朽ちぬ果実 136

白い空間は久方ぶりに作られたものだ。
レアリアは何処までも続く床の中央で、一人目を閉じて椅子に座していた。クレメンシェトラの声が響く。
「何故何も言わない」
「言うことがないから」
女の声は、この空間では違うものとして聞こえる。
一つの体を通してではなく、彼女たち本来の声が顕になる場所。
レアリアは小さな手で玉座の縁を握った。
「言うことはないわ。言いたいことも何も」
「レアリア」
「ただ私が生きている間は、体は私のものだわ。昨日のようなことはやめて」
玉座を握る指が、ぎりりと爪を立てる。
彼女の感情を示すものはその一箇所だけで、美しい貌はよく出来た彫像のように動かないままだった。
クレメンシェトラは声に苦味を滲ませる。
「お前には役目がある。自分の為にも大陸の為にも、お前は子を産まなければならない。
 ただ相手があの男であれば、少しは気が紛れるかと思っただけだ。
 それともお前は、あの男が自分のものにはならないことを恐れているのか?」
「関係ない。彼は誰のものにもならない」
「だがお前のディアドだ」
念を押す言葉に、レアリアはふっと笑った。かつてディアドを喪失した女皇は、閉ざしていた瞼を上げる。
「話すことは何もないわ」
「レアリア……」
クレメンシェトラの深い溜息が白く輝く床に跳ねた。
神代より生きるもう一人の女皇は、翳りを帯びた呟きを洩らす。
「お前はあの男と、出会うべきではなかったのかもしれぬな」
レアリアはその述懐に、床を見据えて無言を保った。






石の玉座に座するは一人の女。
それは変わらず在り続ける者であり、代わり続ける者でもある。
神より彼女に与えられたものは存在と国、そして使命。
死ぬことの許されぬ彼女は、今日も永劫を渡り続ける。






