朽ちぬ果実 139

鮮血が、刈り込まれた植え込みを濡らしている。
淡い日の光に輝く深紅の滴。レアリアはそれをただ眺めていた。
このようなものでも、木々の根は吸い上げ生くる糧に出来るのか、彼女はそのようなことを考える。
滴はとろとろと艶やかな葉の上を滑り、やがて縁からふくよかな形を取って下の葉へと落ちていった。
人のものと何ら変わらぬ色。これは誇ってよいものかどうか、彼女は自嘲を覚えた。レアリアは血の香のする息を吐き出す。
人は、その死の瞬間に望むものを見ることは出来ないと、いつか誰かが言っていた。
この大陸においては皆が悔恨を残して死ぬ。その感情が澱を呼び、黒い中に溶け入っていくのだと。
はたして自分の悔恨もまたそのように何処かで残るのか、レアリアはまだ答を知らない。
それを知りたがった女皇は何人もいた。だが結果に到達出来たものはいなかったのだ。
すなわち「クレメンシェトラを擁したまま死ぬ」という結果に。
レアリアは、近くに伏している三つの躯を目だけで見やる。
そのうちの一人は国外からの来訪者であり、もう二人は、刺された彼女を守ろうとして殺された騎士だ。
彼女は死した騎士たちに祈りの聖句をかけられないことを残念に思った。
もっともそれは、真実を言えば欺瞞のようなものであろう。
人は死せば何も残らず、「ディテルダ」の祈りは死者を慰めない。
レアリアは諦めて目を閉じた。男の声が彼女に届く。
「おや、まだ生きているのですか?
 最初に殺したと思ったのですが、神に愛されているという話は伊達ではないですね」
心底不思議そうな言葉。顔を覗き込んでくる殺人者の感嘆は、レアリアに何の感慨も生まなかった。
そのようなことよりも、「彼」に一つの言葉が届けばいいと思う。
澱が記憶するものが人の強い負の感情のみと言うのなら、この思いも妄執で構わない。
ただ一言、彼に伝えたいのだ。あなたこそが、私の―――― と。






ケレスメンティアの国内は、アージェの知る限り何処も「綺麗に」整っている。
それはつまり、彼の目にはまったくと言っていいほど黒い靄が見えないということだ。
アージェはそれについて今まで「さすが神の国だ」と暢気に構えていた。
人々の信仰心が深いせいか、神の力とやらが影響しているのか、とにかくこの国には澱が出にくいようなのである。
だが今、よく手入れされた広い庭にはところどころ染みのようにその靄が落ちている。
風に吹かれればすぐ消えてしまうそれらは、おそらく生じてからさほど時間が経っていないのだろう。
アージェは薄ぼんやりとした影の塊を辿って高い垣根を曲がった。すぐ後ろをエヴェンがついてくる。
「おい、空気がやばくないか?」
「言われなくても分かってるって。あいつは気づかれずに人を殺すことが上手い」
二年前の遭遇時には、男に敗北したところを見逃されたアージェだが、今度はそのような終わりにはならないだろう。
殺すか殺されるか―――― しかしレアリアがいる以上、彼には負ける気が微塵もなかった。
アージェは足跡のように残る靄を追って、三つ目の角を曲がる。
「陛下!」
花垣に囲まれた小さな広場に出た時、目的の男はレアリアの前から立ち上がるところであった。
偽装であった女官の服装は、ゆったりとした布を巻いただけのものだったのか、今は解かれただの黒い軽装になっている。
そのすぐ傍、花垣に背を預け草の上に座っている女皇は、服の胸元を真っ赤に染めていた。
閉ざされたまま開かない瞼。それを見たアージェは瞬間何もかもが分からなくなる。
「お前は……っ!」
「おや?」
足は、一秒たりとも止めなかった。
青年は男に向かって間を詰めると、長剣を振るう。
感情が先行した大振りのそれを、相手は短剣で容易く捌いた。喉元に突き出されるもう一振りの短剣を、アージェは上体を逸らして避ける。背後からエヴェンの叱咤が飛んだ。
「落ち着け! 負けるぞ!」
言いながらエヴェンは、自分も剣を抜き横合いから男に斬りかかった。
退路を塞ぎつつ生垣の方へ相手を押しやろうとする苛烈な剣。
黒衣の男は楽しげに目を瞠る。
「さすがに聖騎士が同時に二人では荷が重い」
上げられた二振りの短剣。女の細首なら落せそうな大ぶりのそれらは、二方向から振りかかる長剣を同時に弾いた。
アージェは態勢を崩しかけて、だが何とか草上に留まる。
「エヴェン、陛下を魔法士のところへ! こっちは俺がやる!」
「阿呆か! 普通逆だろ!」
だがそうは言っても、今が一刻を争うことは誰の目にも明らかである。
エヴェンは牽制の攻撃を加えると、様子を窺いながらも後ろに下がった。動かない主君へと向かう。
一方アージェは、呼吸を整えると改めて男との間合いを計った。
気を抜けば怒りに暴走しそうな自身、暴れる感情を彼は何とか制する。男はアージェを見て小首を傾げた。
「君は……何処かで会ったことがありますか?」
「さぁな!」
吐き捨てる言葉を置き去りに、青年は深く一歩を踏み込む。短剣の片方を狙った刃は、しかしもう片方に留められた。アージェは身を低くして男の足を蹴る。しかし相手はすんででそれに気付いたらしく、自ら跳び下がって衝撃を殺した。
二年ぶりの邂逅。その間に剣で生きるようになったアージェは、当時よりも遥かに鋭い剣を男へと走らせる。
顔を狙って切り上げられた剣先を、黒衣の男は短剣で逸らした。しかし重さも兼ね備えた一撃は完全には逸らしきれず、頬に薄い切り傷が走る。

