白の新床 144

国境近くの山の麓にある小さな村。
ガージリアという小国に属するそこは、四十八年前の建国時に僅か数十人の民が入植して作り上げたものだ。
夜には葉々が凍る薄寒い土地で、粗末な小屋を作り木々を伐採して開墾してきた彼らが生活を軌道に乗せるまでには、言い知れぬ多くの苦労があったという。
だが今、村で生きる子供たちの多くはそれを知らない。
祖父母の苦労話も忠告も、彼らにとっては遠い御伽噺の一種でしかなかった。
すっかり日も落ちかけた夕暮れ時、家の外に出て遊んでいた少年は、土を弄っていた手を止め顔を上げる。
視界の隅、黒い塊に見える山に何かが見えた気がしたのだ。
彼はじっと目を凝らして山の方を睨んでいたが、何も見えないと分かると再び土遊びに戻った。
その時、家の裏口から幼い妹が顔を出す。
「おにいちゃん、ごはんだって」
「あとちょっと」
少年は顔を上げぬまま、尖った石を握りなおした。
傍に寄ってきた妹が、何をしているのかと手元を覗き込んでくる。
またたく間に辺りが暗くなっていく時間、少年は妹が影を作ることを嫌って、小さな体を手で追い払った。
尻餅をつきかけた彼女は、しかし「あ」と何かに気付いて声を上げる。
「なんだよ」
「おにいちゃん、火がみえた」
「火?」
言われて少年は再び山の方を見た。
一足先に完全な夜の中へと沈んでいる山。同じ高さのいくつかが連なりその向こうには別の国が広がっているという山の側面を、彼はじっと睨んだ。まもなく点のような火が一瞬ちらついて見える。
「なんだあれ」
「ね、みえたよね」
祖父から聞いた山火事かと彼は疑ったが、火はすぐに見えなくなった。
歩きやすい山道もないはずの場所。少年はその正体を怪訝に思ったが、ついに窓から母親に呼ばれて飛び上がった。急いで妹の手を引く。
「お母さん怒ってるぞ」
「おにいちゃんが早くこないんだもん。手は泥んこだし」
「洗ってから行くって」
二人は慌てて水桶で手をすすぐと、よい香りの漂う食卓へと駆け込んだ。
退屈と隣り合わせの平穏な時間。やがて彼らはいつもの寝床へと潜り込む。

ガージリア南西部にある辺境のこの村が、隣国の軍隊によって襲われたのはこの日の夜半のことだ。
食料をはじめとする物資の略奪。それを終えた後、兵たちは捕らえた村人全員を殺して村の隅に埋めた。
逃げ出した者はいない。余所に助けを求められた人間も。
唐突に、だが必然的に訪れた終わり。
この事実をガージリア王宮が知ったのは、結果として隣国クアイスの軍が街道に姿を現した二週間後のことになった。






女皇は人々の前に出る時には、顔を隠すヴェールを被っていることが多い。
だからこそかつては頻繁に身代わりを頼んでアージェに会いに来られていたというレアリアは、だが彼が騎士となった今、己の体をもう一つの人格に明け渡し深く眠ったままだった。
毎朝彼女の前に拝し、その瞳にクレメンシェトラを見る度、アージェは失望感を味わう。
あてつけるつもりではないが、その失望は相手にも伝わっているのだろう。クレメンシェトラは彼だけにしか聞こえぬ声で「すまぬ」と謝ることも少なくなかった。
まるで人間がするようなぎこちない謝罪。―――― それを聞く度、彼は違和感を覚える。
何か一つが悪いというわけでは、きっとないのだろう。
レアリアを生かす為にクレメンシェトラを消したいと思っていることは、今も事実だ。
だがケレスメンティアという国を知っていくごとに、アージェはただ「違う」と思う。
あまりにも理解出来ない常識、習慣、培われた土壌と歴史。
木の根のように複雑に張り巡らされたそれは、確かにディテル神とクレメンシェトラを核としているのだろうが、彼女一人を取り除いたところでどうにかなるものなのか、彼は疑問に思い始めていた。
