朽ちぬ果実 140

注がれる詠唱の声。ルクレツィアが治癒の魔法をかけている間、アージェは傷口の上に当てられる指をじっと見つめていた。
助かったという安堵はあるが、未だ頭の半分がぼんやりして上手く現実に追いつけない。
彼がそうしてレアリアの体を支え続けていると、ルクレツィアは顔を上げぬまま問うた。
「あんたさ、何でクレメンシェトラを消したいの?」
それは先程のやり取りの続きだろうか。アージェはさしたる躊躇もなく返す。
「そいつがいるとレアリアが長生き出来ない。次の女皇も、その次もずっとだ」
子供を産んでクレメンシェトラを次代に渡してしまえば、レアリアはまだ生きられる。
だがそれは、普通の人間の寿命からすると、せいぜい半分ほどでしかない長さだ。
アージェは彼女に残された十数年を、ただただ「短い」と思う。
それを聞いたルクレツィアは、形のよい眉を僅かに寄せた。
「ああ。なるほどね。あんたにとっては主体が逆なのか」
「逆?」
「うん」
ルクレツィアはそこで手を上げると話を遮る。難しいところに差し掛かったのだろう、詠唱が間に挟まった。
アージェは自身の足の上に広がっている白金の髪を見下ろす。
ところどころ血が跳ねた髪は、いつもの艶を失っているように見えた。
少女の息をつく声が聞こえる。
「実は私って、治癒よりも精神系の魔法が得意なんだよね」
「へえ。神の娘でも魔法が使えるのか、って魔女なんだっけか」
「表向きはね」
ルクレツィアは顔を上げると、レアリアの体を横向きにさせるよう指示した。
アージェは抱え込んでいる小柄な体をそっと傾ける。少女は背の傷を覗き込んだ。
「でもクレメンシェトラは魔法を使えないみたいだ」
「この子と私は違うから」
淡々とした言葉は事実でしかないのだろう。女の体を渡り歩くクレメンシェトラと違い、ルクレツィアは同じ体で生き続けているらしいのだ。
アージェは、外見的には少女にしか見えない彼女をぼんやりと眺めた。
背の傷口に触れていたルクレツィアは、血塗れた指を引くと、ふと何かを考え込むような表情になる。
金の瞳がアージェを見上げた。
「この子はさ、構造としてはクレメンシェトラの方が主体なのよ。あんたの恋人の方は補助」
「恋人じゃない」
「そ? まぁどっちでもいいんだけど。
 ―――― つまり、こう……肉体っていう器があって、その中心にクレメンシェトラが固定されてる。
 で、あんたのいう子の人格はそのクレメンシェトラがない、余りの部分に生じているわけ」
ルクレツィアは言いながら両手で碗のような形を作った。すぐにその形を崩すと、掌の中央に拳を乗せてみせる。
つまりはそれが、レアリアとクレメンシェトラの構造を表しているのだろう。
アージェはただ頷いた。
「それで?」
「うん。何で二つの人格があるかっていうのは、多分一つにはクレメンシェトラの疲弊を防ぐ為だと思う。
 やっぱりさ、神代からずっと生き続けるって、人間みたいな精神にはすんごい負担なのよ。
 だから長寿者は大抵人間とは異なる『逃げ方』をしてる」
「逃げ方?」
「そう。例えば上位魔族なんかは時間の概念が希薄だし、私だと忘却と変化がそれにあたる。
 普段は私、自分の生まれとか役目とか、あんまり覚えてないんだよね。昔のことすごくぼんやりしてるの。
 で、必要な時だけ本来の姿に戻って記憶を取り戻す。神の娘たるクリュアと魔女ルクレツィアを行ったり来たりするの」
淡々と語られる内容は、言葉自体は理解出来たが、アージェからすると想像もつかないことであった。
ルクレツィアの話を聞き、レアリアの様子を見ながらエヴェンの到着を待っている彼は、茫洋と四散していきそうな意識を引き戻す。
普段は魔女であるという少女は、血に汚れた指を弾いた。
「で、この子は多分、肉体の統御とほとんどの生活をもう一つの人格に任せることで、精神を保ってる。
 そこまでしなくてもいいんじゃないの、って思うけどさ。やっぱり表に出すぎてると外から影響を受けやすいから。
 女皇って立場がある以上、私みたいに変わっちゃいけないんでしょ」
「……そうなのかもな」
遺跡で出会った残滓メルサルスは「神は変わらぬものでなければ信用がおけなかったのだろう」と言っていた。
同様に残滓ではないクレメンシェトラもまた、おそらく神から「変わらぬこと」を望まれているのだ。
遥か遠い時代からの神命。
だがそれは、今を生きるレアリアとは関係のない思惑だ。アージェは白金の髪をそっと撫でる。
ルクレツィアは、話を切り替えるが如く手を振った。
「ちょっと脱線しちゃったけど、つまりクレメンシェトラだけを殺すってことはまず出来ないのよ。
 あんたのいう『レア』はクレメンシェトラの外壁だから、何かあったらまずそっちから壊れる。でも逆は無理」
「無理?」
「そう。クレメンシェトラが死ぬ時は、あんたのいう子も死ぬ。
 そういう作りになってるの。私の短剣使ったって無理よ。ぱっと分離なんて出来ない」
あっさりとした結論。
横合いから槌で殴られたかのような衝撃を受け、アージェは目を瞠った。瞼を閉ざしたままのレアリアを見る。
―――― 彼女は、どうあっても助からない。その未来は閉ざされている。
普通の人間の約半分の人生。レアリアは他者の部分としての己をどう捉えているのか。アージェは昨晩垣間見た彼女の憤懣を思い出した。
「でも、子供を産めばクレメンシェトラはそっちに移るんだ」
「ああ。身ごもってる間は体と魂が二つずつになるから。その間に外壁を独立させて移動するんでしょ」
「ならレアからクレメンシェトラを引き剥がすことも不可能じゃないってことじゃないか?」
「そうね。受け入れ先があって数ヶ月かけてゆっくり移動させられたらね。
 ―― 消滅させようって思ってるのに、そんなのんびりしたことしてたら、どう考えても気づかれるわよ」
ルクレツィアは呆れ顔で穴を指摘すると、右手の指をレアリアの額に触れさせた。
彼には理解出来ぬ言語での詠唱。少女の声は血塗れた庭園に流れる。



