朽ちぬ果実 135

クレメンシェトラ。
それは神の娘とも言われる、ケレスメンティア初代女皇の名だ。
アージェが初めて彼女の名を聞いたのは、ディスヴィウェルドの遺跡にて。
半分はケレスメンティアの人間である「母」は、彼女のことを「最古の女皇」と言っていた。



小柄で薄い体つきをしているレアリアは、上に乗られてもさほど重くはない。
重くはないのだが、正体の分からぬ相手が自分を上から見下ろしているという状況は、居心地が悪いどころではなかった。
アージェはすぐ上の女をねめつける。
「とりあえずどいてくれ。胃が気持ち悪い」
「断る。お前は外で育っただけあって畏敬の念が足りぬ。何をしでかすか分からぬからな」
「レアは傷つけない」
それだけは、譲れない彼の一点だ。
レアリアと同じ顔のクレメンシェトラは、皮肉げに微笑んだ。
「その言い方は、私であれば傷つけると言っているようだな」
「さぁ? それより、何の用だよ」
彼の上に乗っている女には、その問いが妙におかしく聞こえたらしい。くすくすと軽い笑い声を立てた。
その表情、仕草を見るだに、アージェは「やはりレアリアとは別人だ」という確信を抱く。
クレメンシェトラは白い指を伸ばすと青年の耳朶を撫でた。
「単なる挨拶だ。ディアドには代々、私の存在が明かされる」
「ってことはあんたは代々いたわけか。どういう仕組みだ?
 女皇が女しか産まないこととか、早死になことに関係あるのか?」
「本当にお前は、歯に衣着せぬ男だな」
呆れ顔の女は、しかしアージェの問いが不快ではなかったらしい。息をつくと大輪の花のような笑顔を見せた。
「お察しの通りだ。代々の女皇は全て、私自身でもある。女皇は女皇を生み、私は体を変えていく。
 ……早逝については私が望んでそうしているわけではないのだがな。
 私を生むことはやはり、女の体には堪えるのであろう」
容易には信じられぬ話。
だがそういうものとして踏まえてしまえば、納得のいく話ではある。
五歳から女皇の責務を継いだというレアリアが、執務官の補佐を得たとは言えどうして問題なく采配を振るえていたのか。
生まれた時から身の内に老練な女を宿していたとなれば、それも可能なことであろう。
レアリアは母親の為すことを見て覚えていたわけではない。母親に宿っていたものと同じ存在が、彼女の中に移ってきていたのだ。
アージェはクレメンシェトラの言葉を改めて反芻する。
「そうか……ならレアから出てけ」
言うなり彼は体を跳ね上げた。寝台の上に起き上がると、転げ落ちそうになる女の手首を捕らえて引き寄せる。
少しでも力を加えれば壊れるであろう華奢な体。その体を右腕で抱き込み、左手で首を掴んだ。力を込めず、ただ動けぬように固定する。
一見して生殺与奪を握られた態勢になったクレメンシェトラは、赤紫色の目をしばたたかせた。
「乱暴なことをしてよいのか? この体はお前の主君のものでもあるのだぞ?」
「そう言えば俺が引き下がると思ったのか?」
強気な態度は駆け引きの一種である。
アージェはしかし、この怪しげな存在を口先だけで何とか出来るとは思っていなかった。
彼は、女の首を掴んだままの左手から糸を紡ぐ。僅かな緊張を抱えつつ、かつてルトにしていたようにその糸を女に繋げた。
そうして直接、女の内に干渉しようとする。
しかし糸は、彼女の中に入ろうとした瞬間弾かれた。
「その力で私を何とか出来るとでも?」
子供の軽挙を諌めるような声。アージェの喉元には気分の悪さがこみあげる。
彼は左手に力を込めそうになって、何とかその衝動を制した。
クレメンシェトラはレアリアの顔で妖艶に微笑む。
「お前に私を拒絶することは出来ぬ。私が女皇そのものだ」
「俺が仕えてるのはレアだ。お前じゃない」
「強情な男だ。―――― ならレアリアをくれてやろうか」
「は?」
