二と一 131

まもりたい そのためにずっと ここにいたの
力をたくわえて ひとのかんじょうを つなぎとめながら

ねえ、でも力が大きくなりすぎて わたしのかんじょうが うすれてきてしまった
このままでは 消えてしまう 変わってしまうわ
だから あの子を ああでもきっと あの子は一人で、この力にむしばまれて

「いいえ、そんな目にはあわせない。―――― 私はあの子の母親なのよ」






全身が漆黒の女。
女と分かる体の曲線は持ってはいるが、目鼻のない黒いだけの顔を持った「彼女」は、しなやかに立ち上がるとアージェの前に立った。
一同はその異形の姿を固唾を飲んで見守る。
彼女を引きずり出した張本人であるザルムシスもまた、その姿に意表を突かれた一人だ。
彼は唖然とした表情で黒い女を見ていたが、何もない彼女の顔が自分の方を向くと、気を取り直して手を上げた。手袋を嵌めた手を彼女へと差し伸べる。
「来い。これからは、僕がお前の主人だ」
異能を他者から抜き出し、自分のものとする転呪。その術の残り半分を実現する為に、ザルムシスは目に見えぬ糸を操った。
未だアージェと黒い穴で繋がったままの女は小首を傾けて見せる。
「来い」
ザルムシスの声には、まだ焦りは滲んでいなかった。
しかし女は動こうとはしない。彼女は後ろを振り返るとアージェを見る。
―――― 物言わぬ思い。
青年は「彼女」を見返した。後悔や祈り、それに似たものが無言の間に流れる。
一体いつからそれは続いていたのか。やがて「彼女」は、今が何かの続きであるかのように囁いた。
(アージェ)
夜の中から響く声。
その声に潜む感情を、長らく無視していたようにも思う。
アージェは自分がそれに気づいていなかったのかどうか、振り返ろうとして無意味だと断じた。感情を抑えた声で返す。
「何?」
(わたしは、もう行くわ)
ぽつりと落ちる言葉を、アージェは予想出来ていたのかもしれない。
彼は正面から「彼女」を見た。
「分かった」
何もない黒い貌。けれどそこには彼女の微笑が窺える。時が来たのだと、アージェには分かった。
今までずっと彼にのみ聞こえていた声は、彼女が引きずり出されたことによって他者にも届いたのだろう。
その場に居合わせた者たちのうち、異能者であるザルムシスとミルザ、そして玉座の前に立つレアリアが表情を変えた。
他の人間たちが何が何やら分からないでいる中、ザルムシスが哄笑を上げる。
「そうだ! 僕のところに来い! 僕の方がもっと上手くお前を使ってやれる」
(行かない)
「は?」
(お前は、おろかさの報いをうけるのよ)
独自の意思があるとは思ってもみなかったのであろう異形にそう言われ、ザルムシスは凍りついた。
アージェは小さく溜息をつく。
「だから欲をかくなって言ったんだ」



ルゴーから聞いた話を、アージェもそのまま即信じたわけではない。
ただ彼の話には整合性があった。
彼女がケレスメンティアから姿を消した時期や、レアリアがアージェの体を動かす彼女に覚えがありそうだったことなど。
他にも与えられた破片をあわせれば見えてくるものはある。
アージェはルゴーの話に納得して―――― そして最後に、「彼女」の声で真実を聞いた。
今に至るまでの過程を語る話。それを聞けば、ザルムシスの転呪が成功するはずがないとは容易く想像がついた。
彼の異能は、エイディア・ザグティスがはなから望んで強力なものとしたのだ。
ならば澱と同化している女が、他者に移ることをよしとするはずがない。
そうアージェが予想した通り、黒の女は威圧するような冷たさでザルムシスに対していた。
澱で出来た足が、穴から漆黒の影を引きつつザルムシスに向かって踏み出す。
男は本能的な恐怖の為にか一歩後ずさった。
「何なんだ、お前は……」
(わたしは、この子のははおや)
「は? そんな馬鹿な……」
(そして、あなたがおびやかそうとする子のははでもあるわ)
「え?」
不理解は、容易く人を混乱に陥らせる。
数分前に同じ混乱を味わったアージェは、今は黙って女の黒い背を見ていた。
「彼女」はしなやかな右手を上げ、ザルムシスを指差す。
(わたしのだいじな娘。―――― クラリベルに、手を、だすな)
怒りのこもった声。
蒼ざめる男は、異形の女とその向こうにいるアージェを見る。
「彼女」が誰であるのか、今はもう本当のことを知っている青年は、悔恨に満ちた目を閉じた。
アージェは口の中で呟く。
「俺のこと……見捨ててよかったんだ、母さん」
何の力も持たない嘆息は、黒い穴へと落ちて消える。
それは五年前の夜に向けた、力ない言葉だった。






