緩衝の手 154

ベルラという名の女は、やはり本来は貴族の人間らしい。
耳飾を外して紺の外衣を羽織った彼女は、化粧が婀娜めいていることを除けばやはり娼婦には見えなかった。
帰ろうとしない彼女に取り付かれ、仕方なく以前エヴェンに連れられてきた食堂に入ったアージェは、店の娘に個室を頼んでそこで夕食を取ることにする。
平民の食べる料理など名前も知らないらしいベルラは、アージェが適当に注文をしている間、感心したような目でそれを眺めていた。
注文を確認して娘が出て行くと、青年は女に向き直る。
「で、シンの仕業だって?」
「わたしに要請を出してきたのは彼ですね」
「俺が今日一日休みになったのもそのせい?」
だとすれば、親衛隊もこの一件に絡んでいるということである。
もしそうだったらエヴェンを殴ってやろうと考えるアージェに、ベルラは「さあ……」と首を傾げた。
「誰が関わっているかまでは知りません。私のところに来たものも要請書と衣装一式だけですし」
「だからあんな穴だらけだったのか」
「次は別の者が上手くやるんじゃないでしょうか」
「次はない。俺、基本的に目の前で避妊薬飲んでもらうことにしてるから。シンに無駄だって言っといて」
忌々しさ一杯で釘を刺すと、ベルラは「用心深いですね」と首を竦める。
「その用心深さはあなたが異能者であるからですか」
「遺伝するって聞いたら普通用心するだろ」
もっとも彼はケレスメンティアに来てから娼館に足を踏み入れたことがない。
今回の一件により多分今後も訪れることはしないだろう。青年はテーブルに頬杖をつく。
「大体シンには言ったけど、俺、この国のこういうところ嫌いなんだよ。なりふり構わないっていうかさ。
 もうちょっと常識的に動けないのか? ご大層な信仰に傷がつくだろ」
「そうでしょうか。信仰の前には肉体のことなど卑小なる問題ではありませんか?
 物質に拘らず行動出来るということは、むしろ喜ばしいことかと思いますが」
「……あんたとは一生分かりあえなそうな気がするな」
「わたしはあなたの花嫁候補でもあったのですが、残念ですね」
大して残念そうでもなく言い切った女は、髪色と体格は確かにレアリアとよく似ている。
これならヴェールで顔を隠してしまえば、ほとんどの人間は見破れないだろう。
となればおそらくベルラは以前からアージェのことを聞いていたに違いない。
かつてレアリアが言っていた「私と似ている子」―――― アージェに会いに来る間、女皇の代わりを務めていたのが彼女なのだ。
そうと分かってしまうと理由の分からぬ気まずさが沸いてきて、青年は苦虫を噛み潰したかのような表情になる。
ベルラは平然と彼を見返した。
「大体あなたに信仰心がないらしいことはよく分かりましたが、義務くらい果たしてはどうですか?
 そうすれば神もあなたの残念な精神を許容してくださるかもしれません」
「残念な精神ってなんだよ。そっちの方がよっぽど残念だろ」
「見解に相違があるようですね」
「あるからこのまま決裂したい感じだな」
冗談で言っているのならよかったのだが、女の表情を見るだにどうやら本気のようである。
アージェはせめて矛先を逸らしてみようと試みた。
「じゃあ信仰心がある他の奴らにやらせろよ。ミルザとかザルムシスとか」
「十六歳の妹に後継への責任を押し付けようとはいい度胸です。
 あ、ザルムシスはあなたのおかげですっかり気の抜けた性格になってしまいましたよ。
 今では屋敷を抜け出して辺りを彷徨っていることもあるとか」
「へぇ……」
その話は意外だが、罪悪感を覚えるという程ではない。むしろ自業自得の領域だろう。
アージェは何か感想を述べようとしたが、そこでちょうど料理が運ばれてきた。
よい香りをさせている大皿料理が三つ。青年はきょとんとしているベルラを置いて小皿を受け取ると、料理を取り分ける。
女は自分の分を差し出されると、不思議そうにアージェを見た。
「食べてもよいのですか?」
「食べれば?」
何を聞くのかと思いつつ彼が食事を始めると、彼女は恐る恐る取り分けられた料理に手をつけた。青色の目が丸くなる。
「美味しいです」
「エヴェンにそう言ってやれば? この店俺に教えたのあいつだし」
「あの人は不心得者なので好きではありません」
「それも言ってやれば?」
「もう十年以上言っています」
調子の掴めない相手と食事をすることは、料理の味を三割ほどは損なってしまう気がする。
アージェは目の前の女のことを意識から締め出すと、しばらくの間食べることに集中した。