もしどうしてもクレメンシェトラを殺したいのなら。
それはレアリアか、彼女の産む子を犠牲にすれば成し得るのかもしれない。
器と共に女皇を殺す。それがもっとも単純な手段だ。
だが、アージェが知りたいのはそのような方法ではない。それでは全く意味がないのだ。彼の目的はレアリアの延命で、彼女自身が死んだり出産で衰弱しては本末転倒である。
どうにもならない現実。青年は手段を見失い、言葉も失った。耳にはただルクレツィアの詠唱だけが聞こえる。
彼女はふっと息を切ると、静かに呟いた。
「ともかくさ、あんたはそういう乱暴なことじゃなくってさ。
 残された時間でどれだけこの子を幸せにしてあげられるか、そういうことを考えなさいよ」
「…………」
「よし、一応怪我は治したけど、血は全然足りてないから。しばらくは昏睡するかも」
「大丈夫なのか?」
「分かんない。クレメンシェトラは無事だと思うけど」
それは裏を返せば「レアリアは無事かどうか分からない」ということだ。息を飲むアージェを前に、ルクレツィアは立ち上がる。
未だ謎の多い存在、神の娘だという少女を、青年は目だけで見上げた。
「ルクレツィア」
「何よ。私はそろそろ行くからね。この子の意識が戻ったら気取られるだろうし」
「いや……色々ありがとう。助かった」
アージェが礼を言うと、少女は大きな瞳をまたたかせた。けれどすぐににっこりと艶やかな笑顔になる。
「またね、アージェ」
魅惑的な微笑。「食えなさ」を刹那忘れさせる愛嬌を残し、ルクレツィアはその場から消え去った。
静寂が戻る庭園。途端に空気が流れ出したのか、血臭を濃く感じる。
アージェは小柄な主人を腕の中に抱き直した。生け垣の向こうからエヴェンたちの声が近づいてくる。
動かない四つの死体。それらに囲まれ、女皇のディアドは静かに目を閉じた。






