朽ちぬ果実 138

女皇が持つ二つの人格のうち、一つだけを主君と仰いだ男。
二千年近い歴史において、同様の歪みが以前にもなかったかどうか、それを知る者はクレメンシェトラの他にはいないだろう。
今に生きる人間が知っているのは、針の先ほどの部分でしかない。
そしてその針の先は時に、鋭く光る先端を以て人の運命を容易く動かしてしまうのだ。

「クレメンシェトラに執着していた? だからレアが生まれて執着対象が変わったのか」
「そうだ。あれはもはや妄執と言っていいものだろうな。
 出産を終えた女皇がどれほど衰弱しても、奴は顧みようとさえしなかった」
ネイは汚らわしいものについて触れるように吐き捨てる。
男の感情は次第に当時の憤りと嫌悪に近づいているのだろう。口調は荒く、声音は強くなっていた。
一方未だ驚きの中に片足を突っ込んでいるアージェは、ディアドであった男に尋ねる。
「ディアドがそんなんじゃ不味いだろう。下手したらクレメンシェトラの存在が割れるぞ」
「不味いな。だから赤子が何とか喋れるようになるまでの一年半がもっとも酷かった。
 その後はクレメンシェトラに窘められたらしく多少はましになっていたが、周囲からは変わったディアドと思われていた」
語られる一人の男の話。それは多くの人間の道行きを変えた話だ。
アージェは自分が生まれる以前の淀んだ出来事に、単純な嫌悪感を抱いた。
ネイは瞳の中にのみ炎を揺らして青年を見る。
「お前は奴の隠し子か?」
「違う。親はエイディアとルゴーだ」
それを聞いたネイは「やはりそうか」とでもいうように頷いた。アージェの緑の瞳に別の面影を見出そうとしているのか、遠慮ない視線を投げかける。
「ルドリスにとっては、当然ながら肉親よりもクレメンシェトラの方が重かった。
 若い頃にはディアド争いの為、実の弟を殺したとも言われる男だ。エイディアも結局は奴と衝突し、城都を出ていった」
「…………」
全てをアージェには話していかなかった母。その彼女が何故自らの命を費やしてまで彼に強大な力を継がせたかったのか。
それはひょっとして兄の異常さを危ぶんだ彼女が、万が一の時にレアリアを守る人間を残しておきたかった為なのかもしれない。
エイディアが子を宿して失踪したのはレアリアが生まれてから二年後。彼女は赤子に執着する兄を見ていたはずだ。
仮にルドリスが、弟にしたようにいつか自分の息子を排したとしても、アージェがいれば男に抗し、レアリアを守れる。
エイディアがそう考え、わざわざ兄の目の届かぬ場所で子を産んだのだとしても不思議はないだろう。むしろあれほどまでに力に固執した理由が分かるというものだ。
―――― ただ彼女の計算は、正しくは働かなかった。
アージェが成長するずっと以前に、レアリアのディアドの座は空席になってしまったのだ。
ネイは今はもういない父親のことを、唾棄すべき過去として語る。
「私は奴の気狂いも、その対象に甘んじているクレメンシェトラも、どちらも嫌だった。
 最も嫌だったのは、それをよしとするこの国の体質自体ではあるが」
「だから出て行ったのか?」
「ああ。惜しいものなどなかったからな」
「―――― 嫌になったから、子供だったレアをそんな中に置いていったのかよ」
青年の声音にはその時、苛立ちよりも怒りが濃く出ていた。
彼はレアリアを孤独な座へ置き去りにした男に、過去に遡って激しい憤懣を抱く。
理解しがたい選択。脇で聞いていたルクレツィアが薄く微笑んだ。
ネイは感情を消そうと試みる目で、若きディアドを見やる。
「レアリアは、クレメンシェトラと同じ人間だ」
「違うだろ。レアはレアだ。あんたが出ていった時、まだほんの子供だった。
 置いてかれたあいつが一人でどんな思いを味わったか、あんたは俺よりよく分かるはずだろう?」
「一人ではない。父が喜んで彼女を守ったさ」
「あんたはなぁ!」
「はいはい、そこまで」
ネイに掴みかかろうとするアージェを、不可視の力が押し留める。
ルクレツィアは二人の男の間に割って入ると、微苦笑してアージェを見た。
