白の新床 143

女皇から休みを申し渡されても全ての仕事がなくなるわけではない。
むしろこの機を幸いと様々な雑事が飛び込んでくるものだ。
アージェはそれらのうちの一つ、多数の釣り書きを前に機嫌の悪い表情で頬杖をついていた。
大きな机とそれを囲む複数の椅子。文官が会議などに使う城の一室にて、釣り書きを持ってきたシンは、更にその上に新たな一通を追加しながら言う。
「ちゃんと見てください。重要な婚姻話です。そう言っておいたでしょう」
「……最初は陛下のものかと思ったんだよ」
「勿論貴方のです。早急に後継を作らなければならないのは貴方も同じですから」
「この国のこういうところ嫌いだ」
忌憚ない意見は、灰色の髪の男には通らない。
シンは合わせて十数通にものぼる釣り書きを重ねてしまうと、当然のように頷いた。
「貴方は例外ですが、ディアドというものは本来女皇陛下より年上であることが望ましいのですよ。
 陛下の婚姻が今すぐにでも求められている以上、貴方はその先を進まなければならない。
 誰か特定の女性がいるということなら考慮はしますが」
「俺まだ十七……」
正確にはもうすぐ十八歳になるのだが、そのことは伏せてアージェは抵抗を試みる。
シンは片眉を上げ、思案顔になった。
「婚姻が早いというのなら先に子供だけでも構いませんよ」
「そういうなりふり構わないところはもっと嫌だよ。ミルザにでも産ませろよ」
「お前は自分の義務を果たす気がないのか! 私はお前より年下なのだぞ!」
叫び声と共に乱暴に扉を開けて当の本人が入ってきたので、アージェはさすがに目を丸くしてしまった。
久しぶりに会うミルザは細い肩をいからせて、座っている彼を見下ろす。
「ようやくディアドになったかと思ったら、まだそのような態度なのか!
 これだから外で育った人間は……私はお前を兄などと認めないからな!」
「別に認めなくていいし。何しに来たんだ」
ルゴーから自分たちの関係を聞いたのであろう少女は、それを聞いて顔を真っ赤にする。
彼女は白と深緑で彩られた聖職衣の袖を上げ、新たな釣り書きをアージェの顔面に投げつけた。青年はそれを片手で受け止める。
「何だこれ……また追加かよ」
「一族からの選出だ。目を通しておけ」
「ザルムシスとお前が結婚すればいいのに」
「ディアドには自分の子供を次のディアドとして教育する義務があるのだ!」
怒鳴りつけてくる少女に、アージェは両手で耳を塞いだ。ミルザはその両手を引き剥がそうと飛びついてくる。
お世辞にも仲がいいとは言えない様子で騒いでいる兄妹を、シンは冷ややかな目で見やった。
女皇の側近の一人、国内の雑事を一手に引き受ける政務官は、珍しく溜息をつく。
「陛下もまだお体の具合が芳しくなくご懐妊が難しいという話ですのに、貴方もこれでは困ります」
「そうなのか?」
「ええ」
アージェなどはクレメンシェトラが主体になったことで、むしろ政略婚は実現しやすくなったのだろうと思っていたのだが、実際はそうでもないらしい。
彼はクレメンシェトラに体力がないことが問題なのだろうかと首を傾げた。
シンは重く頷く。
「一応婚礼の話を整えようとはしているのですがね。
 正直なところ、先日の暗殺者の件が外部に漏れたようで問題になっているのです」
「問題?」
「ええ。数年前にはやはりイクレムの王子が陛下の夫候補として挙がったのですが、その時も火事で相手が亡くなっている。
 ケランの王との縁談についてもやはり刺客がやって来たという話が何処からか広まり―――― 」
「あー。それで他国に敬遠されてるのか?」
「皇配殿下の選出に水面下の争いが絡むことは常なのですが、それにしても今回は度が過ぎている。
 ケレスメンティアは女皇陛下を餌に何か企んでいるのではないかと、根も葉もない流言が広まっているのです」
「本当に根も葉もないな。今回は陛下も死に掛けただろ」
アージェは一番上の釣り書きを手元でくるくると回す。
シンが挙げた例のうちケランの一件については彼も当事者なのだが、別に国同士の利害に関係してのことではない。
先日の一件も単なる殺人狂の仕業で、そこに何者かの思惑が働いているということはないだろう。
だがそう指摘しようとするアージェに対し、シンは首を横に振った。
「事実がどうという問題ではないのです。
 ケレスメンティアを貶めたい人間がいて、その者が偽りをさも真実であるかのように触れ回っている。
 なまじ事実が混ざっているだけに、虚言を信じる者も多いのでしょう。
 ―――― 神を信じぬ者は容易く惑うものです」
もっともらしい言葉。信仰心についてはともかく、他はアージェにも納得出来た。
青年は、後ろから掴みかかってくるミルザの額を指で弾いて問う。
「誰が流言を操作してるかは分かってる?」
「現在調査中です。おそらく他国の人間なのでしょうが」
「そりゃ困るな」
「別に他国から夫を選ばなければならないという訳でもないのですがね」
平然と頷く政務官の言葉は、アージェに微妙な揺らぎをもたらした。
表情を消したディアドに、しかしシンは遠慮なく続ける。
「本当は陛下が貴方をどうしてもディアドにと望んだ時、皆が思ったのですよ。貴方が次代女皇の父親になるのではないかと」
