二と一 132

暗い世界。見えたものはない。まだ目が見えなかったか、見えたとしても辺りは夜の闇に覆われていた為であろう。
彼は泣き続ける。声を上げて、全てを失う予感に泣いている。
その泣声に、彼女は困ったように幾度も彼の髪を撫でた。頬に触れ、彼の名を呼ぶ。
彼にとって唯一であった温もり。けれど彼女は行かなければならない。
やがて女の手は離れ、後悔に満ちた謝罪が聞こえた。
全てを覆う闇は深い。
嗚咽に混ざって彼の名を呼びながら、彼女は少しずつ遠ざかっていく。
遠ざかり、別れていく。
彼はそのことを知って、ただ強く泣いた。






夢から覚めた時、アージェに圧し掛かってきたものは軋むような体の痛みだ。
彼は寝台に体を起こすと、軽い嘔吐感に顔を顰めた。エヴェンの屋敷の部屋を見回す。
怪我はない。怪我をするような戦いでなかったのだから当然だ。
だが母体を失った後の澱は、それまでの枷を外れアージェの心身を内から苛んでいた。
ルゴーが言うには「いずれは慣れる」ということであるが、しばらくは仕方がないだろう。
彼は自分の足の上に頬杖をついて天井を見上げる。
―――― 覚えているはずのない夢を見た。
今までにも何度か見ていた夢。捨てられた赤子の時のことなど記憶にあるはずもない。
だからあれはきっと、彼が無意識に作り上げたただの夢なのだろう。
アージェは寝台から起き上がると、汚れた顔を洗いに行く。
久しぶりに、本当に一人になった気がした。



決闘はアージェの勝利で幕を閉じた。
彼に挑んだ傍系二人のうち、ミルザは軽傷、ザルムシスは外傷こそないものの精神に傷を負って臥せっているらしい。
異能者同士の戦いは、こうして異様な爪痕を敗者と観戦者の記憶に残しつつ終わった。
よく晴れた日の翌日。アージェは今日の昼前には、ケレスメンティアを発つことになっている。
それは決闘が終わってすぐレアリアが宣言したことで、彼女は表面上こそ冷静であったものの、ザルムシスが転呪を使おうとしたことにひどく衝撃を受けたらしい。彼の勝利の余韻が消えぬうちに、彼への不可侵を周囲の者たちへ宣告した。
アージェ自身そのことに異議があるわけでもない。
彼は数少ない荷物を簡単に纏めると、テーブルにケレスメンティアの地図を広げる。
「さて、何処に行くかな……」
「本当に行くのかよ」
ぞんざいな声は、扉に寄りかかったエヴェンのものだ。
いつの間にかそこに立っていた男に、アージェは驚きもせず返した。
「これ以上ずるずるいても仕方ないだろ」
「むしろ一生いろ。陛下がご健在の限り」
「何だそれ。五十年以上もあるだろ」
「そんなにはないさ。女皇陛下は代々短命だ。だから十代のうちに後継を産むんだよ」
さらりとした言葉に、地図を見ていたアージェは顔を上げる。僅かに驚きが宿る緑の目を、エヴェンは挑戦的に見返した。
無言での応酬。だがそれも一瞬のことで、青年は軽く息をつく。
「あのさ、もうこういうこと言う機会はないかもしれないから言っとくけど」
「ああ」
「レアは、あいつは、ちゃんとやってるだろ。ちゃんとしてる。あいつには騎士なんて要らないんだ。
 本当はきちんと一人で出来て、でも周りが難癖つけてるだけ。
 何で自分たちの女皇の足を自分たちで引っ張るんだよ。もっと主人を信用しろよ」
一息で言ってのけた言葉は、アージェの中に溜まりこんでいた鬱屈それ自体である。
エヴェンは痛いところを突かれたかのように苦い顔になった。
男は何かを言いかけて、だがそれを飲み込むと絨毯の上に吐き捨てる。
「そういう国なのさ。女皇陛下がディテル神そのものであるわけじゃあない」
「なら、あんたはそれでいいのかよ」
「……俺が仕えているのは、神の代理人であるお方だ」
つまりはレアリア個人ではないのだと、言外に述べる男の渋面をアージェは斜めに見上げる。
それ以上は何も言うことがない。違う道を歩いてきた人間であるのだから当然のことだろう。
アージェは自分の荷物を肩に担ぐとエヴェンの前に立った。借りていた剣を差し出す。
男が黙ってそれを受け取ると、青年はその脇をすり抜けて部屋を出た。






