白の新床 151

飛ぶような速度で宙を移動する蛇は、手当たり次第近くにいる人間を襲っては、頭や腹を食い破っているようだった。
廊下に点々と落ちている血溜まりや死体、それらを辿ってアージェは走る速度を上げる。
時を追うごとにあちこちから聞こえてくる悲鳴は、蛇に襲われてのものだけではなく、死体を発見した人間のものも混じっているのだろう。
騒動はいつの間にか城全体に広がっているようだった。難を逃れた女官のすすり泣く声が何処からか聞こえる。
ただそれらの叫び声に頼らずとも、既にアージェは蛇に追いつきかけていた。
開かれたままの大きな扉。その向こうから響く怒声と絶叫を聞いて、青年は迷わず中へと飛び込む。
どうやらそこは兵士たちの食堂であるらしく、数十もの長いテーブルが整然と石床の上に並んでいた。
しかし木のテーブルに向かい食事を取っている人間は、今は一人もいない。
その時城の食堂は、黒い大蛇の凄惨な捕食場となっていた。
テーブルの上に手足を広げて横たわっている兵士。その男の腹の中に、女の胴ほどの太さとなった蛇が頭を突っ込んで腸を食らっている。
ぴちゃくちゃと臓腑を啜る音がする度に、まだ息があるのか男の足はびくびくと跳ねた。
思わず顔を背けたくなるような光景。細かい血飛沫が上がる場へと、アージェは黒い剣を手に駆け寄る。
蛇はその気配に気付いたのか、ゆっくりと頭をもたげて彼を見た。
大きく開かれる顎。その奥には何もない。ただむっとするような血と臓物の臭いが漂ってくるだけだ。
アージェは足を止め、剣を握り直した。次の瞬間、蛇は目にも留まらぬ速度で襲い掛かってくる。
人間が目視出来るぎりぎりの速度。それはあらかじめ予測していなければ避けることは不可能だったろう。
彼は右に跳んで蛇の頭を避けた。巨大な顎は転がっていた椅子を噛み砕き、木の破片が辺りに飛び散る。
アージェは右手をテーブルにつくと、その上へと跳躍した。更に木の天板を蹴り、蛇の目へ黒い剣を投擲する。
彼が澱を使い作った剣。その切っ先は薄赤く光る眼へと突き刺さった。声なき悲鳴が食堂にこだまする。蛇は全身を震わせ太い尾を振った。
しかし彼は、そこで手を止めることはしない。左手を一閃させ、短剣に繋いでいた糸を蛇の顎にかける。
「そろそろ大人しくしろよ」
ぎりぎりと顎を締め上げる糸。それが苦しいのか、蛇の巨体はのたうった。
床に飛び降りたアージェは振るわれる尾を避けつつ、糸の長さを調節して引き摺られないようにする。
そうしながら締め上げを強めることはかなりの集中力を要したが、彼は冷静さを失わず糸の操作をやってのけた。大蛇の強烈な体当たりに空を切らせつつ、深く息を吐き出す。
「もう、これで終わりだ」
小さな呟き。
アージェは懐からもう一振り短剣を抜いた。
鞘を胸元に残したままのそれは、漆黒の刃を持った人ならざる者の作りし武器である。
ケレスメンティアに残しておくことが不安で伴ってきた神具。
アージェは初めて振るう武器に幾許かの緊張を覚えたが、意を決するとのたうつ大蛇に向かって駆け出した。
辺りはやけに静かだ。他の人間は逃げてしまったのだろう。周囲に誰の気配も感じない。
彼は細身の柄を握り締めた。初めて握るはずのそれは、しかし妙に手に馴染んで思える。
青年は息を止め、大蛇を見た。
あと一足の間。
黒い短剣を振りかざす。
―――― ダニエ・カーラは、今も何処かで孤独なのだろうか。
そのようなことをこの瞬間は考えない。ディアドの青年は左手の糸を切り離す。
そうして大きく頭をもたげた大蛇の牙を避け、彼の振るった刃は黒い腹に深々と突き刺さった。
瞬間、蛇の巨体は音もなく四散する。アージェは飛び散る瘴気と血から顔を庇って腕を上げた。
断末魔はない。残る死体もない。
ただ彼の体をはじめ周囲の床やテーブルには、誰のものともつかぬ大量の血がべっとりとこびりついてしまったのだった。






