白の新床 150

突拍子もないダニエ・カーラの要求。
アージェはそれを聞いてぽかんと口を開けてしまったが、すぐに気を取り直すと溜息をつく。
「そういや、こういう奴だった……」
「カルド、早く! 待たされるの好きじゃないの!」
「ちょっと考えさせろ」
自分の身の内にいた時はともかく、コダリス王女に宿っている今は、彼女は扱いづらい「敵」だ。
青年は自分がどう立ち回れば被害を最小限にして最大の利益が得られるのか、半ば投げやりに考え始めた。
その時ようやく彼の腕の中から脱したミルザが叫ぶ。
「行ってはならんぞ、兄!」
「お前も黙ってろって……」
妙な呼ばれ方をしてアージェはどっと脱力しかけた。横目でロディを見ると、彼は緊張の表情でディアドの青年を見返す。
もしこの場でダニエ・カーラと戦闘にでもなれば、彼女に対抗出来るのは異能者である兄妹と魔法士のロディしかいないだろう。
アージェはとりあえず神兵たちを下がらせようと口を開きかけた。
しかし上げかけた声に重なって、扉が大きく叩かれる。
「申し訳ありません、少々お話が―――― 」
返事をする間もなく開いた扉から顔を覗かせた男、ハドスは室内の状況を見てそのまま固まった。
彼は部屋の角に佇む女に視線を留める。
「メルシア嬢……? どうしてここに」
「あら、腰抜け男じゃない。婚約者の助命嘆願にでも来たの? 鬱陶しい」
「婚約者?」
坂を下るように混迷していく事態。部分部分を把握したアージェは深い溜息をつく。
「ついてない……。これは絶対ついてないだろ」
誰を恨むわけにもいかない、だが恨み言も言いたくなる現状。
青年は目の前の妹を下がらせると、ついに己の長剣を抜いた。



やはり今回の話はなかったことにしてもらおうと、ハドスが決心したのはその十五分ほど前のことだ。
それは婚約者であった幼馴染が自失の結果、ケレスメンティアの使者に怪我を負わそうとしたことばかりが原因ではない。
心が壊れてしまったかのようにただただ泣き続ける彼女を慰め、怒り狂う兄を宥めながら、ハドスは先程使者の青年から問われたことを反芻したのだ。
「もしケレスメンティアからの庇護が得られなければ、侵攻にはどう対処するのか」との問い。
それはハドスにはまるで「自分たちの力では何も出来ないのか、してこなかったのか」との弾劾に聞こえていた。
勿論アージェにそこまでの強い意図はなかったのだろう。ただその言葉がハドスの抱く自責を刺激したことは確かだ。
―――― 本当に自分たちで出来ることはもう残っていないのか。
彼は考えた結果、意を決すると、独断でケレスメンティアの使者たちがいる部屋を訪ねた。
もし叶うなら婚姻による庇護ではなく、正当な要請によってケレスメンティアの助力を得たい。
クアイスもケレスメンティアの口利きがあれば交渉のテーブルについてくれるだろう。
神の国の立会いが得られれば、事態は血を流さぬ方向で決着するかもしれないのだ。
だがそう考えて懇願に訪れた部屋では、既に何らかの衝突が起こりかけていた。



