白の新床 146

紡がれる聖句。
さざめく波のように広い空間を満たすそれは、単なる音を越えて一つの情景を描き出している。
高い天窓から差し込む光。静謐な朝の空気は祈りの呟きに浸され、清冽な上澄みと重く沈殿する信仰が、立ち並ぶ数百人もの人間たちを当然のように支配していた。彼らは男も女も、老いも若いも皆同じ表情で頭を垂れている。
何もかもが白で統一された大聖堂の、人々が向かう奥には広い壇上があり、そこにはディテル神を表す巨大な碑が置かれていた。
びっしりと遺跡文字が彫り込まれた艶やかな石碑。その前には一人の女が人々に背を向け跪いている。
主神ディテルよりこの国を委ねられし女皇クレメンシェトラは、右手で両目を覆い左手を胸に当て、定められた聖句を口にしていた。
その様をアージェは、聖堂の壁際から見つめる。

朝の儀礼として毎日行われている大聖堂での礼拝は、別に全員の出席が義務付けられているというわけではない。
現に職務の時間が合わないなどという理由で自室で済ませる人間もいれば、別の時間に大聖堂を訪れる者もいる。
加えて城内にはここ以外にも各所に小さな聖堂が配されており、祈りの場所には事欠かないようになっていた。
神の国ケレスメンティアにおいては生きることと同義であるとさえ言える信仰。
神への忠誠を言葉として表すことは、この国の民にとって物心ついた時より当然のものとして身についた習慣であるのだろう。
そこに疑問を差し挟む余地はなく、彼らは強い信仰心を以てケレスメンティアを大陸唯一の聖域としてきた。
アージェは、多くの騎士たちが両手を胸に当て聖句を呟く様を、ただ一人無言で眺める。
ディアドである彼は儀礼に使う聖句を既にほとんど暗記していたが、このように自由意思が通る場ではそれを口にしたことはなかった。ただ女皇を守る者として彼女の見えるところに控えているだけである。
聖堂の中はいかなる者も武器の持ち込みが禁止されており、それはアージェも例外ではない。
だが異能者である彼は、武器がなくとも戦うことが出来る。
或いはそれが、名前を消されたカルディアスが、クレメンシェトラの騎士とされた理由なのかもしれない。
彼は、神子として神民の前で祈るクレメンシェトラを見ながら、変わった動きをする者はいないか、聖堂全体を広く視界に入れていた。
続いていく祈り。
引いては返す言葉は空間を律していく。
まるで作り物のように整ったその光景は、アージェに「神の庭」という単語を思い出させていた。



今現在隣国から侵攻されているという小国ガージリア。
その宮廷から婚姻について打診が届けられた時、ケレスメンティアの人間たちはそれぞれがすぐには何も言えなかった。
ガージリアが何を考えて自国の危機にそのような要請を出してきたのか、狙いは非常に分かりやすい。
おそらく大陸でも異色な存在であるケレスメンティアを引き入れることで、自国の危機を解消したいのだろう。
ケレスメンティアも普段であれば、既に始まっている戦争への介入はしないということを理由にして相手の打診を撥ね退けることも出来たが、今はそう即断も出来ない。
度重なる成婚の失敗とそれに伴う悪評、更に女皇が既に二十歳を越えているという現状は、重臣たちを崖縁に立たせていた。
古い会議室の一つにて、一等神官デウシスは、白髪混じりの眉を寄せて書類を手に取る。
「ガージリアか……山間の小国でこれといって見るべきところもないが、これでお世継ぎの問題が解消されるなら有り難い話だな」
「だがケラン以上に格下の国だ。本当にそのような国から皇配を迎えていいのか?」
年輩の神官にそう問うたのは、主席政務官のフォルレだ。
今年五十二歳になる彼はデウシスとは古くからの学友であり、二人は先代女皇が没した後、共に幼いレアリアを支えて国の安定を保ってきた。その功績は大きく、今でも宮廷内での彼らの影響力は強い。
重臣たちの中では年長の方であり、他の臣下たちからも一目置かれている二人。
しかし彼らはここ数年、後継問題を巡り女皇とは衝突し続けてきた。
デウシスはこの場にいないもう一人の重臣について触れる。
「キシンなどは大歓迎と言っていたぞ。ケレスメンティアに王子を差し出す気があるなら、国の危機などいくらでも救ってやると」
「あやつは言うことが乱暴なのだ。折角陛下がお連れになったディアドにも散々八つ当たりをしていたではないか。
 あれでもしまたディアドが出奔したらどうするつもりだったのか……」
「エイディアの息子だ。多少の反抗心があろうとも、一度誓った忠誠を裏切りはしないであろう」
「不信心も忠誠心があれば構わないと言うわけか? 一等神官殿」
フォルレがそう揶揄すると、デウシスは苦笑した。
本来であれば立場的に彼が口にしてはいけない感想ではあるが、ディアドについては本当にそう考えていることも事実である。
女皇の騎士に必要なものは力と忠誠心であり、信仰心は極端な話なくても構わない。
もともとディアドの祖であるカルディアスは、選出者でありながらその名を消された男なのだ。
澱を操る異能者という点からしても、ディアドは清浄からは程遠い存在である。
無理に信仰心を求めて、ルドリスのように変わった男になっても困る。
デウシスにとってそう考えると、アージェは許容範囲にあるディアドであった。
若いがゆえの実力不足はあるが、レアリアへの気概は充分である。
それでいて主君に対し出すぎようとしない彼に、期待を裏切られたと思う者たちも多かったが、彼はそれについて早々に割り切るようになっていた。
剣そのもののような女皇の騎士。
ディアドはそれでいいのだ。そうして騎士は主君の影であり続ける。
―――― デウシスは、そうアージェのこともまた捉えていた。