城都を囲う白い城壁。その途中にある南門からは、緩やかに蛇行する街道が斜面を下っていた。
このままこの道を十日ほど馬で進めば国境に出るのだという。アージェは地図を確認しながら乗っている馬の手綱を手繰った。
門の外に集まった見送りの人間は多くはない。急な話ということもあるだろうが、やって来たのはコデュ一家やユーレン、ロディとファリシアくらいで、そのうちケレスメンティアの人間は半分もいなかった。
「転移門で送る」という魔法士たちの申し出を断ったアージェは、馬上から澄んだ青空を仰ぐ。
戦乱の届かない場所。それはまるで別の世界のようで、初めて訪れた時から今に至るまで、彼は現実味を覚えなかった。
しばしの物思いに耽っていたアージェは、我に返ると周囲の人間たちを見回す。
「色々ありがとう。世話になった」
「こちらこそ。気をつけてね」
コデュの挨拶を皮切りに、それぞれが別れの言葉をかけてくる。
アージェは一人一人に礼を返すと、街道の先に馬首を向けた。
もう何度も経験してきた旅立ちの時、手綱を取られた馬がゆっくりと歩きはじめる。
神の国を貫いて伸びる道は、草原の中で白く浮き立って見えた。
アージェはあと二月程は付き合うのであろう街道を、目を細めて眺める。
そうして彼が手綱を操り街道を進み始めた時、城門の方から彼の名を呼ぶ声がかかった。
「アージェ!」
張り裂けそうな女の声。ケレスメンティアの人間がその主を見てぎょっと道をあけた。
女皇の正装を纏ったままのレアリアは、長い薄紫の裾を引いて駆けてくる。白金の髪を覆い隠していたヴェールが落ち、付き従ってきたエヴェンがそれを拾い上げた。
しかしレアリアは背後を振り返ることなく、旅立とうとする青年の傍に走り寄る。馬のすぐ傍に立ちアージェを見上げた。
彼女は胸に手を当て呼吸を整えると、か細く微笑む。
「レア」
「ありがとう、アージェ」
「礼を言われることなんてない。むしろ俺の方が言うべき」
彼がそう言うと、しかしレアリアは首を横に振る。
彼女は潤んだ目をまたたかせて、ただ一人の相手を名残惜しそうに見つめた。
それ以上何も言おうとしない、委ねようとしない女を、アージェは真面目な顔で見下ろす。
「俺の方が色々してもらったんだ。何か代わりに望みがあったら聞くよ」
思ってもみない青年の申し出。女皇は軽く驚いたのか目を丸くした。しかしすぐにかぶりを振る。
「いいの。ありがとう」
「本当に? 何もないのか?」
「うん。……気をつけて」
レアリアは白い手を彼に向かって振った。
アージェが頷くと、馬は再び歩き始める。
しかしその歩みはほんの数歩で止まった。彼は振り返り、彼女に問う。
「あのさ、二年前のこともそうだけど、何で俺に色々してくれるんだ? やっぱり俺がディアド候補だったからか?」
それは二年前、彼が知りたくて、だが自分で答を出した疑問だ。
レアリアはディアド候補であったからこそ自分を尊重してくれたのだと、全てを知った時からアージェは思っていた。
だが今、去っていく彼に対してもレアリアは変わらず微笑む。
アージェが自分の騎士にはならないと分かっていても、彼女の思いは不思議と変わるところがないようだった。
その理由を問われたレアリアは、青紫の瞳を宙に彷徨わせる。少し物悲しげな微笑が、彼女の顔に浮かんだ。
「最初に遺跡に行った時のこと、覚えてる?」
「ああ」
「あの時私、無茶なこと沢山言ったよね。何も分からなくて我儘言って……。
 でもアージェは、嫌な顔してても仕方ないなって親切にしてくれた。すごく嬉しかったの。
 私がただの怪しい人間でも、ちゃんと手を取ってくれた。私、本当に嬉しくて……あなたと友達になりたいと思った」
嬉しそうに笑う彼女。その双眸から透明な涙が零れ落ちるのを、アージェはじっと見つめる。
レアリアの声は微かに震えていた。
「なのに、友達になりたいって思ったのに、変なこと押し付けようとしてごめんなさい。
 私が本当に欲しかったのは騎士じゃなくて、ただ―――― 」
女は言葉を切ると深く息を吐き出す。
薄絹の上に滴り落ちる涙は、すぐに紫の波間に吸い込まれて見えなくなった。
風に揺れる草原。アージェは僅かに眉を顰める。
「そんな理由だったのか」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。何をしてくれなくても、そんなに気にしなくても……俺はレアを友達だと思ってたよ」
それは、既に離れてしまった手を思う言葉だ。
二年前に一度放された手。あの時彼らがどう立ち回っていれば、今もお互い向かい合うことが出来ていたのだろう。
思い返しても答の出ない仮定。アージェは過去の自分に後悔を覚えた。
「友達だと思ってたんだ。今からでもやり直せるなら、そうでありたいと思ってた」
「アージェ」
「でも俺は」
呟きはぷっつりと途切れる。
アージェはかぶりを振ると、手綱を置いて馬を下りた。レアリアの前に立ち彼女を見下ろす。
青年は手を伸ばし、彼女の濡れた頬を指で拭った。とても大切な壊れ物を扱うように彼女の頬に触れる。
レアリアは優しい指に息を飲んで、男を見上げた。
「アージェ」
「本当に……ごめんな」
それが、友人としての彼の最後の言葉だった。