「で、お前なにやらかしたんだよ」
クレメンシェトラからその存在を明かされた翌朝、アージェは朝食の席でエヴェンを前に渋面を作っていた。
宮廷作法について、青年の教育係も兼ねている男はにやにや半分驚き半分で若い同僚の顔を覗き込む。
本来であれば今のアージェは、起きている時間の三分の二をレアリアの傍で過ごしているのだが、それを今日は「来なくていい」と言われてしまったのだ。
連絡自体はエヴェンの口から聞いたのだが、探りを入れてみると「クレメンシェトラ」ではなくレアリア自身がそう言ってきたらしい。
おそらくアージェと顔を合わせづらいか、問いつめられるのが嫌かでそのようなことを言ってきたのだろう。
アージェは言伝を聞いた瞬間、歯軋りしてしまったが、それはエヴェンに好奇心と杞憂を抱かせてしまったようだ。既にアージェは朝食を取る間に三度、男から「短気を起こすなよ」と釘を刺されていた。
「何もやらかしてないし、別に辞めたりしないって。それよりさ、ちょっと聞いていいか?」
「うん? 何についてだ」
「クレメンシェトラ」
昨晩の彼女の口振りでは、その存在を知っているのはまず代々のディアドとその近しい者がそうであるらしい。
アージェはそれ以外に彼女の存在を把握している者がいるのか、エヴェンの表情を窺った。
真剣な顔をしていればきちんと貴公子に見える男は、軽く首を斜めにする。
「そりゃ、初代女皇陛下だろ。神の娘で、大陸の平定をディテル神から委ねられたお方だ。
 それを為す為に彼女にはこの国が与えられた」
「この国? 神具じゃなくて?」
「現存してる記録を見ると、初代女皇陛下にはこの国が与えられたとしか書かれていないんだ。
 ただ実際にはちゃんと神具もある。城の奥には神具を安置している神殿があるからな」
「やっぱりあるのか」
「ああ。けど神具自体についての記述はほとんど残っていないし、俺たちも詳しいところは知らないんだ。
 神殿の中に何が安置されてるのか、皆が知らない」
「そこ、入れないの?」
「入れない。陛下であれば入れるが、多分お入りになっていないと思う」
まるで目隠しの布を被せてあるかのように判然としない話。
だがアージェは、神具についてはとりあえず後回しにしようと頭の脇に置いた。
改めてクレメンシェトラについて問う。
「で、あんたはその初代女皇に会ったことある?」
「あるわけないだろ。お前、熱でも出たのか?」
「平気。そうか、ないのか」
エヴェンの表情を見るだに、嘘を言っているようには感じない。
ただこの男はアージェよりもずっと真意を隠すことに長けている為、本気で誤魔化されたらそれを見破ることは困難だろう。
しかしアージェは、それを差し引いても男の言うことを「嘘ではないだろう」と判断した。
彼は切り口を変えてみる。
「レア、じゃなくて陛下を見ていて何か気づいたことってあるか?」
「それは俺がお前にこそ聞きたいよ」
「いや、俺が来る前とか。もっと子供の頃とか。
 たとえば陛下ってすごい童顔だろ? 体型もあんまり大人のものじゃないし」
「……俺は今、お前のすごい駄目さに驚いてる。まさかそんなことご本人に言ってないだろうな」
「童顔とは言った。じゃなくて、真面目に聞けよ」
アージェがテーブルを指で叩くと、エヴェンは大きな溜息をついた。
非常に残念なものを見る目つきで見られ、青年は顔をしかめる。
「何だよ」
「いや……処置なしってこういう気分なんだろうな。いい知らせを教えたくなくなる」
「何かあるなら言えよ」
「とりあえずそれは後回しな。あー、陛下の外見についてなら、確かにある時からあまり変わられていないな。
 もっとも代々女皇陛下はそういう方が多いそうだ。特に未婚の方はな」
「なるほど」
「多分体質が似てらっしゃるのだろう。今の陛下も先代陛下に瓜二つと言われているし」
血と共に受け継がれるもの。それは単純な遺伝だけではない。
アージェは昏い目で聞き返した。
「じゃあ、先先代とは?」
「うん?」
「二代前の女皇とは似てたって言われてる?」
エヴェンはその問いが予想外だったのか目を丸くする。だがすぐに記憶を探る目になると頷いた。
「そういや、先代陛下もその母君によく似ていらしたそうだな」
「で、その先先代も母親と瓜二つなんだよな」
投げやりに結論づけるアージェに、男は眉を寄せる。
「何だ、何が言いたいんだお前」
「色々腹立たしい」
「訳分からん」
朝食の皿は既に大半が空になっている。
アージェは席を立つと扉へと向かった。まだお茶を飲んでいないエヴェンがその背に声をかける。
「一日空いたし、剣見てやろうか」
「今日はいい。色々調べたいことあるし。ユーレンまだいるかな」
「待て待て。ディアドが国外の学者と気軽に相談するなよ。城付きの奴を紹介してやるから」
「ケレスメンティアの人間は信仰って先入観があるから嫌だ」
「だからお前がそういうことを言うなと」
立ち上がったエヴェンはアージェを羽交い絞めにしようと追いかけて手を伸ばした。それを避けようとする青年とで、二人は軽い揉み合いになる。
アージェは無駄な膂力を発揮してくる男から何とか脱しようと、相手の手首を逆に取った。そのまま捻り上げようとした時、扉の方から冷えた男の声がかかる。
「何をしているのですか?」
何処かで聞いた気もする声。アージェが振り返ると戸口には、血色の悪い男が立っていた。
灰色の髪に痩身の彼は、紺一色で纏められた政務官の服装を纏っている。そう言えば決闘の時にもいた気がするな、とアージェは思い出した。
エヴェンは嫌そうに男の名を呼ぶ。
「シン」
「貴方は教育係として彼につけられているはずです。何故そこで彼の肩を外そうとしているのですか」
「教育的指導だ。口を挟むな」
「何処が教育なんだよ……」
「教育というのなら、こちらに彼をお借りしたい。そろそろ主要な聖句の暗誦が出来ていい頃でしょう」
「げっ」
殴り合いも聖句の暗誦もどちらも御免被りたい。
アージェは苦し紛れに話題を転換させようと試みた。
「俺、ちょっと過去のことについて知りたいんだよ! 今日はそれ調べるから!」
「過去のこと?」
男の手が緩む。
一変した空気に訝しさを覚え、アージェが手を放すと、エヴェンは神妙な表情で政務官の男を見ていた。
一方シンと呼ばれた男は、まったく変わらぬ無表情でエヴェンを見ている。
男は何ということのないように言った。
「知りたいというのならば、教えてやればよいでしょう」
「シン」
「彼はディアドだ。知る権利がある」
「過去のことだ。知る意味はないし、俺に教える権利はない」
「貴方があの男を殺したのにですか?」
「シン!」
叩きつけるような怒声。
初めて聞くエヴェンの怒鳴り声に、アージェは唖然とした。
見ると男は秀麗な顔を険しくさせており、シンを睨みつけている。だが睨まれた相手の方は、それを露ほどにも感じていないようだった。彼はエヴェンから視線を外すと手元の書類を見る。
「教える気がないのなら、貴方は陛下の護衛に戻って下さい。
 今日はジタル国から王族の来訪がある。ディアドの彼がいないのなら貴方がその代わりになるべきです」
「分かってるよ」
エヴェンは苛立ちを隠そうともせず乱暴に部屋を出て行った。
よく知らない男と二人きりになったアージェは、重い雰囲気に包まれて表情に困る。
シンは、何事もなかったかのように彼に向き直った。
「では聖句の暗誦についてですが……」
「あ、ちょっと待った。俺、城外の人間と会う約束してるんだ」
十数年前のことが気にならないわけではないが、今はクレメンシェトラをどうするかの方が問題だ。
アージェはそそくさと扉へ向かう。シンは「そうですか」と言っただけで、彼を止めようとはしなかった。
廊下に出た彼は、城の正門を目指して城の中を走っていく。
途中、正面回廊に差し掛かった彼は、吹き抜けの下を歩いていく一行に気付いた。
見慣れぬ服装に身を包んだ十数人は、シンが言っていた他国からの来訪者なのかもしれない。
中に王族らしい豪奢な衣裳の男を見出して、アージェは目を細めた。
彼よりもずっと年上の男、傍らにいる女の従者に何かを尋ねている男の横顔に、青年はふとささやかな違和感を覚える。
しかしアージェのその違和感は、向こうからやって来るロディを見つけた瞬間吹き飛んだ。
また呼び止められてしまう前にと彼は手近な角を曲がってその場から脱する。

幸いその後は誰に見咎められることもなく、城を出ることが出来た。
坂を下り街へと向かう途中、アージェは振り返って城を仰いでみる。
青い空の下、壮麗な姿を佇ませるケレスメンティア城。
神への祈りを思わせる美しい姿は、しかしアージェの目にはこの時、歪んで孤独なものに映っていた。