていないのか、レアリアが発言を促すように青年を見た。
アージェは左手を挙げて答える。
「女皇に誓う。偽りはない」
レアリアが軽く目を瞠り、エヴェンが笑ったように見えたのは気のせいではないだろう。
アージェは堂々とした態度でこれから剣を交える相手に向き直った。
緊張顔のミルザと不敵な表情のザルムシス。女皇の杖が壇を叩き、口上が始まる。
「我らが神ディテルよ。比する者なき力と威によって全てを見通せし方よ。
 今、あなたの選びし子らがあなたの庭に入る。願わくば彼らの行く末を濡れた大地によって受け止め給え」
神の代行者たるレアリアが祈りの言葉を謳う間、アージェを除く全員は目を閉じて顔を伏せていた。
青天の下の静寂。まるで葬列のようだと、アージェは思う。
誰の視線も邪魔をしない一時、彼はレアリアをじっと見つめた。物憂げな青紫の瞳に白金の長い睫がかかっている。
彼女はゆっくりと面を上げ、そしてアージェを捉えた。
―――― 一秒がひどく長く感じるのは、一体どうしてなのだろう。
二人は束の間、何もない広い空間に立っているかのようにお互いを見つめた。
違う人間が同じところに留まる刹那。しかしそれは、外からの声によって壊れ去る。
「何処を見ている」
ミルザは出来の悪い生徒を見るような目でアージェを睨んだ。
彼と同じ緑の瞳。青年は白い目で少女を見下ろす。
「別に何も見ていない」
「ならさっさと構えろ」
「ああ」
アージェは二人から距離を取ると剣を構えた。波紋一つない湖のような両眼が、ザルムシスに向けられる。
「一応忠告しておくけれど、余計な欲はかかない方がいい」
「余計な欲? 何を言っているんだい?」
口の両端を上げ嘲笑うザルムシスは、まるで細く黄色い月のような忌まわしさを持っていた。
しかしアージェはその忌まわしさに正面から向き合う。
「俺の、この異能は貪欲さの結果だ。それを望めば待っているものは同じ結末だ」
「同じ結末? 君のような臆病者と?」
「いや……」
自分を生んだ女の名を、今この衆人環視の中で出すことはさすがにアージェには躊躇われた。
ミルザは勘のよい少女には見えないが、或いはその名を出せば、巡り巡って自分とアージェの関係に気付くかもしれない。
彼は居並ぶ観戦者の中にルゴーの姿を見出し言葉を飲み込んだ。剣を支える黒い左手、そして長剣の先を順に見やる。
「欲をかくな。俺が言いたいのはそれだけだ」
「具体性のない忠告だな」
レアリアの前であるからか、それ以上の舌戦は行われなかった。
自らの間合いを計る三人。彼らの均衡は開始を告げる声によって解かれる。
女皇の傍らに控えるエヴェンが朗々と宣言した。
「始めよ」
その声の余韻が消えぬ間に、ミルザは剣を上げ彼に飛び込んできた。

高い金属音。二振りの長剣がぶつかりあう音は澄み切った天にまで響いた。
アージェは柄を握る両手を捻ると、ミルザの剣を押し返す。
彼女はそのまま姿勢を低くすると彼の下腹を狙って突いてきた。
アージェは半身になって迫る剣先を避けると、少女の剣身目掛けて己の長剣を振り下ろす。
あわよくば彼女の手から剣を叩き落そうとした攻撃は、しかしミルザが転がって避けたことにより空を切った。
彼女は素早く身を跳ね上げ起き上がる。
―――― 予想はしていたが、ミルザの動きは速い。
小柄な剣士の多くがそうであるように、軽さを俊敏さで補う人間なのだろう。
ここまで小さな相手と戦ったことのないアージェは、いささか戦い方を考える必要を覚えた。
ミルザが再度踏み込んでくる前にと、彼は数歩左に動く。
転呪についてルゴーから聞いた「被術者が大きく動かないこと」という条件を、アージェは勿論最初から注意していた。
彼らはその為に二対一を選んだのだろう。ミルザが彼を足止めしている間にザルムシスが転呪を使うつもりに違いない。
アージェはだから一つところに留まらないように、常に俯瞰の意識を保っていた。開始時から動いていない男に注意を払う。