アージェは女の双眸を至近で覗き込むと、触れていた両手を離した。不意に姿勢を正し、女皇の前に膝をつく。
自分に向かい頭を垂れた青年を、レアリアは驚愕の目で見やった。
「アージェ?」
「陛下」
青年の呼びかけは、レアリアの虚を突き、顔を強張らさせた。
一瞬で全てを悟った彼女は足下の男を注視する。
違えられた願い。変わってしまうことは必然であったのか。
男の硬質な声が、立ち尽くす彼女の耳に届く。
「今から、あなたが俺の主人だ。俺は神ではなくあなたに仕える。
 女皇陛下、俺は、唯一の存在たるあなたの騎士になる」
「―――― アージェ」
決意だけを込めた誓い。
それは、この時点から二人の関係が変わることを意味していた。
レアリアは喘ぐように口を動かすと、可憐な唇を噛み、きつく目を閉じる。
失ってしまったものを思う時間。痛みを伴う空白はけれど、いつも彼女には長く許されていなかった。
女皇は目を開けると、冷厳とした瞳でアージェを見やる。
「わたくしの騎士よ。あなたはこれより、わたくしの片翼。わたくしの光。生くるも死ぬも全てわたくしと共にするのです。
 ―――― その覚悟がありますか?」
「ああ」
「ならば、ディアドの証を」
言われてアージェは銀の指輪を取り出す。
レアリアはそれを受け取ると、震える手で彼の左手の中指に嵌めた。最後に両手で彼の掌を支えると、指輪の上に口付ける。
柔らかな唇の触れた箇所から痺れるような感覚が走ったのは、これがディアドを定める儀式であるからなのかもしれない。
痺れは彼の中を伝わると、アージェが抱える澱と一つになり沈んでいった。
女皇は黒い左手を己の額に押し戴く。レアリアは熱くなる瞼を閉じて囁いた。
「アージェ」
「うん」
「あとで……剣を用意するから」
「分かった」
礼の言葉も、謝罪も口にすることが出来ない。
レアリアはただ今だけは、声を上げて泣きたいと思った。






白い城の廊下は何処までもまっすぐに続いているように見える。
ついその果てのない景色に見入っていたアージェは、後ろから肩を叩かれ眉を寄せた。更に後頭部を叩いてこようとする手を身を屈めて避ける。
「何するんだよ」
「こっちの台詞だ。こんなところでぼけっとしてないとちゃんと陛下のお傍にいろ」
「迷子になってるんだよ」
堂々とした反論に、エヴェンは呆れ果てた顔になる。彼は「さっさと覚えろ」と言うと踵を返しアージェを手招いた。
案内してくれるのであろう男の後についていきながら、青年はふと背後を振り返る。
壮麗な光景、神に守られた平穏の国。
人々はそれを不変と信じ、神を崇めているのだろう。
彼からすると遠く理解しがたかった空気。
けれどその景色はもはやただ綺麗なだけではない現実に、アージェの目には映っていたのだ。



Act.3 - End -