「やめろよ。陛下は俺の主人だ。―――― それにディアドはディアドで血を継がなきゃいけないんだろ?」
「前例は結構あるぞ、不勉強な男だな」
「え?」
アージェが驚いて振り返ると、ミルザは腰に両手を当てていた。上から彼を見下ろしてくる少女は、勝ち誇った表情で解説する。
「ディアドが女皇陛下の父となった例はこれまで七件ある。そう珍しい話でもない」
「何だそりゃ……ってことは、その時は傍系から次のディアドを出したのか?」
であれば、自分にも婚姻を強いずに次は傍系から出して欲しい。そう考えるアージェに、けれどシンとミルザは顔を見合わせた。
返答を引き取った男はアージェに向かってかぶりを振る。
「ディアドは父親になることは許されても皇配になる権利はないのですよ。
 前例にある彼らもそれぞれ別の妻を娶り生まれた子をディアドにしていた。
 そうなると次代は異母兄妹が女皇とディアドになりますから、繋がりもより一層深くなったそうです」
「…………」
げっそりとしか言いようのない表情で、アージェは溜息をつく。
常識の違いもここまでくれば摺り寄せようがない。彼は嫌悪感を隠しもせず顔を顰めた。
「主人に子供産ませるだけじゃなくて別の女と結婚するとか……正直ありえない」
「それについては人それぞれでしょう。当時の方々が何を考えていたかなど想像の範疇を出ません」
「想像したくもないな」
「ただ今の陛下は貴方の意思を尊重されてらっしゃいますが、本来ディアドは女皇陛下の所有物ですからね。
 伽を命じられたら従うくらいは当然のことですよ」
「頭痛がしてきた。帰っていいか?」
「お前は心構えが足りんのだ!」
両手で首を絞めようとミルザが飛びついてくる。
アージェはけれどその突撃を、椅子から横に立ち上がることで避けた。少女は止まりきれず椅子の背に激突して転びかける。
派手な衝突音と、ぐちゃぐちゃになる釣り書き。
青年は一連の様子を呆れ顔で見下ろし、机を離れた。部屋を出て行こうとする彼に、シンは一通の釣り書きを差し出す。
「せめて一つくらい目を通してください」
「要らないって」
「この女性は特別ですよ。ここだけの話ですが、陛下の身代わりを務めることもある者で、陛下に背格好や雰囲気がよく似ています」
「そういう理由で勧めてくるなら余計嫌だ」
これ以上話をすることが苦痛であると言わんばかりに、ディアドの青年が部屋を後にすると、残る二人は再び顔を見合わせた。
シンは溜息をついて釣り書きを片付け始める。
「彼がああいう調子ですから、出来れば貴女も早く結婚してください」
「……善処する」
やたらと散らかってしまった室内。
馬鹿兄貴と、言いたげな様子でミルザは吐き捨てた。



ディアドになることを決めた時、アージェは「レアリアの為に動く」ことを第一と考えていた。
それはけれど、ケレスメンティアの内情をよく分かっていないがゆえの楽観もあったのだろう。
負傷や死の覚悟、または陰口を含む好奇の目に曝される覚悟はあったが、まさか結婚を早々に要求されるとは思っていなかった。
傭兵をやっていた頃には一生結婚などしないであろうと思っていた青年は、精神的疲労を抱えて城の廊下を歩いていく。
女皇とディアドが一対であるのなら、その血が保たれなければならないのは両者ともであるのだ。
アージェは自分がそう要求される立場になって、初めて連綿と続く義務の重みに気付いた。
降って湧いたようにも思える転換点。彼は苛立ちのまま後頭部を掻き―――― あることを思い出す。
「そうだ、ネイがいるじゃないか」
ディアドであることを放棄し国を出て行った男。
彼はアージェがディアドを継いだ際にその異能を失ってはいるが、血の濃さという点では問題ないだろう。彼が子を産ませその子を次のディアドにすればいい。
しかしそこまで考えたアージェは、我に返って苦い顔になる。
「阿呆か……これじゃこの国の人間と同じだろ」
血によって唐突に押し付けられる義務。それを嫌っている自分自身が他人の子に同じものを押し付けようとはどうかしている。
アージェは自分がケレスメンティアの悪習に染まりつつある気がして嫌気が増した。思考を切り替えようと、窓の外を見やる。
―――― ルクレツィアから受け取った神具は、今は自室に隠してある。
ディテル神とは別の神の娘である少女。
彼女の存在も彼女からもらった短剣のことも、アージェはクレメンシェトラに話してはいなかった。
ルクレツィア自身は「レアリアだけを助けてクレメンシェトラを消すことは無理だ」と言っていたが、別の神由来の神具はやはりいざという時の切り札になる気がする。
レアリアが目覚めるという可能性を諦めていないように、アージェは彼女を延命する手段をまだ探し続けていた。
「そういや、ルクレツィアは何しにこっちの大陸来てるんだ?」
掴み所のない少女。気紛れに彼の前に現れる彼女の目的は何か、未だアージェは把握出来ていない。
理由を聞いた気もするのだが、結局のところよく分からないのだ。青年は思い切り首を捻った。
「次会ったらちゃんと聞いてみるか。……次があるのか?」
それはかなりの疑問ではあるが、考えてもどうしようもない。
アージェは左手を握り、嵌めた指輪の感触を確かめると―――― 瞬間沈みかけた瞳を開いて長い廊下を歩いていった。