ただディアドについてはそれでよいとしても、問題はまだ大きなものが残っている。
ケレスメンティアの名家に生まれ、人生を神と国に捧げてきた二人は、ここに来て一向に解決しない問題に直面し、冴えない表情で顔を見合わせた。デウシスは溜息をつくと尋ねる。
「それで? ガージリアはその第二王子をこちらへ連れてくるのか?」
「逆だ。ケレスメンティアに来いと言っている。
 大方隣国への牽制をはかりたいのであろうが、図々しいことこの上ない」
「だが先日の宮廷内での事件を言われれば無理もないだろう」
少し前に城へ入り込んだ暗殺者によって、女皇が重傷を負い他国からの求婚者は殺されたという一件。
ガージリアからもまさにその一件を指摘されていたフォルレは、友人の言葉に苛立たしげな表情になった。
「あの一件で曲者を呼び込んだのは向こうの方だった。被害者はこちらだ。
 だがそこまでを知っている輩はほとんどいない上に、奴らはこちらを責め、当然の顔で要求をしてくる」
「無知は罪ではない。それは民の美徳だ」
デウシスの言葉は聖典の一節である。
反論を封じられたフォルレは、固い声音で「神の御意思のままに」と返した。
まだ格下の相手国に納得していないらしき彼は、ぶつぶつと口の中で何事かを呟く。
デウシスはそのような友人を苦笑して見やった。
「それで? 陛下には話をお通ししたのか?」
「一応は。陛下ご自身はまだお体の調子が優れぬようだが、相手の見定めだけでも可能であれば済ませておきたいところだ。
 ―――― ちょうど今は、ディアドがいる」
女皇の代理を務めることもある騎士。
ガージリアに誰かを向かわせなければならないなら、アージェがいるだろうと示唆するフォルレにデウシスは眉を寄せた。
「彼で大丈夫か? あの若さでははたして見極めをつけることが出来るかどうか……」
「それは陛下がご判断なさることだ」
いくらか乱暴に話を打ち切ったフォルレは、書類を手に取ると立ち上がる。
そうして小さく溜息をついた彼の姿は途端に老け込んでしまったようで、デウシスは自身も吐きかけていた溜息を飲み込んだのだった。



