緩衝の手 152

白い空間には、あちこちに大きな亀裂が入っていた。
果てしなく広がる床にも、茫洋とした宙にも走っている罅割れ。
世界の断裂を思わせるそれは、葉脈のようにそこかしこに先端を伸ばし空間を侵食している。その隙間からは灰色の霧が染み出していた。
少しずつ壊れていくようにも見える空間。アージェはその中を一人歩いていく。
彼が進む左右には女の体がぽつぽつと横たわっていた。目を閉じて動かない彼女たちはみなよく似た顔をしている。
同じで違う女。連綿と続いてきた彼女たちを、アージェはしかし振り返らない。彼はただ、空間の中央に聳え立つ太い柱に向けて足を進めた。
白い柱は、遥か天から地までを真っ直ぐに貫いている。
その先は見上げても見えず、根元はどうやら床に穴を開けて更に下へと続いているようだった。
一人の青年の他に動くものは何もない空間。
やがてアージェは、柱の根元へと辿りつく。
すぐ足下には、柱を取り囲む大きな穴が見えた。覗き込むと床下には黒い海が広がっている。
彼は顔を上げ、穴の外側から巨大な柱の表面を見上げた。そして真っ直ぐに手を伸ばす。
「レア」
白い柱に一箇所だけある窪み。そこには一人の女が膝を抱えて座っている。
他の女たちと同じく目を閉じたまま動かない彼女を、アージェは呼んだ。
「レア、迎えに来た。一緒に帰ろう」
壁も天井も何もない空間。しかし声はやたらと反響する。
女は目を開けない。アージェはもう一度彼女の名を呼んだ。届かない指先を女へと伸ばす。

彼女の名は、彼女だけが持つ記号だ。他の誰をも指さない。それは彼女を彼女たらしめる。
アージェは女の名を何度も呼んだ。繰り返し、飽くことなく。
響き続ける声。何も動かない空間。
そして彼女の答を得られないまま、ついにアージェは時のない夢から覚めた。






ディアドである青年の朝は、身支度をして朝食を取り、女皇に挨拶をすることで始まる。
ほんの幼少時を除いて自分の支度に他人の手を借りたことのないアージェは、着替えから何から全て一人でやることをよしとしているのだが、たまに女皇の部屋を訪ねて彼女の支度がまだ終わっていない時など、女官に捕まってあちこち弄くられることがあった。
その日も年上の女官二人に「髪の後ろがはねているから」との名目で捕まった彼は、クレメンシェトラの支度が終わるまで散々髪を弄られて閉口する。
いつもより二十分遅れて女皇が出てくると、彼女は前髪を上げられたアージェを見て小さく噴き出した。
「どうしたの?」
「どうもしません」
「いつもと感じが違う」
「自分では見えないので。どうでもいいです」
アージェが手を差し出すと、クレメンシェトラはその手に己の手を重ねた。
長い衣を引いて歩き出す女。ひどく美しいその姿は、けれど何処か不安定なあやふやさを感じさせる。
廊下に出た彼は女皇の半歩後ろを歩きながら、ふと違和感を覚えて彼女の横顔を見た。
いつもと変わらぬはずの貌。しかし肌の白さとは別に、妙に血の気が失せて見える。
「陛下?」
「何?」
「お体の調子は」
人目があるところではレアリアとして振舞っているクレメンシェトラは、愛らしく首を傾げてアージェを見上げた。
しかし彼はますます顔を険しくさせると、主人の顔に手を伸ばす。
クレメンシェトラはそこで初めてうろたえた顔になった。かき上げられた髪の下は、じっとりと汗で濡れている。
熱はない。だが次々浮かんでくる脂汗は、彼女の体調が悪いことを如実に示していた。
アージェは迷わずクレメンシェトラを抱き上げる。来た道を戻り出すと、後ろを付き従っていた女官たちが慌てて踵を返した。
女皇は吐息交じりの声で騎士に囁く。
「大丈夫だ。下ろせ」
「全然大丈夫に見えません。そういう状態なら最初から起きて来ないで下さい」
だから支度が遅れていたのかと、アージェは胸中で気付かなかった自分に舌打ちする。
クレメンシェトラはそれでも迷いを窺わせて彼を見上げたが、青年はきっぱりと主人に駄目押しした。
「休んでいてください。政務官には俺から話をしておきます」
「……すまぬ」
女皇は緊張が解けたのか、深い溜息をついて青年の胸にもたれかかる。
浅い息。そのまま目を閉じる女は、彼にいささかの危惧を抱かせていた。