入り込んだ刺客は、結局ケレスメンティアに害意のある者として処理された。
殺された王族の属する国については、痛み分けということで今回は何の制裁も行われる予定はないらしい。
ただレアリアとの縁談の話はさすがになかったことになった。
仮に話をそのまま残しておきたいと誰かが願ったにせよ、それは不可能なことであろう。
夫候補であった男は死に、女皇は事件から五日、未だ昏睡したままであったのだから。

五日の間、アージェはほとんどの時間を眠ったままのレアリアの傍で過ごした。
剣を携えたまま、黙々と彼女を守り続ける騎士。
注意されねば食事も睡眠も取らない彼に、見かねたエヴェンが無理矢理交代を申し出ることもあった。
そのような時、アージェは三時間ほど眠り、食事を取って身支度を整え、合間に少しだけ物思いに耽る。
考えても分からない多くのこと。
レアリアが目覚めたなら、それらの一つ一つについて話をしようと、彼は思っていた。
その日も食事を済ませレアリアの部屋に戻ろうと廊下を歩いていたアージェは、しかし向こうからやって来た壮年の男に呼び止められる。
よく見ると男は以前執務室で顔を合わせた人間であり、アージェに曖昧な嫌味を言ってきた人物であった。
女皇の部屋に入る許可のない男は、顰め面のままじろじろと青年を眺め渡す。
「陛下のご容態は」
「お変わりありません」
「まだお目覚めにならないのか」
男はそこで神への祈りを口にしたが、アージェの耳にはまるで舌打ちのように聞こえた。
相手は無表情のディアドを苛立たしげに睨む。
「まったく……役に立たない小僧め。陛下のお気に入りだというから何かの役には立つかと思ったが。
 所詮薄汚い野良犬か。いや、本当に犬であれば番犬にでもなれただろうにな」
辛辣な皮肉。しかしアージェは顔色を変えるわけでもなく、ただ会釈をして男の脇を通り過ぎた。
男は肩透かしを食らったのか一瞬ぽかんとしたが、肩越しに彼を振り返るとぶつぶつと何事か洩らす。
けれど青年はそれらを聞いてはいなかった。
何と言われても、レアリアを危険に曝したのは事実だ。
所詮外で育ったディアドと、多くの者が陰口を言っていることを彼は知っている。
だが自分についての言葉は、アージェにとって全てどうでもいいことであった。

彼は長い廊下を行き、レアリアの部屋を訪れる。
控えの間を通り過ぎ、寝室の扉を叩こうとした―――― ところで扉は向こうから開いた。そのままアージェは危うく飛び出してきたエヴェンに衝突されそうになる。
「何だよ」
「ちょうどいいところに来たか!」
文句を言う前に、アージェは部屋の中へと引きずり込まれた。崩れかけた態勢を立て直した時、彼は寝台の上に体を起こしている人物に気付く。
「陛下」
蒼白い頬。血が戻りきっていないのであろう顔色は、だがむしろ人形めいた彼女の美貌によく似合っていた。
女皇は何度か瞬きすると、穏やかな目でアージェを見つめる。
「心配かけてごめんなさい……」
心地よく響く声。その声に打たれて青年は立ち竦んだ。頭の奥が急速に冷えていく。
彼女はそのようなアージェを申し訳なさそうに見つめていたが、不意にエヴェンの方を向くと、「少し二人で話をするから」と命じた。
男が一礼して退出すると、アージェはようやく口を開く。
「クレメンシェトラ」
「ああ」
「レアは?」
聞かなければいいと思える問い。
だが聞かないという選択肢はなかった。
先程までレアリアとして振舞っていた彼女は、自嘲気味な微笑を見せる。そこに見える翳にアージェは息を止めた。
クレメンシェトラは己が両掌を見つめる。
「レアリアは……眠っている。―――― もう起きられぬのかもしれない」
半分は予測していた答。
アージェはそれを聞いて、両手の拳を痛いほどに握り締めた。