朽ちぬ果実 137

玉座の前に跪くは一人の男。
深く頭を垂れた彼を、女は紫の瞳で見下ろす。
彼女は大きく膨らんだ腹に手を添え、凪いだ海の如き静穏を保っていた。
他に誰もいない広間において、男の固く震える声が静寂を揺らす。
「貴女こそが我が主君。永遠にお仕えします……」
誓いを重ねる誓い。
魂を捧げる妄執。
クレメンシェトラはそれを聞きながら、遠く神代に紡がれた同じ言葉を思い出していた。






街に下りたアージェは、真っ直ぐにファリシアの屋敷を訪ねた。
いつも通り玄関先に出てきた彼女は、騎士の正装を着たアージェを見て息を詰める。
しかし青年は、以前と何ら変わらぬ調子で彼女に話しかけた。
「おはよう。朝から悪いんだけど、ユーレンいる?」
「え、あ……昨日から別の町に資料を取りに行っていて」
「いないのか」
アージェは肩を落としかけたが、資料を取りに行っただけならまた戻ってくるのだろう。改めて出直せばいいと踵を返した。
「分かった。また来る」
「あ、あの!」
「うん?」
彼が振り返ると、ファリシアは僅かに青ざめた緊張の顔をしている。
彼女は目を逸らして俯くと、消え入りそうな声で言った。
「先日は失礼なことを申し上げ、誠に申し訳ありません……」
「ああ」
それは「成り損ない」とレアリアが言われた時のことを指しているのだろう。ファリシアは身の置きどころがないかのように体を縮めた。
「まさか陛下にディアド様がいらっしゃるとは思いもせず……浅薄な思い込みで偽りを申し上げてしまいました。
 神の娘たる方への暴言、民としてあるまじき罪でございます」
「偽りって……そうじゃなくってさ」
謝罪をされたことが意外なら、その内容も予想外である。
アージェはケレスメンティアの常識と自分のそれが食い違っていることに、軽い疲労感を味わった。震えているフェリシアを見やる。
「あのさ、確かに俺は陛下のことそう言われるのが嫌だけど、それだけじゃなくて」
息をつく一瞬。
アージェは瞼を落とし、そこにレアリアの顔を思い描く。
彼を見て、少し嬉しそうに、少し悲しそうに微笑む彼女。
いつからかアージェは、彼女のそのような顔ばかりを見るようになってしまった。いつかのように屈託のない笑顔はもう見られない。
それは一つの時代が過ぎ去ったということであるのだろう。何かを喪失したということかもしれない。
だがそれでも、彼女が負う悲しみを傍で幾らかでも肩代わり出来ているのなら。
彼がディアドになった意味はきっとそこにあるのだ。だからこれでよかったと、アージェは思う。
「俺、あんたがああ言ったのを聞かなかったら、ディアドになってなかったかもしれない。
 レアはきっとみんなに大事にされてるんだろうと思ったままだった。
 だから俺はあんたに感謝してる。これ別に嫌味じゃなくてさ。本当のこと教えてくれてありがとう」
あれをファリシアが言ったのでなければ、アージェはそこまで衝撃を受けることはなかっただろう。
ごく普通の貴族の娘であり、異国人の彼らにも優しかった彼女。
その彼女が当然のようにレアリアを蔑称で呼んだことで、アージェは女皇を取り巻くケレスメンティアの現実に気づくことになったのだ。
礼を言われたファリシアは複雑な表情になる。
知らぬことを覗きこむような困惑の顔。だが彼女は何も言わず頭を下げた。
アージェは自分も会釈をして、彼女の屋敷を辞す。



坂を上っていく過程は、この国においては何処かしら覚悟を連想させる。
一生をその道に沿わせることになったアージェは、顔を上げて遠くに見える城を睨んだ。
道の左右にある建物は街の終わりを境に途切れ、坂は城を囲う広い草原の中を進んでいく。
清涼な風に波を作る緑の草。青年にとって未だ馴染みの薄い鮮やかな景色は、人の営みとは無関係に澄んでいるように見えた。
アージェは深く吸い込んだ息を吐き出す。
―――― 自分がどうしたいのか、どうすればいいのか。
それはひどく不透明な問題で、アージェはディアドとなった今も悩まざるを得ない。
レアリアからクレメンシェトラを分離することは出来るのか。
どうすれば彼女の命を出来るだけ引き延ばすことが出来るのか。
他に答を知る者もいないのだろう問題を考える度、彼は出口のない部屋にいるような息苦しさを感じる。
長い歴史を持つというケレスメンティアには、はたして同様の問いを抱いたディアドはいなかったのだろうか。
アージェはクレメンシェトラの言葉を思い出した。
『エイディアは私のよき友人だった』という述懐。
彼の母は、その言葉からしてクレメンシェトラを受け入れていたのだろう。
青年は生みの母にいささかの苛立ちを覚える。口の中で悪態をつきかけ、だがそれを飲み込んだ。頭の後ろで腕を組んで空を見上げる。