朝の礼拝には重臣たちもほぼ全員が出席する。
その為集まっている彼らのところに向かい、女皇の体調について報告したアージェは、全員の顔が曇る様を目の当たりにすることとなった。
外務官であるキシンが、腹立たしげにアージェを睨む。
「陛下はまたお体が思わしくないのか」
「ええ」
「あの事件の時からどうにも臥せられることが多くなったな……。
 傍についている者は何をやっているのやら」
いつも通りの嫌味を、アージェは無表情で受け流した。
キシンがこのように彼に対して刺々しい言葉を吐いてくるのはいつものことであり、いちいち気にしていては仕方ない。
レアリアが重傷を負った件については確かにアージェの責もあるが、それは今言っても仕方がないことだろう。
そう思ったのは役職上キシンの上に立つフォルレも同様らしく、素っ気ない声音でキシンを窘めた。
「そのようなことを言っても始まらぬ。陛下にはゆっくりお休み頂き、一刻も早いご回復を願うしかない。
 ―――― デウシス、礼拝は任せていいな?」
「ああ、分かっている」
一等神官であるデウシスは、女皇の都合が悪い際には全ての儀礼において彼女の代理を務めることになっている。
デウシスの了解を皮切りに、重臣たちはそれぞれ主君の穴を埋めて己の役目を果たすべく散っていった。
アージェもまたクレメンシェトラに報告をすべく聖堂を後にする。

 ケレスメンティアの体制は、神の代理人である女皇を頂点として、主に三分化されている。
 一つは魔法・学問・説教・儀礼を司る神官たち。
全部で五百人程いる神官たちはそれぞれ専門に分かれ、更に上位神官には等位が振り分けられる。
現在彼らを統制するのは一等神官のデウシスであり、彼は説教・儀礼を専門とする貴族出身の重臣だ。
 次の一つは政務を司る文官たちで、彼らは主席政務官フォルレを筆頭に、内務・外務をはじめ多くの政部に分かれている。
そのうちの一つ外務部の長がキシンであり、アージェはこのデウシス、フォルレ、キシンの三人をひとまとめにして「うるさい親父三人組」と捉えていた。
もっともそれを口にしてしまえば風当たりが強くなるので、誰にも言ったことはない。
 最後の一つは軍部であり、約五万人の神兵たちが五十余人の指揮官に率いられている。
彼ら指揮官はまたほとんどが騎士でもあり、騎士自体の総数は全部で約二百人程。
指揮権を持たない騎士は出軍時には各部隊に編成されるか、将官の直轄部隊として動くことになっていた。
有事の際に動く将官は僅か五名。更に彼らの上には軍部総将が一人いる。
三十代半ばのその男の名はガイザスというが、アージェはほとんど彼と話をしたことがない。
ディアドや親衛隊は女皇直属の騎士であるので、話す機会もほとんどないのだ。
他にもケレスメンティアの体制について、細かいところを見れば色々あるのだろうが、アージェが把握しているのはこれくらいであった。
長い歴史と複雑な組織を持つ国の中でも一番特殊な位置にある騎士―― ディアドの青年は、クレメンシェトラのところへ戻ると、寝台でまどろんでいる主人に一通りの報告をする。
彼女は薄く目を開けてアージェを見るとか細い声を出した。
「すまぬな」
「お風邪でも召されたのですか」
「いや……少し体を動かしすぎた。慣れぬことに夢中になりすぎたな」
自戒を込めて苦笑するクレメンシェトラを、青年は怪訝に思って見やる。
彼女が一体何に「夢中」になっていたのか、言っている意味が掴めなかった。
女皇は彼の表情から疑問を読み取ったらしく、片目を閉じてみせる。
「久しぶりに人のように暮らすことは楽しかった。お前を見ていると面白いしな」
「では面白くなくしますので、きちんと休んで下さい」
「そうだな。そうさせてもらう」
クレメンシェトラは深く息を吐き出すと目を閉じた。アージェが細い躰に掛布を掛けようとすると、彼女は目を開けぬまま命じる。
「私が休む間、何処かへ行っていてくれると有難い」
「何故ですか」
「お前が傍にいると気が休まらぬ」
「……そのような理由ではお応えしかねます」
レアリアが眠り出してから二ヶ月、ちくちくとお互いを牽制しあっている彼らではあるが、ここまで率直な言葉で遠ざけられると反発心も沸き起こってくる。
冷ややかな目になったアージェに、クレメンシェトラは感情を抑えようとする声で答えた。
「お前といると楽しくはあるが、その分レアリアを思い出す。
 ―――― お前はレアリアのディアドであって私のディアドではないからな……弾劾の目を常に私へ向けている」
「そのようなことは」
反射的に返しながらもアージェは女皇の小さな吐露に、真実を見抜かれてしまったような動揺を味わっていた。
同じ貌を見る度に味わう失望。そこに彼女を責める気持ちははたして本当になかっただろうか。
気まずい気分になりながらも、彼はクレメンシェトラをまた「身勝手だ」と思う。
レアリアの現状については、彼ら二人が負うしかない苦味だ。そこから束の間逃れたいと思う彼女の気持ちも分からないではなかったが、アージェにとってそれは逃げるような問題ではなかった。
けれどそう思いながらもディアドの青年は黙って引き下がる。
背後で閉ざされた扉。彼は親衛隊に連絡して護衛の手配を済ますと、クレメンシェトラの部屋を後にした。

一人きりの平穏を得られた女は、天井を見上げて汗に濡れた前髪を拭う。
「もうすぐ例の時期だというのにな……よりによってこんな時に」
疲れ果てた呟きは、他者に届くこともない。
ただクレメンシェトラは次の瞬間激しい頭痛に見舞われると、小さな呻き声をあげて意識を手放した。