語るべきは、クラリベルが夜の森に捕らわれた二年前の話だろうか。
テフィが死んだ五年前かもしれない。
アージェが生まれた十七年前か、それとも女皇が生まれた二十年前か。
はたして全ての始まりである神代についてだろうか。
膨大に連なり絡み合う無数の物語。しかしアージェが「彼女」から聞いた話は、そのほんの一部だ。

ケレスメンティアの異能者の一族、その当主の妹であったエイディア・ザグティスは、レアリアが生まれて二年後に十七歳の若さで死亡したとされている。
記録上の死因はこの際何であっても構わぬだろう。結論としては彼女はその時、死んでいなかった。一族の中から異能の強い男を選び、その男の子を腹に宿して姿を消したのだ。
そうして身重になった彼女がただ一人何処を彷徨い、どうやって彼を生んだのか、アージェはそこまでは聞いていない。
ただ生まれて間もない彼を連れたエイディアは、ついにあの森へと到着した。
あの森はもともと瘴気や澱の溜まりやすい、負の位階との境界が曖昧な場所なのだという。
エイディアはそこを術に最適な場所と定めると、アージェを村に面した森の入り口に捨て、自分は森の中へと戻った。
そして彼女は森の奥深くで、呼び出した澱に己を食わせたのだ。
アージェの実母であるエイディア・ザグティスはその時、人知れず死んだ。
後に残されたものは、澱と一体化した彼女の力と記憶、そして感情だけだった。

(そこから、わたしはずっと、まっていた)
「何を? 俺をか?」
決闘に向かう前の控え室にて、語らずにいたことを語り出した「彼女」は、その時既に別れを意識していたのだろう。アージェの反問にふっと微笑んだような気配を返した。
(あなたがおおきくなるのを。わたしを母体とした澱を、取り込めるくらいにまで)
「母体」という単語に聞き覚えがある気がして、アージェは首を捻る。
よくよく記憶を辿ってみれば、それはクラリベルの中に澱が侵入した時「彼女」が口にした言葉で、その口振りから言って澱に取り込まれ、なおかつ澱を統御する残滓のようなものなのだろう。あの森でさざめいていた他の声たちもみな、森で犠牲になり取り込まれた残滓なのかもしれない。
(わたしは、あなたにできるだけ大きな力をわたしたかった。だから少しずつ、澱をあつめてふやしていった)
「余計なお世話だな」
(あなたがそれを受け取って、つかえるようになるのは十五歳と、おもっていたの。
 それより早ければ、あなたはきっと澱にむしばまれて、こわれてしまう)
「十五歳? でもお前が現れたのは―――― 」
(三年、はやかった)
その計算外が、一つの悲劇を導いた。

全ては緩やかに増していく澱が、急激に膨らんだことが原因だった。
アージェなどはよく覚えていないが、確かにテフィは死の前日「強盗団があちこちの村を襲っているらしい」と言っていたのだ。
その襲撃の手は彼らの知らぬ間に森の反対側にまで届き、近隣の村人が多く森の中に逃げ込んで、そこで殺された。
彼らの死によって引き寄せられた瘴気は、ルトの村がそうなったように森の中で濃さを増し、エイディアの意識を圧迫したのだという。
彼女は大きくなり過ぎた澱に薄められ、次第に記憶や感情を保っていられなくなった。
このまま母体がなくなってしまえば、濃くなりすぎた澱は無作為に人を殺し食らい始める。
そうでなくとも今までの苦労が全て無駄になってしまうのだ。
状況を鑑みたエイディアは、完全に消えてしまう前にいちかばちか力だけでも移そうと、彼を呼んだ。
それは、彼女にしてみれば分の悪い賭けだったろう。計算より三年も早く、しかも母体の統御を外れた力をアージェに入れようというのだから。
ただ分が悪くてもやらないわけにはいかなかった。彼女は決心すると、他の者には聞こえぬ声で息子を呼んだ。
―――― しかしその呼びかけに応えて現れた者は、アージェではなく彼の養母のテフィだったのである。