動物の前に餌を放るような物言い。続いて伸ばされた手は、アージェの頬に触れた。
もう片方の手が、首にかかっていた彼の手を解く。黒い左手は彼の意思から外れて、従順に女に従った。
寄せられる美しい貌。女は、レアリアそのものの表情で微笑む。
「アージェ」
「……っ」
甘い香り。耳の奥に忍び込む囁き。
しなだれかかる柔らかい肢体に、思わず全身が震えた。首の後ろがぞっとする。
不味いと、そう思った時には既に、アージェは女を突き飛ばして自分は後ろに引いていた。寝台の端から転げ落ちそうになり、だがそのまま床に手をついて一回転する。
急に視界が回転した為だけではない眩暈。額を押さえる青年に、寝台の上から喉を鳴らす艶笑が聞こえた。
クレメンシェトラは寝台の端からアージェを覗き込んでくる。
「そこまで嫌がられると、レアリアも傷つくであろう?」
「お前こそ勝手に何やってるんだよ……」
「もうあまり時間がない。私には次の体が必要なのだ」
「ならそのまま消えろよ。レアはお前の道具じゃない」
「このまま私を留め続ければ、レアリアはあと数年も持たぬぞ?」
「は?」
間の抜けた声は、遅れて彼自身の耳に届いた。アージェは女の目を見やる。
寝台にうつ伏せになり彼を見下ろすクレメンシェトラは、その視線に小首を傾げて見せた。
「何故皆が二十歳までに出産を済ませると思う? それを過ぎれば心身が耐え切れなくなるからだ」
「出産が体に負担をかけるんだろ?」
「そうだが、留め続けることはもっと不味い。
 ―――― お前はレアリアと再会した時、外見がほとんど成長していないと思わなかったか?
 私を擁したままでいることで、肉体には無理がかかっている。
 いずれは私もレアリアも共に壊れてしまうだろう。次を早く産めばまだ間に合う」
女はそう言うとアージェを手招く。犬猫を呼ぶようなその仕草は、彼に更なる頭痛を呼び起こした。
青年は、女の手を払うと確認する。
「今の話、レアも知ってるのか?」
「勿論知っている。私たちは根を同じくしているからな」
「じゃあレア出してくれ。レアと話したい」
「レアリアを相手にした方が、お前は素直になれるのか?」
「いいから、レア」
重ねて要求すると、クレメンシェトラは「ふむ」と思案顔になった。



夜の部屋。窓の外からは何の物音も聞こえない。
クレメンシェトラは寝台の上に座ると、翳を乗せた睫毛をゆっくり下ろした。
そうして半眼となった瞳には一瞬、昏い影が落ちる。赤か青か、途端にその色が判然としなくなった。
アージェは友人であった女を引き戻そうと口を開く。
「レア」
小さな呼び声に、彼女の瞳は震えた。
死から生へと浮き上がってくる意思。人形のような造作の女は、静かに重い瞼を上げる。
そうして再びアージェを見た女は、確かに彼の知る「レアリア」であった。大きな瞳が見開かれ、そこに人格が宿る。
彼女は何度かまばたきをすると、現状を把握したのか顔を強ばらせた。白い肌が薄暗さのせいだけではなく蒼白に見える。
「ア、アージェ」
「うん」
「あ、あ……ご、ごめ」
「いい。分かるから」
言ってアージェは立ち上がった。奥の壁に上着を取りに行くと、寝台に戻り彼女の肩に羽織らせる。
レアリアはその間、両拳を寝台について俯き、何も言おうとはしなかった。
彼は震える肩を見て、泣き出しているのだろうかと彼女の様子を窺う。
しかしレアリアは泣いてはいなかった。歯を食いしばり、目を見開いて怒りに震えている。
アージェは初めて見る彼女の表情に驚き、問おうとしていた言葉を失った。彼女は掠れた声を絞り出す。
「……ごめんなさい」
「陛下」
「な、何でもないの。本当に……忘れて」
そう言って彼を見上げたレアリアは、もう怒りを面には出していなかった。ただひどく悔しそうな目をして、弱々しくも笑顔を見せる。
そのまま彼女は上着の前をかき寄せると、寝台を下り部屋を出て行こうとした。
