白の新床 145

もたらされる知らせは真も偽も入り混じっていたが、総じて芳しいものではなかった。
ガージリアの宮廷にて、一連の情報について交わされる激論を前に、第二王子であるハドスは歯噛みする。
日頃から戦乱が各地を彩るこの大陸。だがここ二年程は更に不穏がそこかしこに広がっていることを彼は知っていた。
水面下で動くいくつかの大国。そしてこれからの波を予感するかのように寄り集まる小国など、大陸のあちこちで今までとは違うざわめきが起き、波紋と火種を生んできている。
しかしそれでもハドスは、自国だけは平穏であればいいと願っていた。
ガージリアには今まで何度も外からの危機が訪れたが、それらも城や民の力によって何とか乗り越えられてきている。
そうして出過ぎることなく、潰されることなく、ただ分相応の平和を保っていられればいい。
そう考えて彼は堅実に父や兄を支えてきたのだ。
この世の中において、誰しもが一度は抱くささやかな願い。
けれどそれは今、脆くも崩れ去りかけていた。
隣国クアイスの侵攻により十以上もの町村が全滅しているとの情報。次々入る報告の一つ一つが事態の深刻さを彼に知らしめている。
それだけではなく既にガージリア南西部フラギル領城砦は、フラギル領主が軍隊を以って抵抗を試みるも陥落したという一報が伝えられたばかりであり、集まった重臣たちの顔色を失わせていた。
ハドスの兄である王太子は、苦々しい顔で会議机に広げられた国内地図を見下ろす。
「何故今、クアイスが……」
「クアイスはケランを盟主とした同盟に属していたはずです」
「ならば今回の侵攻もケランら同盟国の意図が働いているのだろうか」
「軍を出しているのはクアイスだけだ」
「ならば独断か?」
「だとしてもケランがこれを知らぬとは思えない。手は出さずとも傍観しているのではないか?」
「だがそれではとても打つ手が……」
「コダリスに助けを求めるというのは?」
「それをしてはイクレムとセーロンが黙ってはいまい」
出口の見えない議論。ハドスは誰にも悟られぬよう小さな溜息をついた。
本当ならば来月に幼馴染である侍女との結婚を控えている彼だが、もはや事態はそれどころではない。
国と民全ての存亡が危うくなっているのだ。彼は愛らしい婚約者の姿を思い出して目を閉じた。
その時、議論の喧騒を縫って女の声が響く。
「打開案がないわけではありませんわ」
艶のある声。一本だけ色が違う糸のように人々の意識を引くそれは、部屋の隅から聞こえた。
壁に寄りかかり一連の話を聞いていた女は、全員の視線を浴びて嫣然と微笑む。
彼女は豊満な肢体を自らの両腕で抱き締めて続けた。
「皆様は二年前、ある小国がイクレムに攻め込まれ、あわや滅亡の危機になったことをご存知で?」
「二年前……? ログロキアのことか?」
王太子が答えると、女はにっこりと笑った。
今はもうない国の話。だが彼女の言うとおり確かにログロキアは、滅亡寸前でその命を拾ったのだ。
女は居合わせたものたちの目に了承が浮かぶと頷く。
「あの時ログロキアは、ケレスメンティアの介入により救われることとなった……。
 ただその介入が、たった一人の人間の為に行われたことは意外と知られてはおりません」
「たった一人? そんなまさか」
「嘘のような本当の話ですわ。今は女皇の騎士となっている男―――― 彼を救う為に女皇は介入を決意した。
 つまり、今回もそうなればよいのです」
女の言葉は、肝心なところを掠めて通り過ぎているかのようだった。
三ヶ月前よりふらりと宮廷内に出入りするようになった彼女。非常に腕のいい魔法士であるという女は、芝居がかった仕草で両手を広げた。結論を問う視線に応えて見せる。
「女皇は今、夫となる人物を求めている。その相手と引き換えに保護を求めればよいのです」
「ケレスメンティアの庇護を……?」
「だが、女皇の夫候補はみな何故か災難に襲われていると言っていたのはお前ではなかったか?」
