朽ちぬ果実 141

大きな硝子窓から差し込む光。
それは床の上に柔らかな温かみを与え、女皇の寝室に静穏な空気をもたらしていた。
外では木々が風にさやさやと揺れ、青空を薄い雲が流れていく。
時間の流れさえも緩やかに思えるような安寧の日。
しかし部屋の中にいる二人は、安らぎとは程遠い冷氷の上に向かい合っていた。
アージェはクレメンシェトラの目を凝視する。
「起きられない? 消耗してるのか?」
「普通の人間であれば死んでいた。つまりは、そういうことだ」
持って回った言い方。その意味するところが青年の思考に届くまでは数秒を要した。
アージェはレアリアと同じ顔をした女の、だがあまりにも異なる貌を見つめる。
「レアは、死んだのか?」
「死んではいない」
即座に返って来た声音は固く、クレメンシェトラにまるで人間のような印象を与えていた。
彼女は寝台から立ち上がると、夜着の上に青い外衣を羽織る。細い指がきつく絹布を掴んだ。
「ただ眠っているだけだ。私とレアリアは根を同じくしている。私が生きている限りレアリアが死ぬことはない」
「でも、何かあったらレアの方から壊れるんじゃないのか?」
ルクレツィアから聞いたことを彼が口にすると、女の目には刹那動揺が走った。
だがクレメンシェトラはすぐにその瞳を閉じてしまう。
「だから眠りについている。レアリアには休息が必要だ」
言い聞かせるような断言は、アージェに向けたものかそうでないのか、ひどく曖昧だった。
クレメンシェトラは一歩一歩ゆっくりとした足取りで窓辺へと向かう。
窓から見える美しい庭。その遥か上に広がる天を彼女は見つめた。小さな溜息がアージェの耳に届く。
最古の女皇たるクレメンシェトラ。だが顔の見えない後姿は何処か頼りなく、彼の友人であった少女を思い出させた。
青年は最後の確認たる問いを口にする。
「レアはいつか起きるのか?」
そうであれば希望を持って待てる。待つことなど大したことではない。アージェは硝子に映る女の顔を見た。
クレメンシェトラは静かに紫の瞳を閉じる。
「分からない」
鳥の飛ばない空。
澄んだ青の高みには、掌から零れた何もかもが落ちていく気がした。

微かな息の音。アージェはそれが、自分から吐き出されたものであることを不思議に思った。手袋を嵌めた左手を見やる。
初めて出会った時、既に漆黒であった手を何の躊躇いもなく握った少女。嬉しそうにはにかむ彼女の顔が脳裏に浮かんだ。
彼は左手を固く握る。
「三年……待たせたんだ」
アージェには日付を正確に覚える習慣がない。
だから彼は、初めてレアリアに会った日がいつであったか、もう記憶してはいなかった。
けれど青い花を探してあの遺跡に入った日から、おおよそどれだけの時間が過ぎたのか、彼は肌身に感じている。
クレメンシェトラは窓を背に振り返った。
「レアが俺に会いに来てからもうすぐ三年だ。それだけ待たせた。
 あいつを避けて傷つけて、でもようやくディアドになった」
彼女にとって自分が唯一の友人であり騎士であると、もっと早くから知っていたならどうだったのだろう。
そのようなことを宮廷に入ってから考えることもあった。けれどそれは、これからの月日で補っていこうと思っていたのだ。
アージェはそうのんびりと構えていた自分を腹立たしく思う。
「結局俺がレアの騎士でいたのは―――― たった十五日だ」
「アージェ」
「馬鹿げてる」
右手が彼の視界を覆う。
暗い闇。夜を思わせるそれを望んで青年は目を閉じた。熱くなる喉の奥に口を閉ざす。
馬鹿げていたのは、愚かであったのは、最初から最後まで自分自身だ。
何度失おうとも終わらせることが出来ない。守ることが出来ない。伸ばした手の先で人は死んでいく。
結局は身に染みないのだ。だから同じことを繰り返す。アージェはレアリアの優しさを思い出すまいと奥歯を噛んだ。
女の服の衣擦れが聞こえる。
「レアリアは、女皇としてはやはり変り種であったのだ」
穏やかな声。クレメンシェトラのそれにもやはり悔恨は滲んでいた。
まるで死者を思い返すような言葉に、アージェの半分は反感を覚え、半分はただ受け入れる。
続く彼女の言葉は淡々としていた。
「幼い頃から何もかもを諦めていた。ディアドに去られたということがやはり大きかったのだろう。
 ……その後も色々あった」
「ルドリスのことなら聞いた」
「そうか……。あれも私のせいだな。どうにも私はディアドに強く出られない。
 あの男に強く出て拒絶したのはレアリアの方だ。ルドリスはそのせいでレアリアを疎み、その人格を封じようとした」
「そして殺された?」
「そうだな。あの一件に関わった者は皆が皆、自分が先導したと思っているだろう。
 実際にルドリスを殺したエヴェンや許可を出したレアリアだけではなかった。それくらい事態は閉塞していた。
 レアリアは既に、ルドリスをカルディアスの系譜にある者とは認めていなかった」
過去を思い起こす響き。アージェは目を開けて窓辺に立つ女を見やる。
クレメンシェトラは人に似た哀惜の目で、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「レアリアは多くを諦めていた。そこでお前のことを知ったのだ。
 お前が当然と思う優しさがどれだけレアリアには衝撃であったのか……きっと想像もつかぬのであろうな」
哀しげな微笑。
そこにアージェは何の感慨も抱かない。ただレアリアの言葉は色褪せていなかった。
クレメンシェトラは自らの内に眠る女と、眼前に立つ青年へ語る。
「私は今でも、お前たちは出会わなければよかったと思っている。
 だがお前の存在はきっと……レアリアを救ったよ」
主人と一つである女の断言。
アージェはけれど―――― その言葉に慰められはしなかった。