血腥い場を渡り歩いていると、前にも見た人間に巡り合うことがある。
それは一度限りで会わなくなる人間よりもずっと数少ないのだが、アージェはそのような再会を果たす度、人が懸命に生きる様を見るようで何処となく安堵していたのだ。
だがこの再会は、彼に後悔しか与えない。
何故二年前のあの時、自分はこの男に勝てなかったのか。宮廷に入り込んでいるのを見た時にどうしてもっと早く気付かなかったのか。自分への激しい苛立ちが彼の視界を軋ませる。
「陛下! 陛下!?」
背後から聞こえるエヴェンの声。焦りよりも恐怖を感じさせるそれは、アージェの背筋をもまた冷やしめた。
女皇の一対たるディアドは、手袋を嵌めたままの左手を一瞥する。
―――― これ以上、かけていい時間はない。
彼は長剣を両手で構えた。ほんの一、二秒の間に息を整える。
相手の男もそれが、勝負を決める為のものだと分かったのだろう。顔の笑みはそのままで短剣を構えなおした。
風のない庭。向かい合う二人は、相手の死に向けて武器を構える。
双剣を相手にする時は、まず片方を落すよう攻めることが基本だ。
だがアージェは何度かそれを試みて、この相手では難しいということを悟っていた。
ならば速度か、力かで押し切るしかない。彼はその両方を意識しながら長剣を上げる。笑ったままの相手の目を見た。
踏み込みは一瞬。
アージェは男の正面へ、風の速度で剣を振り下ろす。
相手はそれを、左手の短剣のみで逸らそうとした。
だが先程よりも強い力を乗せられた剣は、逸らされてもなお勢いを失わず、男の左肘に食い込む。
致命傷となりかねない一撃。
しかし男は、まるで苦痛を感じていないかのように、不吉な笑みを濃くした。右手の短剣がアージェの首を狙う。
―――― それは初めから計算のうちだ。左手を囮に青年の命を刈り取ろうとしていた男。
けれどそう踏んでいたのは、アージェもまた同様だった。
あらかじめそこまでを読んでいた青年は、左手を上げ、何も持っていない手首で短剣を受ける。
本来であれば肉に食い込むはずの刃は、けれど固い何かに当たって留められた。男の顔が驚愕に歪む。
「何?」
「残念だったな」
切れ目の入った手袋。その下の肌の色は漆黒だ。男の目に納得の色が走る。
「そうか。君はあの時の」
妙に楽しそうに聞こえる声。
アージェの長剣は、そこで男の首を刎ねた。



「エヴェン、陛下は!?」
振り返った時、エヴェンはレアリアの服の裾を割いた布で彼女の胸部を縛り、傷を止血していた。
目を開けていない女皇。容易には動かせぬほどの傷なのだと、アージェは一瞬で悟る。
エヴェンは青年の手が空いたことに気付くと振り返った。
「お前、ここで陛下見てろ! ずっと声をおかけしてろよ! 魔法士を呼んでくる!」
そう言って駆け出した男が垣根の向こうに見えなくなると、アージェはレアリアの前に膝をついた。手袋を取って小さな手に触れると、驚くほどひんやりとしている。
「陛下……?」
開かない瞼。彼は女の頬にそっと触れた。滑らかな、だが温度に乏しい肌。
アージェは前からそうであったのか、最後に彼女の頬に触れた記憶を呼び起こそうとした。
認めたくない現実を、精神の裏側で誰かが吐き続ける。
「レア」
「……遅い」
ほとんど息である低い呟き。
けれど彼はその一言に心底安堵する。薄く開いた瞼の下に、赤紫色の瞳が見えた。
「クレメンシェトラ」
「レアリアが……死んでしまうぞ……」
「治せないのか」
「私がそれをしては、レアリアが」
クレメンシェトラはそこで力尽きたのか再び目を閉じる。
アージェは彼女の服の裾に黒い靄が纏わりついているのを見て、慌ててそれを手で払った。払っても次々に湧いてくる澱から彼女を庇うように、華奢な体を腕の中に抱きこむ。
「レア。しっかりしろ」
耳元で囁く声に返事はない。
鼻につく血の匂い。背に回した腕が濡れていくのが分かった。
喪失を予感しろと、彼の中で経験が囁いてくる。
だがアージェはそれらの全てに背を向けて、腕の中の女をきつく抱いた。閉じた瞼を白金の髪に寄せる。
「レア」
彼女の声は返らない。
一秒先でさえ何も見えない。
アージェは自身も息を止め、冷えていく女に寄り添う。
閉ざされた視界。何も聞こえない。
時間の流れが分からなくなる。
このまま彼女と共に、全てから遠い場所に居続けるのかもしれない。それでもいいと、アージェは思った。
手を放すことで、レアリアの泣き顔は見たくなかった。



硬直した時間。だが不意に頭上から呆れ混じりの声が届く。
「あんた、何やってんのよ」
聞いたばかりの少女の声。アージェは目を開け、顔を跳ね上げた。
「ルクレツィア……!」
「さっさと診せなさいって。手遅れになるでしょ」
金色の瞳の少女はそうして草の上に下りてくると、白い手をレアリアの傷口に伸ばした。