誰もが音を殺した一瞬。
ミルザが放たれた矢のように地面を蹴った。
空を切る剣の音。それは遅れてアージェの耳に届く。
彼は足を刈ろうと振るわれた剣を、己の剣を立てて防いだ。
伝わってくる衝撃。アージェはそれを右手だけで受けると、踏み込みながら左手を伸ばす。剣戟よりも軽い音が広場に鳴った。
「な……」
頬を打たれたミルザは、相手の攻撃があまりにも予想外だったのか、ほんの僅か硬直する。
その隙にアージェは左手を引いた。少女の顔を打った際に巻きつけた黒糸が、彼女の首から右肩を絞め上げる。ミルザの顔が驚きと苦痛に歪んだ。
「くっ……この……」
「さっさと気絶した方が楽だぞ」
言いながらアージェは、少女が苦し紛れに振るった剣を飛び下がって避ける。
そうしながらもただの糸ではない黒糸はミルザを解放しなかった。それは開いた距離の分だけしなやかに伸びる。
だが糸の繋り方からして気絶させることは難しいだろう。このまま彼女を絞め殺すわけにもいかないアージェは、右肩を重点的に拘束しようとした。
腕を半ば宙に捻り上げようとしたその時、けれどミルザは自ら剣を手放す。彼女は苦痛に顔を顰めながら、右手の手袋を取った。
肘から先の褐色。茶色に染まった指先が首の黒糸にかかる。
「……散れ……っ」
溶け出す糸。アージェはその光景に確かに虚を突かれた。
同じ血を分けた相手。彼女もまた異能者であると分かっていながら、青年は目を瞠る。
その隙にミルザは澱のくびきから逃れた。自ら手放した剣に飛びつく。
しかしアージェはその時には既に、素早く踏み出し少女の剣を足で押さえていた。
蒼ざめるミルザに、青年は呆れ混じりの声をかける。
「もっと先まで考えて動けよ」
「貴様っ!」
「あとちょっとはクラリベルを見習え」
半ば決された勝敗。
ミルザは踏みつけられた剣を取ろうと必死に両手で柄を引いたが、アージェは体重を込めてそれを動かさせなかった。
全員の視線がその一瞬、二人にのみ集中する。



後から思えばそれは、意識の誘導の一種であったろう。
アージェ自身が望んだとは言え、二対一など決闘の道義にもとる。
だから多くの者は、ザルムシスがあえて動かないのだと思っていた。動かぬまま、自分の番を待っているのだと。
それは或る意味真実で、だが或る意味では間違いである。
ザルムシスは初めからずっと待っていた。存在を忘れ去られるほどにじっと待っていたのだ。―――― アージェが動きを止める時のことを。
少女の剣に乗せたままの足。彼女の攻撃を封じる青年の足下に、不意に黒い穴が開く。
まるで無限の闇へと通じているようなそれは、しかしアージェの体を引きこむことはしなかった。
代わりに穴の中から黒い波が跳ねる。その飛沫が青年の足にかかり、アージェは顔を顰めた。
ザルムシスは勝ち誇った声をあげる。
「次は僕の番だ」
詠唱はない。ただザルムシスの両手は、目に見えぬ糸を繰るかのように宙を動いた。
アージェは足下に広がる黒が、自分の中から何かを吸い上げようとしているのに気付く。
動かすことの出来ない両足。アージェは軽く溜息をついた。
「俺が、お前の存在を忘れていると思ったのか?」
冷ややかな声。
負け惜しみともとれるそれに笑いかけた男は、しかし次の瞬間息を飲んだ。
忠告を無視した彼を前に、黒い穴から女の手が這い出る。
真っ黒なその手は、転呪によって引き出されるがままにアージェの中から外界へと指を伸ばした。
右手が、次いで左手が、広場の地面に触れる。
誰もが何も言わない。ザルムシスさえも驚愕の目でその光景を見ていた。
ただ一人、以前にも「彼女」の姿を見ていたアージェだけが、冷静な目で穴の中から現れた上半身を見下ろす。
母が死んだ晩、森で出会った漆黒の女。
かつてテフィの遺骸の前に立っていた黒い異形は、そうして長い髪を揺らしながら起き上がると、衆目に忌まわしくも優美な姿を晒した。