剣を抜いたアージェは一歩踏み出しながらダニエ・カーラを威嚇する。
それは余計な被害者を生み出さないように、自分が彼女の注意を引きつけようと思ってのことだったが、ダニエ・カーラは楽しそうに笑っただけだった。未だ事態が飲み込めていないハドスに、女は蛇に似た笑みを見せて囁く。
「変な情けをかけないで殺してあげればいいのに。その方が彼女もきっと楽になるわ」
「メルシア嬢、私は彼女については……いや、そうではない。私はケレスメンティアの方々にお願いがあって参ったのだ」
「何のお願い? どうせ虫のいいことなんでしょう?」
ダニエ・カーラは白い手で空中に円を描く。
そこから黒い蛇が三匹這い出し宙をくねり始めると、一同はぞっとして警戒を強めた。神兵たちがおのおの剣を構える。
彼女はそのうちの一匹を右手に絡ませると、唖然としているハドスを指差した。
「どうして話し合いで解決しようとか考えるの? 奇麗事に何の力があるの?
 今まで何千人が殺された? 自分の目の前で死ななければ分からないの?
 それとも地方に入植した人間の子孫なんて、お前から見たら単なる道具でしかない?」
「そ、そんなことは……彼らはこの国の大事な民だ」
「なら復讐すればいいのに。血を流して殺しあえばいいのに。
 それが一番分かりやすくて、一番喜ばしいのに。―――― ねえ、闘争は人間の美徳でしょう?」
澄んで響く笑声。
無邪気な女の笑いに、しかし場の人間は薄ら寒さを覚えて蒼ざめた。
動じていない例外であるアージェは、苦い顔で一歩前に出る。
彼は左手で背後のミルザを留めながら、蛇と戯れる女に対した。
「ダニエ・カーラ」
「何?」
「俺はお前を消したくないと思ってたよ。お前は時々とても人間らしいから、その弱さが気の毒だった」
「……私が欲しいのは同情じゃなくて愛情よ」
女の笑顔が少しだけ歪む。手を伸ばしても得られぬものを見る子供のように、ダニエ・カーラは苛立ちを窺わせた。
しかしアージェは同情そのままの視線で、真っ直ぐに女を見据える。
「でもお前がそういう考えを持って、これからもイリデアを利するなら、俺はお前をそのままにはしておけない。
 そもそも今こうなってるのも俺のせいだよな……。別れてからお前が何をしているのか、知ろうとしてなかった」
淡々と告げる青年に、女は傷ついたような表情になった。
はたから見れば男女の揉め事にも思えるやり取り。
しかしそこには一触即発の炎が潜んでいる。黒い蛇が漆黒の舌をちろちろと覗かせた。
「私を敵にするというの?」
「お前がそうしたんだ。嫌なら大人しくするか……こっち戻れ」
アージェは剣を取っていない左手を差し伸べる。
ダニエ・カーラは手袋に包まれた黒い手を、困惑の表情でじっと見つめた。その瞳に縋るような色がよぎる。

ダニエ・カーラは、今はもういない母があえて彼の体から追い出したものだ。
おそらく気紛れで残酷な彼女が中で眠っていることは、アージェにとってよくないことだと判断されたのだろう。
しかし青年は母のそういった意図を理解しながらも、今、自分がもう一度ダニエ・カーラを押さえ込んでもいいと思っていた。
奔放で自由で、だが孤独に震えていた女。その女が淋しがらずに眠れる為の場所を、自身の中に与えてもいいと思う。
ハドスのことを言えない感傷的な選択肢。
しかし彼の差し出した手は、彼女の手に届くことはなかった。背後にいたミルザが、彼の背に肩から激突する。
「馬鹿か、兄! ディアドたる者が何を言っている!」
「ミルザ、お前……」
「ディアドは陛下のもっとも近しい者なのだぞ! そんな人間が陛下の敵を招いてどうする! 目を覚ませ、兄!」
背に受けた衝撃に顔を顰めながら、だが少女の言葉は彼にもっと苦い顔をさせた。
―――― ミルザの言うことは揺るぎようのない真実だ。
クレメンシェトラに敵意を抱くダニエ・カーラ。彼女を女皇の傍に連れていくことなど出来ない。
だがそれでもアージェは、二年もの間そうしていたように、気まぐれな女を押さえつけることが出来ると思っていた。
ディアドとしてダニエ・カーラを切り捨てるか、背信と謗られることを承知で彼女を取り込むか、アージェは二、三秒の間に逡巡する。