或いはクレメンシェトラもまた、束縛を受ける「部分」に過ぎぬのかもしれない。
朝の執務を終え部屋を出て行った女皇のことを、アージェはそのようにぼんやり考える。
「……それにしても、何処に行ったんだ?」
ついて来るな、と命令され部屋に残されたのだが、彼女は一向に戻って来ない。
時計を見ると、いつもであれば昼食も終わろうかという時間だ。
当然彼自身も昼食を取っていないが、クレメンシェトラはちゃんと食事を取っているのだろうか。アージェはいささか心配になって扉へと向かう。
だが彼が手を伸ばすより早く、扉は向こうから開かれた。
「陛下」
そこに立っていたのはクレメンシェトラと傍仕えの女官だ。女皇は両手で大きな籠を一つ提げており、アージェを無言で手招いた。
その籠に見覚えがあった青年は、一礼する女官の前を通り過ぎ、踵を返したクレメンシェトラの後をついていく。
廊下に出てまもなく、アージェは彼女の手から重量のある籠を引き取った。
どうやら中庭へと向かっているらしい女に、彼は小声で問う。
「何のつもりですか?」
「私はレアリアの代わりだ。レアリアのしていたことをしなければ不審に思われるだろう?」
「…………」
それは彼がディアドとなってから二週間、三日に一度はレアリアが彼の為に昼食を作っていたことを言っているのだろう。
アージェは重みのある籠を見下ろす。
彼はそれについて何を言う訳でもなく、ただ女皇の隣を歩いていった。

レアリアはアージェと出会った当初、まったく料理が出来ない少女であった。
それを気にしたのか、彼女は城の料理人にでも料理を教わり始めたらしく、少しずつ色々な物が作れるようになり、味もよくなっていったのだ。
二年ぶりに再会して彼女の手料理を食べた時、アージェはその上達振りに驚いたことをよく覚えている。
だから彼は、中庭の木陰でクレメンシェトラの料理を食べた時、再び驚いてしまったのだ。
「まさかまたこの味を食べることになるとは……」
「何だ、何が言いたい?」
「レアの方が上手い」
あっさりと事実を指摘すると、クレメンシェトラは頭を殴られたかのような表情になった。落ち込んでいることが分かる顔色で、横を向くと言い訳を始める。
「味などどうでもよかろう。おかしなものを食べさせて悪いが、私も料理などしたことがないのだ」
「レアの見よう見まねか」
「文句があるなら残せ」
「食べますよ」
アージェはそこで感想を打ち切ると、黄色く色づけられた肉を口に運んだ。
黙々と料理を片付けていくディアドを、クレメンシェトラは居心地が悪そうに見やる。
彼女は白い指に火傷の痕を残しており、それに気付いたアージェは顔を顰めた。
「次は火も刃物も使わなくていいものでお願いします」
「それでは何も出来ぬのではないか?」
「生肉以外なら食べます」
傭兵仕事を請けていた頃は、固い干し肉だけで食事を済ませていたことも多かったアージェは、大して舌が肥えているわけでもない。
彼は、味の薄い肉に辛味のある粉を振り掛けたいなどと思いながら、淡々と料理を消費していった。
自分は食事に手をつけようとはしないクレメンシェトラは、ディアドの様子を苦い顔で見つめている。
彼女は自分の作った料理に目を落とすと、ぽつりと言った。
「お前の母親も料理が得意ではなかった」
「エイディアですか?」
アージェはお茶を飲みたいと思ったが、それは持ってきた昼食の中には含まれていない。
クレメンシェトラは目を伏せて微笑した。
「エイディアと私とサリューア……レアリアの母だが、私たちはよく三人で城から抜け出していた。
 城の外の草原に敷布を広げてお茶を飲んで……二時間もするとルドリスが怒って探しに来た」
過去を思い返す述懐。
紫の目に愛しげな光が溢れる。