食べる速度は全然違う二人だが、食べられる量も異なるからして、無言での食事はおおよそ同時に一段落ついた。
アージェはお茶を飲みながら、外見が人形的なレアリアと違って中身が人形のような女を眺める。
「大体一族の若い奴ってのが、本当に若いのしかいないのが問題なんだよな」
「あなたの残念さが一番問題だと思うのですが」
「……もうさ、ネイに言えよ」
この一件に関しては、そろそろ嫌気が差している。
アージェは、本気で出奔した男に後継を作らせろとまでは思っていなかったが、少しくらいは標的になればいいとその名を口にした。
女の動きが止まる。
「ネイは、いませんよ」
「帰ってきてるよ。こないだ城都で会った。……今は何処にいるか知らないけどさ」
何しろルクレツィアと一緒だったのだ。何処へでも、別の大陸にでさえ自由に行くことが出来るだろう。
そう付け足しておくべきかアージェが口を開きかけた時、だがテーブルは大きく揺れる。
一瞬浮き上がった皿。それはベルラが拳でテーブルを叩いたが為のものだった。
「あの腰抜け……どの面下げて帰ってきやがりましたか」
「…………」
「存在自体がケレスメンティアの汚点ですね。今すぐ殺してやる。何処にいるんですか?」
「いや、だから知らない……もうこの国にはいないんじゃ……」
どうやら火の粉を免れようとして要らぬ火種を撒いてしまったらしい。
アージェは、憎憎しげな表情の女から視線を逸らして、無関係であろうと試みた。しかし再びテーブルがどんと叩かれる。
「何故ですか。城都の出入りは管理されていますよ。出て行ったなら分かるはずです」
「いや、魔法士と一緒だったし。転移で出たんじゃ」
「男? 女?」
「女」
そう言った瞬間、室内の空気がより重苦しいものとなる。
アージェは遅ればせながら失敗を悟って腰を浮かしかけた。待っていても引き取り手は来ないようであるし、さっさと城に帰った方がいいだろう。
しかしベルラは見る者を凍りつかせる程の冷ややかな視線で、立ち上がろうとする青年を睨む。
「何処へ行こうというんです」
「そろそろ帰ろうかと」
「まだ話は終わってませんよ。現在のネイの特徴を教えて下さい。詳細に。手配をかけますから」
「この国ってどうしてこんな奴ばっか……」
「それ俺を混ぜて言ってないよな?」
言いながら扉を開けて入ってきたのはエヴェンである。男は、振り返ったベルラの化粧を見て呆れ顔になった。
「お前な、シンに言われたからって何でも従うなよ」
「別に従っていませんよ。私の意思です。それよりどうしてここが?」
「アージェにお前を引き取りに来いって呼び出されたんだよ」
「え?」
ずっと一緒に行動していたはずの青年がいつそのような呼び出しをかけていたのか。
アージェは溜息をついて女の疑問に答えてやった。
「この店、エヴェンの紹介って言っただろ。席に案内される時に店の子に伝言を頼んだんだよ。
 あんたは物珍しさにきょろきょろしてたから気付かなかったみたいだけどさ」
「そういうこと」
急に呼び出されたエヴェンはまだ騎士の制服のままである。おそらく屋敷に帰ってすぐ伝言を聞き、ここまで来たのだろう。
男は「酒飲みたい」とぼやきながらベルラの体を肩に担ぎ上げた。ばたばたと手足を暴れさせる女を確保して、アージェを見やる。
「悪かったな」
「エヴェンはこの件知らなかったのか。休み回してくるからぐるかと思ってた」
「無関係だ。お前を休みにしたってのはシンに伝えたけどな」
「休暇も休んだ気にならないんだけど」
「悪かった」
エヴェンは「この女を家に返して俺も帰る」と言って去っていった。
アージェはお茶を一杯飲みなおすと自分も席を立つ。
代金はどうやらエヴェンが払って行ってくれたらしい。詫びのつもりなのかもしれないが、彼も間接的に巻き込まれた立場であろう。
アージェはすっかり日も暮れた坂道を城に向かって上りながら、休暇らしくない休暇を振り返った。
「ネイは……まぁ自業自得でいいか。肌の色変わってるみたいだし。頑張って生き延びろよ」
これで選択肢が増えて、アージェ自身への攻勢が緩むならそれはそれでありがたい。
ディアドの青年は薄情にもそう割り切ると、一日の記憶を振り切るように足早に城へと帰った。






翌日、女皇は完全には回復しきらなかったが、自室で執務を行えるまでには体力が戻ったらしい。
昨日のことが彼女にまで伝わったのか「今日こそ本当に休暇で」と伝えられたアージェは、挨拶だけはしておこうと主人の部屋を訪ねる。
寝台の上に体を起こしていた女は、彼が部屋の入り口で一礼すると、胡乱な目を返した。
逆光になっていて表情のよく分からぬ女皇。彼の主人は、苦笑混じりの声をかけてくる。
「律儀なことだな。折角の休日だ。休んでいればよかろうに」
「これから休ませて頂く予定です」
「シンとベルラには注意しておいた」
「そうですか」
やはりクレメンシェトラにまで伝わっていたのか、とアージェは溜息を飲み込んだ。
ならばネイについても彼女は知っているのか。もしレアリアがそれを知ったらどのような顔をするのか、彼には少し気にかかる。
アージェは懐から小さな包みを取り出すと、それを近くのテーブルに置いた。
「何だ?」
「土産物です。休みを頂いたので行動証明として」
女は何も言わない。
青年はもう一度一礼すると部屋を出た。そうして長い廊下を歩きながら、ふと首を傾げる。
「何か……気のせいか?」
正体の知れぬ違和感。だがそれを口にしてもなお、何が違和感であるのか分からない。
アージェは何度か首を捻ると、考えることを諦め訓練場へと向かったのだった。



白い手が、包みをそっと解いていく。
中から現れたものは小さな花籠だ。慎ましく愛らしい青い花が、銀の籠を飾っている。
女は瞬間息を止め、その贈り物に見入った。落ちていくしかない呟きが籠の中に吸い込まれる。
「アージェ」
過ぎ去った時間。叶えたい望みは、まだ先のことだ。
彼女は震える手で花籠を胸に押し戴き目を閉じた。己が選んだ道の終わりを思う。

そして女皇は青い花籠を硝子戸棚の中にしまうと、寝台に戻り新たな執務を始めた。