本来吊りあうはずもない天秤。
その逡巡を終わらせた者は、他でもないダニエ・カーラ自身であった。
「もういい」
硝子細工を投げ捨てるような声。
そこには傷ついた子供と同じ乱暴さが顔を覗かせている。彼女は両手をきつく握りしめ、アージェを睨んだ。
「もういいから、カルド! あなたは絶対私を選んでくれない! いつもそう、もううんざり!」
「ダニエ・カーラ」
「クレメンシェトラより私の方があなたに尽くせるのに。私はあなたを裏切らないのに!
 待っても待っても私のところに来てくれない! 全部クレメンシェトラのせいよ!
 あんな女、失敗作のくせに! 壊れちまえ! 殺してやる!」
激しい癇癪。場に居合わせた全員はぽかんとして彼女を見た。
一方アージェは、緊張に息を飲む。
彼女が彼の中に棲んでいた二年間、実際にレアリアを前にした時でさえ、ここまでの狂乱を見せたことはなかった。
何かが彼女の逆鱗に触れてしまったのか、それとも宿主が変わったことで性質にも影響を受けたのか。
アージェは憎悪の目で睨んでくるダニエ・カーラを目を逸らさずに見つめる。
彼女相手にただの剣は意味がない。異能の力かそれ以上のものが必要だ。
彼は宙を泳いで自分を威嚇してくる蛇を見つつ、左手の手袋に指をかけた。
しかしダニエ・カーラは、彼の動きに気づいて指を上げる。
「食らえ!」
漆黒の蛇を走らせる命令。
室内には一瞬、黒い火花が散ったように見えた。
矢の如き速度で放たれた三匹は、それぞれの方向に飛び出す。
一匹はある神兵の喉を食い破り、そのまま窓を割り砕いて外に出ていった。
もう一匹は包囲の間をすり抜け、開いたままの扉から廊下へと姿を消す。
そして最後の一匹は、真っ直ぐに騎士の少女へと向かった。
「ミルザ!」
アージェは咄嗟に妹の体を腕の中へ引き寄せた。
蛇の牙は少女の腕を掠めて通り過ぎる。
空を切った攻撃。―――― その先に立っていたのは、ハドスだった。
黒蛇は止める間もなく男の胸の下を貫通する。
飛び散る鮮血。ハドスは信じられないといった表情で自分の体を見下ろすと、膝から床に崩れ落ちた。
ダニエ・カーラの哄笑が室内に響きわたる。
「腰抜けにはいい末路ね。すぐにお前の泣き虫な女も後を追わせてやるわ」
「待……」
それ以上の言葉を、ハドスは口にすることが出来なかった。瞳から光が消え、指先までもが床に落ちる。
呆気ない男の死。血に塗れ一回り大きくなった蛇を、ダニエ・カーラは己の腕に絡め直した。
女は孤独な夜色の目でアージェを見つめる。
「さようなら、カルド。次に会う時はあなたの首をもらっていくわ」
「ダニエ・カーラ!」
アージェは手袋を取り去った左手で女を捕らえようと一歩踏み込んだ。
しかしその指先が蛇を絡めた腕にかかる直前で、女はその場から消え去る。
「転移か!」
「不味い、逃げた二匹が……!」
ロディは蛇の攻撃を食らった二人を見たが、どちらも既に事切れている。
一方蛇が出ていった廊下や庭の方からは、断続的に人々の絶叫が聞こえてきた。
アージェは左手に黒剣を生むと、ロディと文官を振り返る。
「ガージリアに説明と陛下にご連絡を! 俺は蛇の後を追う!」
ダニエ・カーラの作る蛇は瘴気の塊だ。彼の操る澱とは近しく、普通の剣では対応出来ない。
アージェは絶命したハドスの脇を抜けて、廊下へと出た。後悔が毒液のように精神を焼く。
そして彼は焦燥を飲み込み左右を見回すと、悲鳴の聞こえる方を探して走り始めた。