朽ちぬ果実 134

何処までも広がる白い空間。
そこは、かつてはレアリアが物思いに耽る為の安寧の場所だった。
ままならない現実から少しだけ離れたい時、彼女はよくそこに籠もった。
誰も入ってはこれない彼女だけの空間。そこでレアリアは蓄えられた記憶を辿る。
無数に連なる記憶の破片に触れ、「今」から遠くへ意識を飛ばすのだ。
だがいつからか、彼女はその中に入ることをやめた。
空間の中にいるとやまない声に苛まれるからかもしれない。
義務を果たせ、己の役割を忘れるなと彼女に囁く声は、日増しにその強さを増していた。
しかしレアリアはその声を避ける為だけに空間を作らないのではない。
彼女はいつしか、現実から遠ざかる必要を感じなくなったのだ。
彼の血を継ぐ少年。アージェと出会い、彼を知るようになってから、レアリアは少しずつ考えを変えていった。
前を見て歩き続ける男と出会い、得たものは緩やかな転回。
―――― そしてレアリアは密かに、一つの望みを抱きつつあった。






「あー、そりゃ多分、跡継ぎの問題だな」
宵に入ったばかりの夕食の時間、女皇がいる隣の部屋でテーブルを囲んでいるアージェとエヴェンは、昼の執務室での一件を話題に挙げていた。
同僚が口にした重臣たちの様子について、エヴェンはよく冷えた水を飲みながらそう評する。
アージェはそれを聞いて「ああ」と納得の声をあげた。
「陛下がご結婚なさってないからか」
「そう。こりゃ大問題だぜ。場合によっちゃディアドがいないことより問題だ。
 何しろ次代の女皇がいないんだからな」
「まだレアは二十歳だろ」
思わず憤然としてアージェがそう言うと、エヴェンは肩を竦める。
「二十歳になるのにご出産を済ませてない女皇は史上初だ。二千年近く歴史があってそれだぞ。
 ディアドがいなかったことといい、陛下が異端視されるのも無理もない」
男の言い方には多少の棘が感じられた。
レアリアの親衛隊に所属しているエヴェンは、時折主君との一線を示すかのようにこうして突き放した物言いをする。
それがあまり好きではないアージェは、眉を上げて反駁した。
「だからそれは陛下のせいじゃないって」
「ご結婚の話を投げ続けてきたのは陛下ご自身だ」
エヴェンの言葉は、大きくはなかったが、それ以上の反論を許さない強いものだった。アージェは渋い顔で手に持った銀器を置く。
―――― 女皇ともなれば、結婚に私的な要素が絡まないのであろうことは、アージェにも分かる。
しかしだからと言ってレアリアに「早く結婚して子供を作れ」と詰め寄ることも、彼にとっては何かが嫌だった。
出来れば関わらずにいたい話。だがディアドとなった以上そうもいかないのだろう。アージェは空いた皿を押しやると、行儀悪くテーブルに肘をつく。
「大体、陛下は陛下で何か考えがあるんだろ。いちいち前例がないとかうるさく言わないでほっとけよ」
「そうか? 案外お前のせいかもしれないぞ」
「は? 何で俺?」
「……本当、お前って残念な頭してるよなあ」
心底呆れたようにそう言われても、アージェにはよく分からない。
一足早く食事を済ませた青年は席を立った。レアリアの食事が終わるまで扉の傍で控えていようとする彼に、エヴェンは感情の見えない視線を投げかける。
「ともかく、この件はお前が考えているよりずっと周囲に深刻視されてる。
 お前が国じゃなく陛下を優先するっていうなら、これに関しては味方はいないと覚悟しとけよ」
脅しとも忠告とも取れる言葉。アージェは思い切り顔を顰めた。
「味方がいないって大袈裟な。嫌味くらい平気だ」 
「ばーか。そういう意味じゃないっての。
 必要とされているのは後継者で、その父親が誰であるかは、突き詰めればどうでもいいことなんだよ。
 だから皆何とかして陛下の気を変えさせようと思ってるし、馬鹿な奴は実力行使に出ようとするかもしれない。
 そういう状況だから、気をつけろって言ってるの」
「…………何だそりゃ」
理解しがたい警告を聞いて、口に出来たのはそのような言葉だけだ。
それ以上は何も言えないアージェは、壁に背を預けたまま脱力感にずり落ちかける。
たちの悪い冗談だと思いたかったが、エヴェンから訂正の言葉はあがらない。
青年はようやくそれを本当のことだと飲み込むと、顔を顰めた。深い赤の床敷に向かって吐き捨てる。
「胸糞悪い」
「お前のいるところはそういうところだ」
エヴェンはそれだけ言って、白々と歪んだ笑みを見せた。