「確かにこの男は腰抜けだけどさ、それくらいにしてやんなさいな。
 出ていった時にはこいつだって十四、五歳のガキだったんだし、あんただってずっと彼女から逃げ続けてたんだから」
痛いところを突かれてアージェは押し黙る。
他に誰の姿も見えない道。青年は意識して深呼吸した。頭上に広がる青空を見上げる。

過去のことは過去のことだ。それに自ら捕らわれることはない。
アージェは自身にそう言い聞かせると、ネイではなくルクレツィアを見た。
「それで、こんな奴連れてきて何の用だよ」
アージェ自身、ルクレツィアに聞きたいことはあるのだが、まず相手の思惑を確かめておきたかった。
金色の瞳の少女はおどけた仕草で肩を竦める。
「それがさあ、あんた私の神具いらないって言うから、代わりに異能者の先達でも紹介してやろうと思ったんだけどさ」
「先達って、まさかこいつか?」
「そそ。いきなり仲悪いみたいだけど」
「こいつに何か教わるくらいならルゴーのところに行く」
アージェが一顧だにせず言い捨てると、ネイはそれを鼻で笑った。
再び一触即発の空気になりかける彼らを、ルクレツィアが「いい加減にしないと怒るわよ」と掣肘する。
彼女は溜息混じりにアージェを宥めた。
「大体あんた、力は残ってるけど一人になってるじゃない。そんなこと言って自分だけで何とか出来るの?」
「じゃあ神具くれ」
「そうね、神具があればね、って何突然気が変わってんのよ!」
「気が変わったから欲しい。それ、ディテル神とは関係ない神具なんだろ?」
アージェ自身の異能は試したが、クレメンシェトラに効かなかったのだ。
だが別大陸の神に由来する神具であれば、女皇への決定的な武器となるかもしれない。
ルクレツィアは、強い目で要求してくる青年を胡散臭げに見上げていたが、不意にネイを振り返った。首を傾けて男に問う。
「ってことらしいけど、あんたはそれを渡す気がある?」
「好きにすればいい。最早私には使えぬ代物だ。……元々、父へのあてつけに持ち出したものであるしな」
ネイはそう言うと、腰に提げていた短剣を取り、鞘ごとルクレツィアへ放った。
普通の短剣よりも少し長く、細い剣。
神の血を引く少女は、それを無造作にアージェへと差し出す。
「じゃあ、これをあんたにあげる」
「これが神具? そいつの言う感じだとディアドに継がれるものみたいだけど」
「別に継がせようと思って作ってやったわけじゃないわよ」
少女はそう言うと白い指で鞘を掴んだ。おもむろに短剣を抜き去る。
そうして顕になった刃を見て、アージェは思わず絶句した。
まるで黒曜石を削りだしたかのような漆黒の剣身。
光を飲み込む闇の色、彼自身の左半身を思わせる色に、アージェは言葉なく見入る。
ルクレツィアの声は、その上に金粉を降らすかのように艶やかに聞こえた。
「これはもうずっと昔にね、私があんたたちの祖先の男に作ってやったの。
 それ以来、代々子孫に受け継がれてたみたいだけど」
「その男ってカルディアス?」
「違うわよ。神代なんて私まだ自分の大陸から出られなかったし。もっと後」
ずっと昔、もっと後、と言われても、いつ頃のことかさっぱり見当がつかない。
アージェは他に素朴な疑問を口にした。
「何で作ってやったの?」
「べっつにー? 単にそいつが気に入ったから。あんたたちよりよっぽどいい男だったわよ。見習いなさい」
「知らない人間は見習えない」
一応の受け答えをしつつ、アージェは鞘に戻された短剣を受け取る。
漆黒の刃を持つ神の武器。青年は重々しく頷いた。
「よし、これでクレメンシェトラを消滅させよう」
「は?」
「何?」
素っ頓狂な声を上げる男女に構わず、アージェは城を振り返る。
「じゃ、俺はこれで。ありがとう」
「って、待ちなさいよ!」
歩き出しかけた彼の襟首を、見えない手がひっぱった。アージェは「ぐえっ」と首を押さえて立ち止まる。
「何すんだよ!」
「いやそれ私の台詞だし……。何いきなり自分の主君殺そうとしてるのよ。暗殺者志望?」