触れられることを拒んでいる背中。その背に迷いながらも、だがアージェは彼女を追いかける。
「待てって。待ってください」
「や、やだ」
「ちょっとちゃんと話をしたいから。聞きたいことがある」
アージェは細い肩を掴むと、主人を振り向かせた。
泣き出す寸前の女の顔。けれど彼は青紫色の瞳を真っ直ぐに覗き込む。
知りたくないと思っていたこと、だが見過ごすことも出来ぬ話が、衝動となって彼の口をついた。
「陛下。俺は、本当のことが聞きたい。
 ―――― 早く跡継ぎを産まなきゃ、陛下は生きられないのか?」
もし肯定を返されたのなら、どうすればいいのか。
レアリアに一刻も早い結婚を勧めるのか。それとも死の可能性への覚悟を決めなければならないのか。
自分でも答の分からぬまま、アージェはレアリアの返事を待った。
やけに一秒が長く思える空気。彼女は苦痛を堪えるかのように形のよい眉を歪める。
そしてレアリアは、深く深く息を吐いた。
「クレメンシェトラの言ったことなら、全部本当」
「なら何で今まで……」
「大した理由はないの。あんまりその気になれなくて……」
女は自嘲ぎみにかぶりを振る。宙を泳ぐ青紫の瞳が、不意にアージェの左腕の上で止まった。
「ただ今は、私は」
途切れる言葉。
レアリアはその先を言わぬまま息を止める。
彼女の精神は、その一瞬で固く色を失ってしまったかのようだった。



沈黙は、語られないただの言葉だ。
アージェは女の腕を押さえていた手を放すと、俯くレアリアを見下ろす。小さな背に手を回そうかと思ったが、彼はそれをしなかった。代わりに出来るだけ落ち着いた声をかける。
「理由があってもなくても、俺は陛下に死んで欲しくない」
「ア、アージェ……」
「だからって、生まれる子にまたクレメンシェトラが移ることがいいこととも思えないけど。
 そいつだけ何とか消しちゃうってことは出来ないのか?」
「―――― まったくお前は言いたい放題だな」
クレメンシェトラの声。
それを聞いた時には既に、アージェは脛を蹴られていた。
レアリアの体にそのようなことをされるとは思っていなかった彼は、痛みに眉を顰めて苦言を呈する。
「レアと話したいって言っただろ。引っ込んでろ」
「そこまで言われると清清しくなってきたぞ。さすがエイディアの息子だな」
「俺の母親のこと知ってるのか」
反射的にそう言ってしまったアージェは、すぐに自分の発言の馬鹿馬鹿しさに気付いた。
クレメンシェトラが代々女皇の体を渡り歩いているのなら、先代女皇の時代のことも知っているはずなのだ。
嫌そうな顔になる青年を、クレメンシェトラは稚気の漂う目で見上げる。
「エイディアは私のよき友人であった。気の強い娘で、はじめはやはり食って掛かられたな」
「……ディアドじゃないのにお前のことを知ってたのか」
「あの頃は色々あった」
そう言って笑うクレメンシェトラの物憂げな顔は、不思議な人間味に満ちていた。
レアリアと同じ造作ながらまったく違う女に見えるその貌を、アージェはじっと見下ろす。
長い長い歴史。その全てを彼女は記憶しているのだろうか。
アージェは彼女自身に幾許かの興味を抱きながら、だがそれよりも主人を優先させた。クレメンシェトラを睨む。
「レアを出せよ」
「レアリアは、今日はもうお前と話したくないそうだ」
「は? ちょっと待てよ」
「お前も少しは絡め手というものを覚えたらどうだ?」
からかうようにそう言って、クレメンシェトラは床を蹴る。
ふわりと浮き上がる夜着の裾。次の瞬間女の姿は部屋の中から消え去った。
甘い残り香だけが残る空間。暗い室内をアージェは見回す。
「何だこれ……夢か? 俺、夢遊病か?」
そうだったらいいと思いながら寝台に戻った彼は、しかし壁の一面を見て苦い顔になる。
確かに寝る前にはそこにかけておいた上着。紺色の騎士の服はけれど部屋の何処にも見当たらなかったのだ。