大聖堂の隅にある小さな扉。それは女皇の使う控えの部屋へと通じるものであるが、簡素な控えの間には更に二つの扉が存在している。
廊下に出る扉と、聖堂よりも奥へと向かう細い通路への扉。その通路を今、アージェは小さな燭台を手に先へと進んでいた。
彼の後からはクレメンシェトラが規則的な軽い足音を立てついてくる。
礼拝後に命じられて通路に来たものの、何処に向かっているのか分からない青年は、薄暗い道の先を目を細めて見やった。まだ剣を置いてきたままの状態に、いささかの落ち着かなさを覚える。
「そろそろ何処に向かっているか聞いてもいいですか」
「気になるのか?」
「まだ城内の全部を把握しているわけではないですから。ここまで奥に来たのは初めてです」
頭の中で位置関係を整理してみると、どうやらこの先は入ったことのない領域だ。
ただそれでも好奇心や不安などは感じさせないディアドの声音に、クレメンシェトラは苦笑した。
「そうだろうな。この先は神殿だ。普通の人間は入れない」
「神殿? 聖堂とどう違うんです」
「民の為のものではないということだ。神殿を開けることの出来る者は王ただ一人しかいない」
「それってまさか神具の―――― 」
さすがにアージェは絶句する。
彼はエヴェンから聞いた「女皇しか入れない神具を安置した神殿」の話を思い出した。
何故今そのような場所に向かっているのか、 自室に隠してある黒い短剣のことを思い出す。
しかしアージェの緊張とは別に、クレメンシェトラは微苦笑しただけだった。彼女は疲れているようにも聞こえる声で返す。
「もしもの時の為に、お前は場所を知っておいた方がよいかと思ってな」
「もしもの時?」
「空白期間に大きな危機が起こった場合のことだ」
燭台で照らしている通路。真っ直ぐに伸びるその向こうに、黒い鉄の扉が見えた。
アージェは肩越しに主人を振り返る。
「空白期間について、聞いてもいいですか?」
「ああ。しかし、お前の予想通りであると思うがな。
 ―――― 今この状態で次代を身篭れば、胎児が大きくなるにつれて『私』は新たな体へと移る。
 それまでにレアリアが目覚めていなければ、こちらの体はやがて眠ったままになるだろう。
 勿論体自体は魔法による延命が効くが、決定機関としての女皇の座は実質空席になる。
 そうなった時に内部のことは政務官たちに任せるが、外敵が来た場合にはな……お前に委ねる」
「俺に?」
表情を消し女の言葉を聞いていた青年は、最後の一言に素っ頓狂な声を上げ足を止めてしまった。
クレメンシェトラはそのような彼の顔を見て、困ったように微笑む。
「そう驚くな。ディアドは女皇の表裏だ」
「って言われても。俺、自分がケレスメンティアの人間だって実感がほとんどない」
そしてその実感がこれから沸くとも分からない。
彼にとってこの国にいる意味は、レアリアただ一人に集約されるのだ。
しかしそれを聞いてもクレメンシェトラは微笑んだままだった。
「構わぬ。レアリアは初めからそのつもりであった。ならば私もその意を汲むべきであろう」
女は彼の前に立ち、黒い扉を指差す。普段は紫に抑えている瞳が燭台の火に照らされ、途端赤みを帯びて見えた。
神代より存在し続けた女皇は、造り物めいた美貌に捉えがたい表情を浮かべる。
赤い火が作る翳。高い鼻梁に沿う陰影のせいか、その横顔は物憂げなものに映った。アージェは思わず眉を顰める。
しかしクレメンシェトラは、彼の戸惑いに気付きながら、それを無視した。聖句を読み上げた時と同じ淡々と澄んだ声で告げる。
「今日は開かぬ。だがいつかこの先へ行く時が来るかもしれない。
 その時が来たなら、お前は私の剣を取るのだ」
―――― 女皇の剣。
その意味するところを掴みかねて、アージェは聞き返す。
「それが神具?」
神の娘であるルクレツィアが作った短剣が神具であるなら、クレメンシェトラもまた自身が作った剣を神殿に置いているのだろうか。
アージェは人を拒んでいるようにも見える黒い鉄扉を見やった。
飾り気のない扉の先にはどのような神殿が広がっているのか。
そこに何処となく忌まわしさを覚えるのは、彼の信仰心のなさが故かもしれない。
扉を見たままの男にクレメンシェトラは苦笑する。
「あそこにあるものは……神の遺志だ」
暗い通路に反響する囁き。
神代から直接届いたかのような言葉に、アージェは薄ら寒さを覚える。
先の時間を想定しながら、だが今なお過去の只中に捕らわれているが如き場所。
彼は朽ちた神殿の中に眠る古びた剣を想像し―――― 黙ってかぶりを振ると扉から視線を逸らした。