白の新床 142

生け垣を彩る白の蕾。まだ咲ききっていないそれらは、この中庭の各所に植えられている慎ましやかな小花のものだ。
レアリアは歩きながら、それらの蕾を何の感動もなく見やる。
近くを行く男の美辞麗句は、耳の傍をただ滑っていた。彼女は底面に淀む疲労感に、少し眠りたいと思う。
普段淡々と物事を処理していく彼女が、このように倦怠を味わっているのは昨晩の出来事のせいであろう。
クレメンシェトラはレアリアの思考を全て詳細に読みとることまでは出来ぬが、彼女の感情はおおよそを把握できていた。
レアリアは疲れている―――― クレメンシェトラはそう認識している。
だが彼女は自分の片割れに言葉をかけることはしなかった。レアリアは「空間」以外で話しかけられることを好まない。
白い蕾は風に震える。退屈な話はまだ続いている。
レアリアは何の興味も抱かない。
クレメンシェトラは半ばまどろみながら彼女の視界をぼんやりと捉えていた。その隅に、男につき従う女官の姿が入る。
黒い服の上に薄灰のゆったりとした上衣を纏った女。彼女は、斜め前を行くレアリアを一瞥した。
否、一瞥したのではなく、意識を向けた。
その意識があまりにも鋭くあった為、見られたような気がしただけだ。
クレメンシェトラは遅れてそれに気づき、驚愕する。
服の間から取り出された短剣。音もなく踏み込んでくる相手。
突き出された刃が刹那で彼女の背に突き刺さるまでの一瞬。
―――― レアリアはずっと刺客の存在に、気づいていた。



目を覚ましたクレメンシェトラは、レアリアの両手で顔を覆う。
「どうしてお前は……」
眠り続ける女は何も言わない。
言うことがないから言わないのだと、クレメンシェトラは知っていた。






ようやく取り戻された平穏。
目覚めた女皇は昏睡のせいで体力が落ちているのか、以前よりも疲れやすい体質になってはいたが、それ以外は問題なく日常の執務に戻っていった。
彼女が前の彼女とは違う人格だと、ただ一人知っているアージェは、クレメンシェトラを守り助けながら日々を過ごしていく。
黙々と己の役目を果たし要求される事柄をこなしていくことは、急速に騎士としての振る舞いを青年に身につけさせたが、同時に彼自身の感情は何処か薄れて消えてしまったかのようだった。表情が変わることも少なくなったアージェは、すっかり研がれた剣そのものの様相を呈している。
執務室にいる時には黙って女皇の傍に控えている青年は、その日も壁際からじっと女の横顔を注視していた。
以前のように椅子に座ったりお茶を飲んだりしようとはしない彼を、ペンを置いたクレメンシェトラは横目で見やる。
「疲れぬのか?」
「平気です。区切りがついたのなら部屋までお送りします」
「……私はお前のことについて聞いたのだが」
「ご自分が疲労を感じたから、俺のことを気にしたんでしょう。
 体を動かすこと自体が負担なんですから、ちゃんと休んだ方がいい」
アージェが忠告するとクレメンシェトラは苦い顔になる。
言われた通り、彼女にとっては長時間表に出て肉体を動かすこと自体、かなりの消耗をもたらすのだ。
事件のせいで疲れやすい体質になったわけではなく、彼女が「レアリア」に代わった為にそう見えるようになった。
神代から変化せぬまま女の内に眠っていた彼女は、己の疲労を認めると手元の書類を束ねてアージェへ渡す。
彼がそれを控えの間にいる文官へと渡しに行く間、クレメンシェトラはぼんやりと机の上のものを眺めていた。手持ち無沙汰に水晶のペン立てを指先で弾いてみる。
レアリアの愛用品である黒い硝子のペン軸は、彼女の手にはあまり馴染まない。
それだけでなく、ほとんど余計な私物を持たなかった女皇の周囲には、しかしそれでもぽつぽつと彼女の生を感じさせるものが残っており、クレメンシェトラはそれら一つ一つを前にして、現状の歪さを噛み締めざるを得なかった。溜息と共にペンをペン立てに戻した時、扉を開けてアージェが戻ってくる。
「陛下」
女皇のディアド、レアリアの一対である男は彼女の傍に歩み寄ると、クレメンシェトラが何かを言うより先に小柄な体を両手で抱き上げた。
そのまま疲弊した彼女を運ぼうとする青年を、女皇はぎょっとして見やる。
「自分で歩ける」
「そう言って前のように転ばれても困るので」
彼の言うことは事実であったのでクレメンシェトラは苦い顔で従った。
これが自分だけの体であれば男の言うことを撥ね退けることも出来るが、彼女の体は青年の守るもう一人のものであるのだ。
クレメンシェトラはアージェの胸に頭を預けて目を閉じた。
波間に揺れているかのような感覚。安堵と不安が入り混じって彼女を浸す。
このように表に出て自分の意思で体を動かし、人に触れるのはどれくらいぶりのことか。
彼女は狂いそうになる上下の感覚を、瞼を上げることで取り戻した。廊下を行く男を見上げる。
「お前は」
「はい」
「誰にでもこういうことをするのか」
そのようなことを彼女が問うたのは、昨日彼が足を挫いた女官を同様に抱き上げていたのを見た為だ。
アージェは表情を変えぬまま返す。
「それが手っ取り早いと思う状況であれば」
「……お前、その認識は改めた方がよいぞ」
クレメンシェトラは一応忠告してみたが、青年はよく分かっていないようである。
この様子では昨日の女官がしきりに彼を気にしていたのも気付いていないのだろう。
彼は元からそういう性格なのだ。自分の関心がないことには想像もあまり働かない。
その筆頭である異性の感情など、まったく意識外であるのだろう。クレメンシェトラは白眼で男をねめつける。
「レアリアが気を揉んでいたのも頷ける」
「何が?」
冷えた声。取り繕われていないぶっきらぼうなそれは、クレメンシェトラが眠っている女の名を口にした為のものであろう。
彼女は自分が男の感情の線に触れてしまったことに気付いたが、表面上は平静を保った。自身もそっけなく返す。
「何でもない」
「あまり口を開いていると舌を噛みますよ」
言外に「喋るな」と言われ、クレメンシェトラは口を閉ざした。途端襲ってくる眠気に体を委ねる。
そうして体と精神を休める時間、彼女はまるで自分が人になったかのように感じていた。