全ての事態が収束するにはそれから約一時間がかかり、犠牲者は最終的に九十二人にのぼった。
アージェなどは当初の現場に居合わせた人間のうち、唯一のガージリア人であるハドスが死んでしまった為、自分たちに疑いの目が向くかもと危惧したのだが、すぐにその心配はないと分かった。
何でもイリデアの体を操るダニエ・カーラ自身が城内の各所に現れ、人々を虐殺して回ったらしい。
結果的には彼女を宮廷内に引き入れた王太子が責を取ることになり、ケレスメンティアには丁重な謝罪がなされた。
アージェは自分も対応が悪かったことを詫び、犠牲者へと哀悼の意を示す。
形式を重んじた言葉は彼自身を苛む空々しさを抱かせたが、死した人間には他に出来ることもなかった。
散々人を殺した挙句姿を消したというダニエ・カーラにもまた、言える言葉は何もないだろう。
今度会う時は宣言通り殺し合いになるに違いない。

縁談の話は、当事者のハドスが亡くなった為、そのまま立ち消えになった。
アージェはハドスの恋人であった女性が、ダニエ・カーラの宣告通り殺されてしまったのかどうか気になっていたのだが、王太子は「弟に恋人などいなかった」と言い張るだけである。
最終的には病に臥せっているという現王までもが出てきて何度も謝罪をされ、ケレスメンティアの人間は国に帰らざるを得なくなった。
全てが過ぎ去った後には、後味の悪さだけが残った。






城の中庭には涼やかな風が吹いている。
その風に白金の髪をなびかせるクレメンシェトラは、己のディアドがガージリアでの一件を報告する間、彼に背を向け黙って庭の景色を眺めていた。
アージェが「以上です」と言葉を切ると、彼女は小さく頷く。
「ご苦労であった」
「また縁談を駄目にしてしまいました」
「運が悪かったのだろう。―――― 私も実は、少しほっとしている」
予想外な主人の返事にアージェが目を丸くしていると、クレメンシェトラは微苦笑を浮かべ振り返った。
「そう驚くな。私も不安であったのだ。この体に眠ったままのレアリアを一人にすることはな」
「陛下」
「だからそう気に病むな。お前は己の役目を果たした」
女皇はそう肩を竦めて見せると、少し考えて「クアイスについては私の方からケランに話をしておこう」と付け足した。
あれだけの惨事になってしまった以上、ガージリアには問題の女がコダリスの人間であることを明かしておいたのだが、今のガージリアにはクアイスを留める力もコダリスに報復する力も残っていないだろう。或いは今回の一件から目をそむけてしまうかもしれない。
そう考えると、せめてこれからの戦を留めようとする彼女の意思はありがたかった。アージェは女皇の心遣いに感謝して頭を垂れる。
「ダニエ・カーラについては、俺の失敗です」
後から思えば、もっと対処のしようがあったのだと思う。
彼女を逆上させずに事を収められれば、あのような犠牲者は出さずに済んだ。
不安定な彼女のことを分かっているつもりで分かっていなかったアージェは、頭を下げたまま奥歯を噛み締める。
消えない後悔。風に白い花弁が舞う。ケレスメンティアならではの澄んだ空気が、今は妙に心苦しかった。
女皇は彼を見下ろしふっと笑う。
「エイディアがいたなら、お前と同じことを言っただろうな」
「母はいません」
「そう言うな。あの女に関しては私の責だ」
自戒のこもった声。アージェは驚いて顔を上げた。見るとクレメンシェトラは淋しげな目で彼を―――― 否、彼の遥か向こうを見つめている。
今は遠き日に向けて、女は風に言葉を乗せた。
「ダニエ・カーラを狂わせたのは私だ。千年を越えて恨まれたとしても、それは当然のことだろう。
 ……あの女は選出者の中でもっとも純粋だった」
赤みを帯びる紫の瞳。
クレメンシェトラはけれど、その色を見せたくないかのように瞼を下ろす。
そうして沈黙する主人を、アージェは冷えた風から庇おうと風上に立った。
「そろそろ中に。お風邪を召します」
「平気だ」
「陛下」
重ねて言われ、女皇は振り返った。紫に戻った瞳がアージェを見上げる。
悠久を不変でいた女。神より命を委ねられた者。
その双眸にダニエ・カーラにあるものと同じ孤独を見て取った青年は、何も言わず、ただ自身の上着を脱いで彼女の肩にかけたのだった。