「そうだ。万が一そのような災難に見舞われれば、ガージリアには本当に後がなくなってしまう」
「第一そのようなことをしている場合か?」
口々に不安要素を示す男たち。それら批難の声にもかかわらず、女は平然と笑ったままである。
そこにいるだけで自然と人を引きつける彼女は、美しい指先で自分の開いた胸元をなぞった。黒く塗られた爪が、蜘蛛の刺青を叩く。
「国が滅亡の縁にあるというこの時、一人を襲う災難を恐れている場合ではございませんわ。
 むしろそのような不吉さが警戒されている今こそ、余計な競争相手がいないと考えるべきです。
 嘘と思うのならケレスメンティアに打診をなさってみてはいかがでしょう。
 彼の女皇は未来の夫の為に、この城を訪れてくださるかもしれませんわ」
女の含みある視線はそして、ハドスの方を向く。
その意味するところを悟ったらしく、部屋にいた重臣たちは次々に彼の方を見た。最後に兄である王太子が何かを求める目でハドスを見やる。
―――― 結婚を控えた彼。だが事態はそれどころではなくなっている。
ハドスは自らの立たされている現状に愕然とした思いを味わうと、口の中でそっと恋人の名を呼んだのだった。






ケレスメンティアで暮らすようになったアージェにとって、「災難」とはおおよそ「人災」と同義の言葉である。
ディアドとなってから既に一ヶ月あまり。だが、宮廷では彼の出自そのものを白眼視してくる人間は未だ多い。
それに伴う陰口やあてつけも日常茶飯事であるし、女皇が昏睡に陥った件については正当不当にかかわらず多くの批難が寄せられた。
しかし彼自身はそれら批難について、もっともな意見への反省はしても、偏見に打ちのめされてしまうということはない。
根拠のない誹謗などそよ風と大差ないものだ。彼は飄々と多くを受け流し、ただ一人の主人に仕えていた。
ただ実際肉体的に打ちのめされてしまうと―――― さすがに体のあちこちが痛んで仕方ないのだが。
練習用の剣で作られた十近い打撲。触れれば息を止めたくなるほどの怪我を複数負った彼は、苦い顔で寝台に腰掛けていた。
彼の前に屈んでいるクラリベルが、痣だらけの腕に真剣な表情で包帯を巻いていく。
「アージェ、痛い?」
「あんまり」
「あ、それ強がりだから。多分めちゃくちゃ痛いはず」
アージェに打撲を作った張本人の男は、機嫌のよさそうな満面の笑顔を見せた。
妙齢の女性たちからするとその笑顔は心傾ける魅力に溢れているらしいのだが、アージェからすると悪質な稚気が溢れているとしか見えない。
そしてそれは、兄を散々痛めつけられたクラリベルにとっても同様のようで、少女は拗ねたような目を雇い主の男に向けた。
「そんなに酷い怪我なんですか?」
「んー、結構徹底的にやったから。たまには痛い目見ないと駄目だろ? まだこいつは伸びるし」
貴族の屋敷で働いてはいるが、世間知らずなところも多いクラリベルは、その言い分に納得したらしい。不服そうながらも頷くと兄の手当に戻った。エヴェンから差し出された軟膏を受け取り、たっぷりと痣の上に塗りつける。
一方同僚の言うことが「嘘ではないが本当でもない」と知っているアージェは、渋面で横を向いた。
掠り傷程度ならともかく、ここまで痛みを伴う打撲なら魔法士に頼んで治癒してもらうことも出来るのだ。
だがエヴェンはそれを許さずアージェを自分の屋敷まで引っ張ってきた。
おそらくはじめから、クラリベルに会わせる為に怪我をさせたのだろう。手段を選ばない男を、青年は心の中で罵った。
だがそれはそれとして、エヴェンに勝てない自分にも不満を覚える。アージェは膝の上に頬杖をついた。
「騎士の剣か……」
今まで正統剣術を修める必要性について彼は懐疑的であったのだが、いかんせんエヴェンとの差は縮まる気配がない。