別れ際エヴェンは「もうすぐいい知らせがあると思うから楽しみにしとけ」と言っていたが、アージェの気分は少しも改善しなかった。
いつの間にかすっかり夜も更け、これから寝室に向かうというレアリアを前に、彼は溜息を噛み殺す。
今までの二週間、彼は宮廷生活に慣れていないからという理由で、夜には兵士宿舎に戻ってもいいと指示されていたのだが、今日からは本来通り、女皇の寝室から二部屋隔てたディアドの為の部屋で眠ることになっていた。
レアリアの私室へと通じる小さな部屋は、全てが整然として小さなテーブルと椅子の他には何もない。
ただ壁にはびっしりと聖句が記された白布が張られており、アージェからするとそれだけが浮いているように見えた。
レアリアは扉を前に彼を振り返り、首を傾げる。
「どうかしたの、アージェ」
「いや何でも」
反射的に否定してしまった彼は、しかし思いなおすとじっと主君を見下ろした。
朝から途切れぬ仕事をこなしてきた女皇は、部屋が薄暗いせいか少し疲れているようにも見えたが、表情に曇りはない。
アージェは軽く頷いた。
「何かあったらすぐ呼んで」
「うん……おやすみなさい」
「おやすみ」
小柄な女の頭を、青年は子供にするように撫でる。
柔らかい髪。指の間を通り抜ける白金を、アージェは何とはなしに目で追った。
しかしすぐに、彼は自分のしたことの不味さに気付いて手を放す。
「あー……ごめん、じゃなくてすみません」
誰かと眠る前の挨拶を交わすことなど随分していなかった気がする。
そのせいかついクラリベルにするように頭を撫でてしまったが、主人にしていいことではないだろう。
部屋の隅で彫像のように控えていた女官が目を丸くしているが、彼はあえてその視線に気付かない振りをした。一歩下がると、それだけは真っ先にエヴェンから叩き込まれた騎士の礼を取る。
レアリアは驚いていたのか固まっていたが、彼が頭を下げたのを見ると微苦笑した。もう一度「おやすみなさい」と笑って扉の向こうへと消える。
そうして一人になったアージェは、少しだけ気が楽になった気がして、大きく息を吐くと壁の聖句を見やった。
「本当、変な国だな」
素直な述懐は誰の耳にも届かない。
ただアージェは、それでも神であればこの呟きも聞いているのだろうかと、幼児のような疑問を抱いて踵を返したのだった。



ケレスメンティアにおいては、夫よりも女皇に近いと看做されるディアド。
その部屋が思っていたより主人の部屋と近いことに、アージェははじめ呆気に取られたが、危急時に駆けつけることを考えれば当然のことだろう。派手なところのない部屋は、普通の窓の他に中庭に面した小さな窓が取り付けられており、そこから外の音を拾うことが出来るようになっていた。同じ中庭にはレアリアの部屋の露台も面しており、異常があれば物音で気付くことが出来るだろう。
もともと傭兵をやっていた彼は、眠りが浅い。アージェは一通り部屋を確認すると、汗を流して寝台に入った。
そして夢のない眠りの中へと落ちていく。

腹の上に加わる違和感。
それを現実と認識した時、彼の手は既に敷布の下の短剣を抜いていた。半ば本能的な動作によって自分の上にいる「何か」へと刃を振るう。
物音はしなかった。気配もない。だが重みだけは確かに体の上に加わっており、アージェはそれを無視出来なかった。
彼は腕の力だけで短剣を振るい―――― しかしその手を寸前で引く。
意識が遅れて覚醒する瞬間、アージェは上にいる人物の顔を見て、全身がぞっと冷えた。
仰臥する彼の上に両膝をついて座っている女。彼のよく知る彼女は、大きな瞳でアージェを見下ろしている。
白金の髪は掛布の上にまで広がり、作り物のような貌は翳のせいか蒼白く見えた。夜着のままの彼女は細い足を崩して彼の上に座っている。
女は彼が目を覚ましたと見ると、小さな両手を男の胸の上についた。
危うく自らの主人を傷つけるところであったアージェは、指を開き握っていた短剣を床に落す。
「陛下?」
何をしているのかと、問おうとする前に彼は女の瞳に気づいた。
普段は青みがかった紫の瞳。しかし今はそれが、赤みが強く見える。
部屋が暗いせいではない色の違いに、アージェは忘れかけていた記憶を思い出した。
彼が初めて彼女を「見た」時のこと、埃っぽい街角に立ち、彼を注視していた少女の姿が甦る。
「レア? ―――― じゃない、か?」
「察しがいい」
女の声は、レアリアのものと同じではあったが、幾分低く響いた。
それを聞いたアージェは、短剣を手放したことを後悔する。反撃をすべきか否か、ただいつでも起き上がれるようには体を意識した。
状況を把握しようとする彼に、女は柔らかく微笑む。
「驚かぬのだな。自らも別の人間を宿していたせいか?」
「あんたも残滓か? そいつの体で何やってるんだよ」
「私は死者ではない。今もこうして生きている」
女はそう言うと目を細めた。
赤紫の瞳。その色に何かを思い出しそうになって、アージェは眉を寄せる。
いつかの遺跡、幼いレアリアの泣き顔と、もう一人の女が脳裏をよぎった。
見た覚えのない景色に青年は軽い頭痛を覚える。
「あんたは、何だ」
「まだ分からぬのか?」
優美な声。それは悠久を孕んだ響きだ。最古の皇国、神の代理人たる女は、顔を寄せ至近からアージェを見下ろす。
「新たなるディアドに我が名を告げよう。
 ―――― 私の名はクレメンシェトラ。神よりこの国を与えられた者だ」