神の憧憬 155

切り立った崖。見事な断崖絶壁の前には、灰色の海が果てしなく広がっていた。
荒波が岩壁に打ち寄せ、白い波頭が絶え間なく砕け散る荒涼とした景色。甘さも弱さも介在せぬ光景を、少女は空中から見下ろす。
遥か高みから垂直に海中へと伸びる崖は、見渡す限りその全面が真っ黒に変色していた。
裏側の岩山部分とは異なるその色は、かつて神の槍に焼き切られた跡と言われている。
大陸に残された謎の一つ。少女は金色の瞳で焦げた岸壁を眺めた。
―――― 確認すべきは複数の位階における座標である。
杭打つにはそれが肝要で、失敗しては歪みが生じてしまう。
だが少女はまったく緊張を窺わせることなく右手を天に向けた。五本の指それぞれに構成が宿る。
一つ一つが途方もなく複雑な構成。それは、人の知り得ぬ法則を使ったものだ。
単独では意味のないそれらは五つ絡み合うことで力を得、そしてお互いに干渉しながら少しずつ朽ちていく。
少女は右手を軽く見上げた。
「この規模じゃ持って五十年かしら。まぁ上等よね」
変革に立ち会う為やって来た女。
神の娘ルクレツィアはそう嘯くと、微笑みながら海中に向けて右手を振り下ろした。






かつて一つであった大陸は、古の時、神代の終わりに、神々自身の手により分割された。
神の槍によって切り分けられた大陸。五つに割られたそれらを、伝承では五人の神々がそれぞれ得て広い海の各所に散っていったという。
あちこちの遺跡から記述が見つかっているこの大陸分割神話を、しかし実際知っている者は、大陸では決して多くない。
もっと言うならば、大陸主神であるディテル神への信仰自体も全域に浸透してはいるが、その細かい信条まで知っている者は極々一部に限られていた。
彼らは学者や伝承者、熱心な信仰者と教養ある上流階級の者たちなどであり、それ以外の者たちは多くがディテル神のことを「畏れ敬うべき守り神」として曖昧に捉えているのみである。
或いは神をどのような存在として見ているのか、そこにその人間の思想が反映されているのだと看做すことも出来るだろう。
尊ぶのか、否定するのか、祈りを捧ぐのか。
少なくとも神の国と言われ、長き平穏を与えられた皇国ケレスメンティアの民たちは、その大半がディテル神への深い信仰心を抱いていた。



「あ、本当に重婚が禁止されてない」
「法では禁止されている。聖典にないのは、編纂された当時は人口が少なかったからだそうだ」
「人増やさなきゃいけなかったからか。それでいいのか?」
素朴な疑問を抱いて教師役の少女を見たアージェは、次の瞬間「不信心者め!」と怒られた。
休憩時間に異母兄への講師役を務めている少女は、腕組みをして青年を睨む。
「聖典に書いていないからやってもいいなどというのは悪辣な下衆の思考だ。
 そのようなことを言うならば、全てを事細かに禁じておかねばならないだろう。聖典の厚さがどれほどになると思っている!」
「実際、人を殺すなとか書いてないしな。殺してもよさそうだしな」
「口を慎め、兄!」
投げつけられたペンを、アージェは顔の前で受け止めた。隣を見るとクラリベルが唖然とした表情で固まっている。
「クラリベルに当たったらどうするんだよ。気をつけろ」
「そう思うのなら兄が発言に気をつけろ」
ミルザは傲然とそう言い捨てると、ぎこちない笑みを作ってクラリベルを見た。