「誰もレアを殺そうなんて言ってないだろ。俺はただ―――― 」
そこでふと、アージェは違和感を覚えた。
つい一時間ほど前に感じたものの、ぶり返しのような突っかかり。
彼はそれを今、何故か「見過ごしてはならないもの」として思い出していた。アージェは記憶を少しずつ遡ってみる。
「そうだ、あの来客……」
他国から来たという王族。その男を見た時にも確か何かを感じたのだ。だがロディを見かけたことで忘れてしまっていた。
アージェは違和感の理由を明らかにしようと眉を顰める。

後継がいないことが問題視されている現状。他国からの王族と言えば、レアリアの夫候補である可能性が高い。
アージェは「強硬手段に出る輩も出かねない」というエヴェンの言葉を思いだし、嫌悪に顔を歪めた。
本当にそのようなことがあり得るのか、万が一そのような手段が取られた場合、護衛についているエヴェンはどうするのか、アージェは不安を抱く。
だが彼は、そのことを心配に思いながらも、それが違和感の原因ではないと感じていた。
もう一度始めから見たものを思いだそうとし―――― そこでもっと昔の、ある記憶を思い出す。
「そうか……」
「何よ。どうしたの?」
呆れ顔で腕組みしているルクレツィアに、アージェは手短に告げた。
「悪い。話はまた後で。レアが危ないかもしれない!」
「うん? そう言ってあんた、殺しに行くつもりじゃないでしょうね。危ないのはあんた自身っていう落ちとか」
「本当に急いでるから!」
それ以上二人に構わずアージェは走り出す。今度は見えない手が彼を留めることはなかった。
城へと続く白い石道。門までは町一つ分ほど距離があるそこを、青年は全速力で駆けて行く。
彼はルクレツィアから貰った短剣を胸元に差し込むと、ようやく見えてきた門に向かい石畳を蹴った。
聞いたこと、思い出したことが頭の中で混ざり合い、夢から覚めた直後のような軽い混乱が思考を占める。
だがそれらも今は瑣末なことだ。アージェは驚く門番に手を上げて中に入ると、回廊を抜け謁見室へと向かった。
しかしその途中、中庭に出る扉の前でエヴェンに出くわす。
男は息せき切ってきたアージェを、目を丸くして見やった。
「何だ、どうしたんだよ」
「陛下は!?」
「中庭で客人と散歩してる。俺は別件で呼ばれてたんで別の騎士がついてるが」
「向こうは?」
「は?」
「客の方には誰がついてるかって!」
矢継ぎ早での問いに、だがエヴェンも何かがあると分かったらしい。訝しげな表情ながらも剣に手をかけ、答えた。
「確か向こうには傍仕えの女官みたいな女がついてたはずだぞ」
「そいつやばい!」
アージェは主君の姿を探して中庭へと飛び出す。その後をエヴェンが追いかけてきた。
「何だ? 刺客か?」
「いや」
あの人物を何と説明すればいいのか、咄嗟に言葉が思いつかない。アージェは考えながらも主人の姿を探して庭木の間を走る。
―――― 違和感の正体に気付いたのは、ルクレツィアの「暗殺者」という言葉によってだ。
その単語はかつてイクレムで出会ったテスという名の暗殺者を思い出させた。
そして更にアージェは、かつてもう一人「女の振りをしていた男」に出会ったことを思い出したのだ。
すぐに思い出せなかったのも無理はない。彼はその人物の男の姿しか見たことはなかった。
ただその人物は、女の振りをして部屋に入り込み、五人もの人を殺して回ったのだ。
理由を問われ「人を驚かせたかった」と笑った、男の異常さのことは今でもよく思い出せる。
アージェは微かに漂ってくる血の匂いに、背筋の冷える思いをしながら石路を蹴った。隣に並ぶエヴェンに答える。
「初めて傭兵について仕事を受けた時に出くわした相手だ。貴族の屋敷に雇われで入り込んで人を殺してた」
「何だそりゃ。賊か?」
「多分、殺人狂」
ケグスと出会った時に突き当たった、おかしな男。
あの男はこのようなところに入り込んで何を狙っているのか。
アージェは血の匂いを辿って広い中庭を駆けながら、脳裏に浮かぶ男の笑顔に激しい焦燥を感じていた。