アージェからすると想像もつかない景色。クレメンシェトラは青年の視線に気付くと、気まずそうに肩を竦めて見せた。
「お前にとっては絵空事に思えるのだろうな。それでも私たちは、上手くやれていた時代もあったのだよ。
 ほんの短い時ではあったが、確かに私たちはお互いを思いやって暮らしていた」
「……母とは、友人であったと聞きました」
感想を差し挟まぬ相槌をアージェが打つと、クレメンシェトラは頷く。
「彼女は私を友人と言ってくれていた。だが、私はこうも思うのだよ。エイディアは私の愚かさと在り方を、譲って、赦してくれたのだと。
 はじめはお前と同じく、彼女は私を消そうとしていたのだからな」
「エイディアが?」
そこまでは初耳である。アージェは食事を取る手を止めて女皇を見た。
彼の反応が可笑しかったのか、クレメンシェトラは可憐な笑いを零す。
「お前は本当に母親似だな。そういう表情はそっくりだ」
「…………」
「私を消そうとしていたのは本当だ。彼女はお前と同じような道を辿って……そして『私を殺せない』という結論に達した」
「不可能だということが分かった? どういう手段を考えたんだ?」
エイディアが何を知ってどう諦めたのか、それはアージェも知りたい情報だった。
先人の足跡を知れば無駄な回り道を省けるかもしれない。食いついてきた青年に、女皇は自嘲気味に微苦笑を見せる。
「何を何処まで調べたのかは分からぬ。ただエイディアは、私を消してサリューアだけを残すことは不可能だと断じた。
 それだけではなく彼女はサリューアから、『何故私が生き続けなければならないのか』を聞いたのだ。
 エイディアはそれを知って、私を消すことを諦めざるを得なかった」
「何故生き続けなければならないか?」
それは、アージェの耳にいささかの引っかかりを残した。
この国を治める為、或いは神の意を守る為というだけではないような「何か」。
何故そのような違和感を覚えるのか考えて―――― アージェはすぐにその理由に気付く。
エイディアは、クレメンシェトラの存在を知って更に、彼女を消そうとまで思ったのだ。
その時点で最古の女皇がおらずとも国については何とか出来ると踏んでいたに違いない。
にもかかわらず彼女が諦めなければならなかった程の「何か」があった。
方法的に不可能ということとは別に、目的としても諦めざるを得なかった理由。
アージェは未だ自分が知らないそれについて、得体の知れない薄ら寒さを覚える。
彼は緊張を隠しきれない声で問うた。
「その理由を、俺も聞くことが出来ますか?」
クレメンシェトラにとっては、自分を守ることになるのだろう理由。
母が聞いて諦めた理由を、アージェは自分も知っておきたいと思った。
膝をつめてきた青年に、女皇は苦笑で返す。
「それを聞いたならお前は、レアリアを救うことを諦めるのか?」
「いいえ」
「ならば聞かぬ方がいい」
あっさりと拒絶すると、クレメンシェトラは立ち上がる。
風になびく白金の髪。今は紫に見える瞳は、消えない哀惜に染まっていた。
クレメンシェトラは長い髪を押さえてアージェに笑いかける。
「お前は私を赦さなくていい」
「どういうことです?」
「レアリアも……きっと私を赦さなかったのだ」
孤独な貌。分かたれた道。
その時、庭には強い風が吹いた。
一陣のそれは木の葉を揺らし、女の服を大きくはためかせる。薄いヴェールが見えざる手に取られ、宙に舞い上がった。
アージェは咄嗟に手を伸ばして、飛んでいきかけたヴェールを掴む。
しかしそれを手元に手繰り寄せた時、既にクレメンシェトラは城に向かって歩き出していた。
ただ一人歩む女の背を、青年は訝しさを以って見つめる。
―――― 母はいない。もはやその真意を聞くことは出来ない。
彼は残されなかった多くのことを思うと、大きく息をついて澄んだ空を見上げた。