緩衝の手 153

女皇から遠ざけられたことを話すと、エヴェンからはまるでついでのように「一日休暇にしといたぞ」との連絡が返って来た。
実際普段は休日もなく職務についているアージェは、降って沸いた空白の時間をどう使おうかと考える。
いつもであれば訓練場に向かうのであるが、彼がクレメンシェトラの傍を離れているということは、代わりにエヴェンがその護衛を指揮しているということである。
そしてエヴェンら親衛隊所属以外の騎士たちは、多くがディアドである彼を遠巻きにしてあまり関わってこようとしない。
アージェはそのことに不毛さを覚えると、折角だからと城を出て街へ下りていった。
ちょうど再来月にはクラリベルが誕生日を迎える。その為の贈り物を探しておいてもいいだろう。彼はそう決めると、広い街をあてどなく歩き始めた。
緩やかな斜面に巨大な扇型で存するケレスメンティアの城下は、他国の城都に比べれば落ち着いた雰囲気を持っているが、それでも場所によっては多くの人が行き交い賑やかな様相を呈している。
彼は大通り沿いの店を数軒覗き、クラリベルの好みそうなものにあたりをつけていった。
もっともそれは子供時代の記憶に基づいている為、現在の好みとは乖離しているのかもしれない。
アージェはすぐにどれと決めてしまわずに、一度本人に探りを入れてみようとこの懸案を頭の隅に置いた。最後に立ち寄った花飾りの店で、小さな花籠だけを買い上げる。

彼がディアドになってからもうすぐ三ヶ月。その間に周囲は自然と様変わりをしていった。
妻子と共に早々にケレスメンティアを後にしたコデュは勿論、城都に調査研究に来ていたユーレンは、二週間程前にこの国を出立している。アージェのところには「また戻ってきます」との手紙が、ファリシアによって届けられていた。
中々都合がつかず、聞きたいことの多くが聞けなかったアージェだが、今は彼との再会を期待するしかない。
特に「クレメンシェトラが生き続けなければならない理由」について、青年は常に心の片隅に何かが引っかかるような感覚を覚えていた。
他にもケグスからの手紙が、二ヶ月前を最後に途絶えているということも気にかかる。
それまでの書簡からして連絡を取ることも出来ぬ戦場に配されているのかもしれないが、人の命運の不安定さを知るアージェは師のことが気がかりだった。彼が属しているはずのケラン同盟が、まだ大敗はしていないという情報を確認しては、いつか安否が掴めればいいと思う。
遠く離れた村に住む父は、クラリベルとの再会を喜んでくれた。
「いつか一緒にお父さんに会いに行こう」という妹の望みを叶えられるのか。ディアドである限りそれは難しいと分かっていても、彼はふとそのことについて考える。
変わっていくものと、変わらざるもの。
大陸の歴史を貫いて存する国の中枢で、一人己の役目を果たし続ける青年は、誰よりも主人である女を待っていた。

賑やかな通りを離れた彼は、散歩がてら閑静な地区に足を踏み入れる。
ケレスメンティアの城都は、坂の上方に貴族たちの屋敷があり、下に行くほど雰囲気は庶民的なものになっていくのだが、彼はまだその隅々まで見て回ったことがなかった。小さな石造りの家が建ち並ぶ細い坂道を、アージェは目的もなく下っていく。
穏やかな陽気。涼しい空気にも大分慣れてきた。ただ一生をこの国で過ごすのかというとまだ実感が沸かない。青年は手をかざし空の日を仰ぐ。
その時、不意に近くで物が落ちるような音がした。彼が振り返ると女が一人、抱えていた本を数冊石畳の上に落としてしまったようである。
アージェは歩み寄り、拾うのを手伝ってやった。重ねた本を差し出すと、若い女は「ありがとう」と笑う。
彼は会釈で返して、だがすぐあることに気付いた。
「っと、これじゃまた落しちゃうか?」
「ああ……」
本を差し出したのはいいが、全部で十冊以上ある本はそれぞれが厚い装丁を持っており、重さだけでも普通の女の手には余るだろう。
アージェは女の腕の中から更に数冊を引き取った。
「手伝うよ。図書館? 家?」
「あ、家に。すぐそこなの。ありがとう」
女は恐縮したように頭を下げたが、特に急いでいるわけでもない。
彼女と並んで歩き出したアージェは、本の題名に目を落としてその難解さに驚いた。
「ケレスメンティアの歴史について調べてるのか。国外からの研究者?」
「あ、ううん。五年前によそから移住してきたんだけど、折角だから色々知っておこうと思って」
「勉強熱心だね。俺も他国出身だけど面倒」
第一このような本、彼の知識では読むだけでも非常に時間がかかる。
かつてアージェは一通りカタリナから読み書きを教えてもらったのだが、難解な研究書はやはり彼にとってはすらすらと読めるものではなかった。おそらく大抵の平民もそうであろう。青年は見知らぬ女を感心の目で眺める。
女性にしては長身の彼女は、困ったように微笑んだ。
「あなたは神兵?」
「一応騎士。所属としては」
彼の服装は平服だが、体つきと護身用の剣などからして見る人間が見れば分かるようである。
戦闘職の人間と言えば騎士か神兵がほとんどで、ケレスメンティアには傭兵がいない。雇う人間がいないからだ。
女はアージェの肯定にくすくすと笑った。
「騎士がこんな時間に街にいていいの?」
「んー。休暇になった。訓練場にいっても今日は相手がいないし。俺がまだ他の人の顔覚えてないってのもある」
「新米さんなんだ。頑張って」
女の目には、彼は駆け出しの見習い騎士にでも見えるらしい。
年齢からしてそう思われることは無理もないのだろうが、ある意味真である意味間違っている感想に、アージェは笑ってしまった。
不思議そうな目を向けられると、彼は当たり障りなく返す。
「俺、正統な修行積んで騎士になったわけじゃないからさ。分からないこと多くて困る」
「誰も教えてくれないの?」
「教えてくれる人間は教え方が意味分からないし、他の人間には避けられてる。まぁ大したことじゃないけどさ」
肩を竦める青年に、女は神妙な表情になった。
だがそれも一瞬のことで、彼女はすぐに「あ、そこの家」と目線で指す。
建ち並ぶ他の家と同じく石で出来た灰色の家は、二階建てのこじんまりとしたものだったが、綺麗に整えられているようだった。
あちこちに花や色布が飾られ、平民の家にしては何処か洗練された空気を感じさせる。
男の靴が玄関先に干されているところを見ると、夫か兄と暮らしているのかもしれない。
女は小走りで扉の鍵を開け、すぐそこにあった台に本を乗せると、アージェの手からも本を引き取った。
軽く挨拶をして立ち去ろうとする青年を、彼女は思案顔になると呼び止める。
「ね、あなた」
「うん?」
「もし騎士の剣技が分からなくて困ってるんだったら、私が教えてあげられるかも」
「へ?」
「あ、私、小さい頃から周りに騎士を沢山見てきてたの。だから、多分普通の騎士よりも教え方は分かってると思う」
意外な申し出にアージェは言葉を失くす。
立ち振る舞いから上流の出ではないかと思った女だが、そう言うのなら元は騎士の家系の令嬢なのかもしれない。
どう返事をするべきか、すぐには判断をつけられないアージェに女は笑った。
「ちょっとしたお礼。私はどっちでもいいから。困ったら訪ねて来て」
「あ、うん。ありがとう」
女は手を振り、アージェはそれに返して彼女の家の前を離れる。
徐々に高くなっていく日。時刻はいつの間にか昼近くなっていた。