これは自分の年齢が若いということを差し引いたとしても、そろそろ腰を上げなければいけない問題だろう。自分の剣に拘りたい気持ちはあったが、それよりも今は力が欲しかった。
アージェは、にやにや顔で立っているエヴェンを見上げる。クラリベルの手際を見ていた男は、視線に気付いてアージェを見た。
「何だ?」
「いや、別に」
かつては冗談か本気か、エヴェンが彼に剣を教えることを女皇は禁止していたのだが、今の彼女はクレメンシェトラだ。おそらく頼めば許可を貰えるだろう。
ただアージェはこれまでの手合わせで、エヴェンがいわゆる天賦の才を持ち合わせた人間であることに気付いていた。
そのせいか何度か助言を貰ったものの、言われている内容が抽象的すぎていまいち分からない。
勿論エヴェンも努力と鍛錬を積んできているのだろうが、それだけではないものが彼にはあるのだろう。
教師というものを嫌いながらも教えることは上手かったケグスとは対極にいるような相手。
アージェはどうしたらエヴェンに勝てるようになるのか、男の秀麗な顔をじっと見つめる。
エヴェンは先程から何も言おうとしない青年に、気味が悪そうな表情になった。
「だから何だよ」
「別に。ってか、他の騎士相手なら結構出し抜けるんだよな」
「出し抜くんじゃなくて正面から勝てっての。お前はあちこち気にしすぎなんだよ。もっとびしっとしろ」
「びしって何……」
「びしはびし。分かるだろ」
まったく分からない助言を口にした男は、部屋の時計を見ると何かを思い出したかのような表情になった。二人に向かって指を鳴らす。
「じゃあ俺、これから約束があるんで行くわ」
「また女か」
「この部屋好きに使っていいからな」
ひらひらと手を振ってエヴェンが部屋を出て行くと、アージェは妹の手元に視線を戻した。
ようやく全部の箇所に手当を施した少女は、心配そうな目で兄を見上げる。
「お兄ちゃん、いつもこんな怪我してるの?」
「いつもじゃないから平気」
アージェはそう言ったものの、実際には死の危険も大いにある職務だ。クラリベルもそのことは知っているのだろう。
不安な表情のままの妹を見て、青年はどう誤魔化すべきか迷った。結局何も言わず小さな頭を撫でる。
クラリベルはそれに微笑もうとして失敗したようだった。
いつの間にか屈託のなさよりも複雑な感情の方が大きくなっているらしい少女。彼女の変化にアージェは幾許かの感慨を抱く。
青年はけれど、自分だけの感情を消化すると立ち上がった。
「俺はそろそろ陛下のところに戻る」
「……うん」
「手当してくれてありがとう」
未だ痛み続ける打撲は、城に戻って治癒を施して貰わなければ職務に支障が出そうである。
だがそれはそれとして、家族の温かみはやはり嬉しかった。
―――― 嬉しくはあったが、それに浸かりすぎてはいけないとも思う。

部屋を出て行こうとする兄を、クラリベルは小さな声で呼び止める。
「アージェ」
「どうした? エヴェンが何かした?」
「違うって。……ね、女皇陛下はすごい美人って本当?」
予想も出来なかった質問。だがその答は分かりきっている。アージェは半ば反射で頷いた。
「本当。多分俺が見た人間の中で一番美人」
「そうなんだ……」
じっとりと湿り気を帯びる声。クラリベルは兄をねめつける。
「今度、私もお会いしてみたいな」
「うーん?」
本来であれば、一介の小間使いが女皇に面会することなど不可能である。
だがアージェが言えば遠目から見ることは可能であろうし、クレメンシェトラなら意外に会ってくれるかもしれない。
ただ青年はそこまで考え、けれどかぶりを振った。
「今の陛下はな……」
「やっぱり難しい?」
「いや。ちょっと待ってろ。いつか会わせてやるよ」
クレメンシェトラではなくレアリアに。
そう口の中で呟いて、彼はエヴェンの屋敷を後にする。
体のあちこちが痛い。腕を動かすだけで溜息が漏れる。
けれどアージェはそれらを当然と受け入れると、城へと戻る坂道を上り始めた。