過去を振り返る時間。
だがそれはいつでも長く許されるものではなかった。女皇は裾を翻し、騎士を見据える。
「これからは私がレアリアとして女皇の役目を果たしていく。
 本来であれば私が負わねばならなかったことだ。レアリアの体は生きている以上、他に道はないだろう」
静かな意思を込めた紫の瞳。アージェは黙ってクレメンシェトラを見返した。
彼女はそこに僅かな負い目を窺わせる。
「お前は……この国を出て行っても構わぬ。元々宮仕えを嫌っていたのだろう?
 レアリアが目覚めるかどうか保証は出来ない。そのような状況でお前に何を強いることも出来ぬ」
クレメンシェトラは目を伏せると微笑んだ。
長い長い年月。彼女は今までどれだけの別離を見てきたのか。アージェは頭の片隅でそのようなことを考える。
花の匂いが微かに漂う部屋。美しく整えられた室内は、あちこちを見ればまたレアリアの気配が残っている気がした。
青年は白金の光を追って視線を巡らす。
見えもしない後姿。耳元で女の嬉しそうな笑い声が聞こえた。
(アージェ)
彼の名を呼ぶいくつもの声。それは全てがもう届かない彼方だ。
青年は反響するそれらの中で目を閉じ―――― そして開いた。森を映す緑の双眸でクレメンシェトラを見つめる。
「俺は残る」
「アージェ」
「俺は、レアリアの騎士で女皇のディアドだ。レアリアが眠ったままだとしてもそれは変わらない。
 あいつが起きるまで、今度こそ俺はあいつを守る」
それは考えるまでもない結論だ。
アージェはレアリアが伏した時からずっと、こうなることまでを考えていた。
決然とした返答を聞いてクレメンシェトラは瞠目する。
「見たくないものを見るかもしれぬぞ」
「構わない」
「レアリアが起きるとは限らない」
「だとしても傍にいる」
そうすれば少しは、彼女は心細い夢を見ずに済むのかもしれない。
アージェはいつか何処かで見た気がする幼いレアリアの手を取ってやりたかった。今は空の右手を握る。
「俺を使え、クレメンシェトラ。お前がレアリアと繋がっている限り、俺はお前に従いお前を守る。
 俺は女皇レアリアのディアドだ。この剣は彼女の為にある。……既にそう決めた」
レアリアより授けられた長剣。アージェは白刃を抜くと、剣の柄を胸に戴き頭を垂れた。
クレメンシェトラは言葉なくその様を見つめる。






もう少し休みたいというクレメンシェトラに命じられ、アージェは彼女の部屋を辞した。廊下に出たところでやって来たエヴェンに手招きされる。
主君がようやく目を覚ました為、安堵が勝って仕方がないのであろう男は、アージェの肩に手を回すとにやにやと囁いた。
「よかったな。どうなるかと思ったぞ」
「……ああ」
「よかったと言えばもう一つだ。ちょっと来い」
「何だ?」
問いの答をもらえぬまま、アージェは女官たちが出入りする裏口の方に引き摺っていかれた。何が何やら分からぬまま木戸を開けて外に出される。エヴェンに押された彼は苦情を言おうとして、だが外の木の陰に立っている人物に気付いた。
細い木の幹からはみ出した金髪。レアリアのものより色の濃いそれには確かに見覚えがあった。
手首に巻かれた赤いリボン。小間使いの格好をした少女は、恐る恐る顔を覗かせる。
「……アージェ」
「―――― クラリベル?」
三年ぶりに会う妹。子供の域を脱しかけた少女は、落ち着かなくあちこちを気にしながらも彼の前に出てきた。それだけは幼い頃と変わらない拗ねたような目でアージェを見上げる。
「いつも帰ってきてって言ってるのに、全然来ないだもん。そんなに忙しいの?」
澄んで青い瞳。
これははたして非現実の続きなのだろうか。
アージェはしなやかに伸びた少女の体を見下ろした。背後からエヴェンが付け足す。
「ザルムシスの容態が回復したから、締め上げて場所を聞いて、で、こっちに引き取ってきたんだよ。
 さすがに宮仕えは難しいから。これから俺の屋敷で住み込み」
「そう。だからアージェもちゃんと会いに来てね! お父さんも心配してたんだから」
クラリベルはそう言って彼の顔を指差す。
温かな思い。変わらぬ笑顔。
平凡に幸福を抱く少女の姿を、アージェはただただじっと見つめた。
帰るべきであった家。家族の食卓と母の背を、彼は思い出す。
いつまでも何も言わない兄を不審に思ったのか、クラリベルが両手を伸ばしてきた。
「アージェ? 具合でも悪いの?」
頬に触れてくる手。温度のある指先。
アージェは喉に詰まるものを飲み込むと、そっと少女の体を抱きしめた。目を閉じて細い肩に頭を預ける。
クラリベルは突然の抱擁に驚き赤面したが、すぐに何かに気付いたのか怪訝そうな声で囁いた。
「お兄ちゃん、どうしたの? ―――― ねぇ。泣いてるの?」
青年は何も言わない。
吹き抜ける風が木々の葉をざわめかせる。
そうして寄り添う彼らの頭上には、何もかもを吸い込む美しい青空が広がっていた。