クレメンシェトラは本来肉体の主導を受け持つ人格ではないせいか、レアリアよりも長く頻繁な休息を必要とする。
アージェがその華奢な体を寝台に下ろすと、今までまどろんでいた女は薄く目を開けた。水差しを用意しようとしている彼を止める。
「よい。今日はもう休む。お前も休め」
「俺は疲れていませんよ」
「肉体が疲れていなければよいというものでもないだろう。折角同じ国にいるのだ。妹にでも会って来い」
「向こうにも仕事があります」
アージェはそう言うと、だが自分がやるよりはと思ったのだろう。女官を呼んで女皇の身の回りを整えさせた。
他の人間がいる前ではレアリアでいなければならない彼女は、寝台の上で膝を抱えて目を閉じる。
ディアドである青年はその間、不審なところがないか室内や窓の外に注意を払っていた。
そこにいるだけでクレメンシェトラに息苦しさを与える男は、ふと部屋の一点に視線を留める。
視線の先には小さな飾り戸棚が置かれており、それはレアリアが数少ない私物を保管する為に選んだものだった。
アージェは中に飾られた硝子の髪飾りをじっと見つめる。
決して高価なものではないそれは、かつて少年だった彼がレアリアに贈ったものだ。
顔を上げたクレメンシェトラはそのことに気付くと、言いようのない後ろめたさを覚えた。退出しようとする女官に乗じてアージェに命じる。
「今日はもういいから、あなたも休んでいて。ありがとう」
二人だけの場で言ってもアージェが従うとは限らないが、他の人間がいるならば話は別だ。
彼は主君として「レアリア」を重く扱う。それを知っているクレメンシェトラは、女官と共に退出するよう彼に命じた。
アージェはそれを聞いて一瞬射竦めるような鋭い目で彼女を見たが、すぐに「護衛は手配します」と頭を下げて部屋を出て行く。
ようやく一人きりになれたクレメンシェトラは、広い寝台に体を投げ出すと種々の感覚から離れ解放感を味わった。惰性で口を動かし呟きを洩らす。
「あの男は全然あなたには似ていないな……カルド」
不変を課せられた女は、そうして忘れられぬ人の影を追って、ただ目を閉じた。



妹に会いに行け、などと揶揄されたアージェは、無理矢理休みを言い渡されてもしかし、クラリベルに会いに行こうとは思わなかった。その時間を鍛錬に当てようと訓練場へ向かう。
騎士の正装から着替えて外に出ると、ちょうどそこにはエヴェンがいた。
男は今まさに切り上げようとしているところらしかったが、アージェを見て気を変えたらしい。怪訝そうな顔で寄って来る。
「お前、この時間に何でこんなところにいるんだよ」
「陛下に休みを取らされたから」
「またご機嫌を損ねたのか?」
呆れた声には返事をせず、アージェは「暇なら相手頼む」と練習用の剣を上げて見せた。
エヴェンは肩を竦めたものの、彼と並んで空いている場所へと歩き出す。
熱心に稽古に励む周囲の男たちを見ながら、エヴェンは無表情が常となったアージェに小さな声をかけた。
「クラリベルが会いたがってたぞ」
「また今度」
「そう言ってお前、全然来ないだろ。いくら陛下が心配とはいえ、もうちょっと見てやれよ。
 あー、それとも俺が面倒見てやろうか?」
「妹に手を出したら串刺しにする」
「さらっと言うな、馬鹿兄貴」
宮廷内では「女性に手が早い」で知られるエヴェンだが、アージェはこの男の好みからクラリベルが年齢の点で外れることを知っている。
もっともそれはあと二、三年もすれば解消される話ではある為、それまでには何とか対策を打とうと考えていた。
しかしそれとは別に、クラリベルと再会してから三週間、アージェは二度しか妹に会いに行っていない。
その二度も半ばエヴェンに無理矢理引き摺られて行ったもので、自発的に彼女に会いに行こうとしない同僚を、エヴェンはいささか不審に思っているようだった。今も声を潜めて問う。
「なぁ、お前たち実はあんまり仲良くないのか?」
「そんなことはない」
端的に答えると、エヴェンはそれ以上は踏み込むまいと思ったのか、釈然としない表情ながらも口を噤んだ。
空いた場所についた二人は剣を抜き、構える。

クラリベルに会いに行かないのは、仲が悪いからでは決してない。
むしろ仲はいい方だ。アージェは血の繋がらない妹を大事に思っている。
ただレアリアを失った今、無邪気な少女の笑顔を見ると、つい眠ったままの彼女のことを考えてしまう。
かつてそうしてレアリアに妹の面影を見ていたように、伸びやかに生きるクラリベルの姿はアージェに「レアリアが得られなかった平穏」を連想させるのだ。

それは考えても仕方のないことだ。
アージェは思考の海に浸かった意識を引き戻すと、目の前の男に相対する。
今出来ることは女皇を守ること、そして自分を鍛えること。
彼は剣を握り姿勢を正すと、自分よりも上にいる男に向かって踏み込んでいった。