(テフィは、わたしからすべてを聞いた。そしてたずねてきた。
 『あなたがきえなければ、アージェはむしばまれずにすむのか』と)
「……それで?」
(わたしは、そうだといった。母体がのこっていれば、あなたの中で、あなたを澱の侵蝕から守れる。
 そうしてあなたが大きくなるまで、待つことができる。あなたの手に、じっとひそみながら)
途切れ途切れに語られる真実。
そこから先の話は、アージェにとって聞きたいものであり、聞きたくないものでもある予感がした。
けれど顔をそむけることは出来ない。彼は生きている者の責として続きを問う。
「母さんはどうしたんだ」
(澱にくわれて、わたしと、ひとつになった。
 ―――― アージェ、わたしは、じぶんでえらんで、こうなったのよ)
エイディアでもテフィでもない、ただ母である「彼女」はそうして再び口を閉ざした。






「見捨ててよかったんだ、母さん。俺は他人の子で……クラリベルはまだ小さかった」
過去への言葉は、しかし今にしか届かない。
元は二人の女であった「彼女」は、ザルムシスに向かって黒い手を差し伸べる。
そこには無数の黒糸が、一本一本意思を持っているかのように蠢いていた。女は涼やかな声を上げる。
(お前は、みせしめに、してあげる)
「何だと?」
(だって、わたしの半分を、おこらせたのだもの)
「……っ、ミルザ!」
動揺混じりの声に、今まで唖然としていた少女は我に返った。向きを変えていたアージェの足下から長剣を抜き取る。
そして彼女は気合いの叫びを上げながら両手で剣を振り上げ、「彼女」へと向かった。
「らああああっ!」
異形の肩へと斬りかかった剣。しかしそれは、途中で黒糸に絡み取られぴくりとも動かせなくなる。
絶句するミルザを「彼女」は興味なげに一瞥した。
(おまえは見逃してあげる。ルゴーには借りがあるから)
「な……っ、お前は一体……」
見せしめと、見逃すことにはどのような差異があるのか、それはすぐに明らかになった。
「彼女」はかざした手から黒糸を放つ。
それはザルムシスの四肢に絡みつき、男の動きを拘束した。最後によりあわされた数本が男の額に触れる。
「何を、まさか」
(いずれ消える力ならば、今うしなっても、おなじでしょう?)
「お前、転呪を……!」
異形の女を中心として、千本を越える黒糸が蜘蛛の巣のように展開する。
地に刺さった数百本と、天を衝く数十の先端。
決闘の場を艶のない漆黒が支配する光景は、忌まわしくもあったが鮮烈であった。
その糸の中に捕らえられていたミルザが、首を絞め上げられでもしたのか気絶して四肢を垂れる。
一方ザルムシスは、己から異能を吸い上げようとする糸に必死で抵抗していた。彼は唯一自由になる首を激しく横に振る。
「やめろ……! こんな澱、ありえない!」
(ばかね。澱は人の感情を、写し取れるのよ)
「やめろ! 盗るな!」
先程まで自分がしようとしていたことを忘れてしまったのか、ザルムシスは悲鳴をあげてもがく。
しかし「彼女」は許さない。額に触れさせた糸からザルムシスの澱と異能を吸い上げ始めた。
これに関して「彼女」とザルムシスの技術の差は歴然である。
それもそうだろう。「彼女」は息子であるアージェに強力な力を継がせる為に、自分の異能と蓄えた澱を、転呪の粋を尽くして彼に注ぎ込んだのだから。



その場に居合わせた者たちは、誰も何も言わない。
ただ黒い女が糸を繰る光景を呆然と見ていた。
同様に無言で女の背を眺めていたアージェは、力を失ったザルムシスが地に放り出されると、肩で息をつく。
「彼女」はその気配に呼ばれたのか振り返った。
(アージェ)
「うん」
(どうか、守ってね)
薄れつつある異形の輪郭。母からの最後の願いに青年は頷いた。
「分かったよ」
乾いた風。
人は容易く死に、落とされた残滓は成長しない。ただその分、彼らは抱く感情も変わらない。
女は過去の思いのままに己の息子へと微笑んだ。
(じゃあ、さよなら。……げんきでね)
別れの言葉と共に、女の体は呆気なく崩れ去る。
それはそのまま不定形の澱として、再び彼の体の中に吸い込まれていった。
もはや何処にも気配を感じ取れない母体。アージェは剣を握り目を閉じる。
血が滲み出す古傷。届かない悔恨。
そしてとうに死んだ母に向けて―――― 彼は誰にも届かぬ言葉を呟いた。