「随分ぱっとしない顔してるじゃない」
唐突な感想はすぐ後ろから聞こえた。
まったく気配を感じなかったことにぎょっとしたアージェは、思わず腰の剣に手をやりながら振り返る。
そこに立っていた者は予想通りの相手だ。彼は思い切り顔を顰めた。
見過ごせぬ違和感そのものとして、道の真ん中に立っている少女。
アージェは、後ろに両手を回して笑っている彼女を睨んだ。
「何の用だ、ルクレツィア」
「あ、私の名前覚えてくれたんだ。いい子いい子」
「あまりにも怪しかったからだよ」
お世辞にも好意的ではない声音で言われ、ルクレツィアは楽しそうに笑った。
しかしアージェは警戒を緩めず、金色の瞳の少女と―――― 隣に立つ男に注意を払う。
若干日に焼けた肌の男。乾いて愛想のない視線はアージェではなく、その先の城に向けられていた。
旅人の服装を纏った彼は長身に剣を佩いており、その格好自体はこの大陸では珍しいものではない。
だが雰囲気からしておそらくは腕の立つ人間なのだろう。アージェは男の間合いを目で測る。ルクレツィアはそれに気付くと笑って手を振った。
「用心しなくても何もしないし、させないわよ」
「じゃあ何しに現れたんだよ。って……、あ!」
「あ?」
―――― そう言えば、彼女がいたのだ。
真実かどうかは分からぬが、別大陸の「神の娘」だという女。
ルクレツィアであればクレメンシェトラをどうにかする方法を知っているのかもしれない。
アージェはあまりにもよい巡りあわせに感謝すると、目の前の少女に聞いた。
「ルクレツィアって本当に神の娘なのか?」
「本当」
「じゃあやっぱり女に代々憑いてるんだ」
「何失礼なこと言っちゃってんのよ、あんた」
少女は言いながら彼の脛を蹴ってくる。
昨日今日あわせて二人の女に足を蹴られたアージェは、次がないよう彼女から距離を取った。
「だって神代から生きてるんだろ?」
「普通に生きてるわよ。誰にも憑いてないし。これずっと私の体だし。
 まぁ普段は魔女ってことになってるから、もっと大人の体に成長させてるけどね。それでもちゃんと私の体よ」
片眉を吊り上げて抗議してくる彼女に、城を見ていた男が隣から口を挟んだ。
「この男はおそらくクレメンシェトラのことを言っているのだろう」
的確な指摘。おそらくこの国では重大な秘密であるのだろう事実の示唆に、アージェは驚いて見知らぬ男を見上げる。
「あんた、何で知ってるんだ……?」
「そりゃ知ってるでしょうよ」
ルクレツィアは金の目を輝かせて悪童のように笑う。
その妖艶な笑顔に不吉なものを覚えて、アージェは更に距離を取りたくなった。
彼女は、同様に嫌そうな顔をしている隣の男を指し示す。
「だってこいつ、あんたの前の男だもん」
「は?」
「語弊のある言い方はやめてもらおう」
男はますます渋面になるとじっと自らの掌を見つめた。
黒くはない指。だが、その仕草にアージェは「何か」を感じて口を開く。
「あんたまさか……俺と同じ異能者か」
澱を手繰って力とする異能者。
ある一族以外には持たぬ力をこの男もまた持っているのだとすれば、ルクレツィアの言ったことの意味も分かる。
男は顔を上げると自嘲気味に笑った。
「そうだ。ただし、もうその力はない。お前が新たなディアドになったからな」
「それって、つまりあんたが―――― 」
二十歳を過ぎると、異能の一族はディアドただ一人を除いて力が薄れてしまうのだ。
その異能を彼がディアドになることで失った人間と言えば、一人しかいない。
青年は認識し理解すると、初対面の男を敵意を持って睨んだ。
「お前が、出て行ったレアのディアドか」
「ああ」
アージェから見て従兄弟にあたる男、エヴェンの話ではネイという名であった彼は、青年の問いかけに何の弁解もするわけでなくただ首肯した。

「どうしてレアを置いていった」
それはアージェが、ディアドの出奔について聞いた時、問う意味がないと思った問いである。
理由を聞いても仕方ない。既に終わってしまったことなのだ。知る必要もないだろう。
にもかかわらず当の男を前に、彼は半ば反射的にそう口にしていた。
男は顔色一つ変えずアージェを見返す。
「嫌気が差したからだ」
「ディアドでいることにか?」
「そうだが、それだけではない」
ネイの視線は再び城に向けられた。遠くを見る目。それは距離よりも時間に向けられているのだろう。苦い声が風に乗る。
「私は父に嫌気が差した。その父を許容するクレメンシェトラにもだ」
「父親に?」
「ああ」
―――― 嫌な話を聞く予感がする。
それはアージェが時折見えるこの国の裏側に、嫌悪感を覚えるのと同じ意味でだ。
青年は話を遮るべきか逡巡したが、クレメンシェトラの名に続きを聞いた方がいいと判断した。彼は表情を殺して男を促す。
「どういうことだ?」
「お前もクレメンシェトラについては知っているのだろう?」
「ああ」
「女皇とディアドは一対などと言われているが、その実、女皇には二つの人格が存在している。
 ならばもし、ディアドがその片方のみに執着したらどうなる?」
「どうなるって……」
アージェは一瞬、自分のことを言われているのかと思い、眉を顰めた。
レアリアに仕え、彼女からクレメンシェトラを排そうとしているディアド。
だがすぐに、男の言っていることはその逆なのだと彼は気づく。
ネイは忌まわしいものをみるような目を、遠い過去に向けて笑った。
「父はクレメンシェトラにのみ執着していた。だから新たな娘が産まれた後、その執着は赤子へと移ったのだ。
 次のディアドとなった私は、物心ついた時から父の嫉妬を受け、意味の分からぬまま疎まれ続けた。
 ―――― その意味が分かった時に国を出た。それだけの理由だ」
男の言葉は過去へと向けられながら、今なお生々しい嫌悪に満ちている。
アージェはその嫌悪が自分にも感染してしまうような錯覚を抱きながら、過去を切り離そうとするエヴェンの苦々しい顔を思い出していたのだった。