日が落ちきってしまうまでには城に戻ろうと思っていた彼だが、城都全体をおおまかに歩いてみようとしたところ、存外時間がかかってしまった。
まだ足を踏み入れていない地区が多いにもかかわらず、辺りはすっかり黄昏時である。
昼食をそうしたように、このまま夕食も何処か適当なところで取ろうと考えたアージェは、遠目に様々な色の明かりが集まっている場所を見つけて足を向けた。
客引きの明かりからして店が密集している場所なのだろうが、中に食堂か酒場が混ざっているかもしれない。
薄暗い路地を歩いていく彼に、だが近くの角から女の声がかかる。
「ねぇ、あなた」
生温かい夜風のように耳をくすぐる声。
アージェが振り返ると道の角には、白いヴェールを被った女が立っていた。
夜着に似た薄布の衣装に紅色の帯。片耳だけの大きな輪飾りは、大陸の何処にでもいる娼婦たちのものだ。
何処か品を感じさせる美しい顔立ちに鮮やかな紅を引いた女は、嫣然と笑って彼を手招く。
「店を探してるの?」
「食事をするところを。女は買わない」
「食べさせてあげる。いらっしゃい」
「俺の話聞いてた?」
呆れて返すと、女はころころと笑う。彼女は優美な仕草で白い被り布を取り去った。
そうして顕になった髪色に、青年は一瞬息を飲む。
―――― 眩い陽光をそのまま形にしたような長い髪。それはレアリアと同じ色だ。
アージェの驚きを感じ取ったのか、女はゆっくりと彼の目の前まで歩いてきた。白い手が頬に伸ばされる。
「お若い騎士さん。朝までなんて言わないわ。少しだけ遊びましょう」
頬から首筋をなぞる指。女はもう片方の手で彼の襟元を掴んで引いた。
身長差を埋めるよう暗に要求する仕草に、彼は顔を顰めて応える。
女は目を閉じて唇を寄せた。胸に溜まるような甘い香り。元からあまり好きではないそれに青年は息を止める。
そして彼は、女の顎を手で掴んだ。
「で、あんた何者だ?」
ぞんざいな問い。男に口付ける寸前で顔を引き剥がされた女は目を丸くした。
何を失敗したのか分かってないらしき彼女に、アージェは簡単に説明してやる。
「あのな、本物の娼婦ってのは剣を佩いた人間に初対面で口付けないんだよ。
 薬盛られる可能性を客は嫌がるから。暗黙の了解ってやつ」
「……そうなんですか?」
「そう。あと俺を騎士って見抜くのも変だろ。
 昼間出会った別の人は、俺のこと神兵かって聞いたよ。そっちのが普通」
娼婦を装うにしては穴だらけの女は、青い目をまたたかせた。だがすぐに納得の顔で頷く。
「知りませんでした。そうか……あなたそれがおかしいって思ったからわたしを試したんですね?」
「俺がディアドだって知ってて来てるんだろ? 何者だよ」
その答は、おおよそ見当がついている。
つく為の溜息を用意する青年に、女は邪気のない笑顔を見せた。
「わたしの名前はベルラ・ディマ。かつては陛下の身代わりを務めていた女です。
 シンがね、あなたの子供を身篭って来いっていうから来たんですよ」
「帰れ」
溜息よりも先にそう返して、アージェは脱力感にがっくりと頭を垂れた。