ケレスメンティア城内にある小さな会議室。
そこでディテル神信仰について簡単な講義が行われるに至った経緯は、極めて単純なものである。
すなわちディアドとして聖句を暗記しているアージェが、本当にただ言葉を暗記しているだけで、その意味をまったく理解していないことをミルザが知ったのだ。
常日頃から兄が異端視されていることを気にしていた少女は、それを知って「もっと基本的なことを学ぶべきだ!」と主張した。
そうなると途端に行動力を発揮する少女は、他国出身のクラリベルも誘い、アージェを無理矢理連行すると講義を開始したのである。
教材として二人に手渡された聖典には、主に神代の出来事や神の言葉が書かれており、その中には信仰者の行動の規範となる信条も含まれていた。
「神を敬うこと」「生を尊ぶこと」「意思を強く持つこと」から始まって平易な文で続いていくそれらを、青年は据わった目で眺める。
「何かこれって……余計なお世話だよな」
「兄!」
当然のように飛んでくる怒声を気にもかけず、アージェはぱらぱらと聖典を捲る。
隣にいるクラリベルが険悪な空気を和らげようと思ったのか、遠慮がちに手を上げた。
「あ、あの、ちょっと質問してもいいですか?」
「な、なんだろう。言ってみて欲しい」
二人の少女はどうにも、お互いの距離感を掴みかねているらしい。
それでも何とか歩み寄ろうとしている彼女たちを、アージェは口出しせずに眺めた。クラリベルはおずおずと問う。
「私の村だと、神様ってもっと怖い印象を持たれてるんです。
 こう、怒らせちゃ駄目とか……、厳しいご主人様みたいな感じで」
それはアージェも同様に持っていた印象だ。
大陸の何処にでもあるディテル神信仰は、彼らの村では小さな石碑として存在しているが、その石碑は立ち入りを禁じられた森の入り口に立っていたこともあり、村人たちには禁忌と畏れの象徴として捉えられていたのだ。
勿論、ディテル神のおかげで今の世があり自分たちが暮らしていけるのだという意識は、信仰を持つ村人の中には根付いていた。
だが神は、少なくとも彼らの村においては無条件に慈悲深い存在とは思われていなかったのだ。
クラリベルは聖典を開きつつ、疑問に思った箇所を指でなぞる。
「でもこの聖典を見ると、大分印象が違ってて……。ディテル神様って、これだと凄く人間を気に掛けてくれてますよね。
 大陸のあちこちを均して、人が住めるようにしてくれて。
 王になる人を選んで国を作らせたのもそうですし、優れた王様とか、すごい人を選んで神具をくれたりもしてる。
 そうやって手を尽くしてくれてるのに、人間は愚かだから神様の期待に応えられずに争ってばかりいる……って話ですよね、つまり」
「確かに、現状は神の御心に応えられているとは言えないな」
クラリベルは学のない少女ではあるが、頭が悪いわけではない。
その彼女が一生懸命伝えようとする疑問に、ミルザは真剣な顔で頷いた。
「我が国は女皇陛下がいらっしゃる上に民の信仰も篤い。
 他国と同様に貴族や地方領主も存在しているが、みな己の分を守っている。
 こうして人々が正しく生きていくことこそが平和に繋がり、神の御心に叶うことではあるが、残念ながら他の国々にはそのような芯がない。
 おそらく彼らには、目に見える豊かさこそが芯に思えてしまうのだろう。他者のそれを奪おうと相争う」
「じゃあ、そうなってしまうのって、私たちの無知が原因なんでしょうか」
クラリベルは、自分の思う神の姿と聖典における印象があまりにも違うことに、訝しさに似た不安を抱いているらしい。
それだけではなく村から出て世間を見た彼女は、短い期間とは言え、戦乱に悩まされる地域と安定したケレスメンティアの違いをも感じ取ったのだろう。どうしてそのような差異が生まれるのか、その理由を自分なりに考えようとしているようだった。
ミルザはすぐには答えず、テーブルについた両手の指の上に顎を乗せる。
「それも関係なくはない、と思う。だが神は、民草の無知を罪とは仰っていないのだ。
 それは進歩の余地があるという点で人の美徳でもあるだろう? むしろ問題であるのは権力者の方だ」
「王様とかですか?」
「ああ。かつての王たちは神がお選びになった人間たちであったが、彼らの血脈も絶えて久しい。
 今いるほとんどの権力者たちは、己の卑小な野心によって立ったただの人間たちだ。
 これでは民や国が進むべき道を見失い、迷うのもいたしかたないだろう。
 野心家たちは自らの正当性を主張出来ぬ代わりに、選出者の伝承を偽りだと貶めることさえするのだからな」
「……あれは普通眉唾って思うだろ」
はたで聞いていたアージェが口を挟むと、ミルザはじろりと睨んでくる。
てっきり怒鳴られるのかと彼は予想していたのだが、少女は溜息をついただけだった。
「継承者である兄自身がそのようなことを言ってはいけない。
 私たちのような人間がいること自体、あの伝承が真実であることの証明ではないか」
「そうか? カルディアスはちゃんとした選出者じゃないし、神具があるわけでもない。
 ディアドの存在自体きちんと知られてるわけじゃないんだし、それだけじゃ伝説が本当かどうか分からないだろ」
―――― 実のところ、他国のほとんどの人間は「ディアドが神代より伝わる血筋の異能者」であることも知らないのだ。
彼らは女皇の騎士の存在自体を知らないか、知っていても「特定の騎士の家系」から専属騎士が選出されるだけだと思っている。
他国にいながらディアドが異能者であることを知っている者は、権力者の他には耳聡い魔法士やケレスメンティアの歴史に詳しい学者たちくらいであろう。更に「ディアドがどのような異能者なのか」を知っている者となれば、その数はほんの一握りだ。
ケレスメンティアの人間であっても、平民たちなどはディアドが異能者であることを知らない以上、ミルザの言い分は外には通用しないものである。彼女自身もそのことに気づいたのか、ぶすっとした顔になった。
「だが、兄。私は―――― 」
「言いたいことは分かる」
アージェはそこで立ち上がる。休憩時間の終わりが近づいてきたのだ。
彼は自分を見上げてくる妹たちのうち、隣にいたクラリベルの頭を撫でた。
「無理するなよ。話半分で聞いとけばいいから」
「アージェ」
「兄! 邪魔をするな!」
テーブルを回って食いついてきそうなミルザを避け、青年は扉へと向かう。
廊下に半歩踏み出したところで、彼は振り返ってクラリベルを見た。
「クラリベル、余計なことをミルザに話すなよ」
「余計なことって?」
「子供の頃の話とか」
そのようなことを知られてしまえば、嫌な未来しか想像出来なくなる。
真面目に釘を差す青年に、クラリベルはきょとんとしたが、すぐに声を上げて笑い出した。
ミルザもミルザで不敵な微笑になる。
「それは面白そうだな」
「余計なことを聞いたらお前の話もルゴーに聞いて広めてやる」
「何だそれは!」
少女の怒声を、アージェは背後で扉を閉め遮った。廊下に出てから数秒後、会議室からは二人の弾けるような笑声が聞こえてくる。
まったく共通点のない彼女たちが何をそれ程笑っているのか、彼は疑問に思いながらも歩き出した。
よく磨かれた廊下を行く道すがら、ふと聖典の中の一節が脳裏に甦る。
「人々を束ね、守り、戦え、か」
それはディテル神が、選出者たちにかけたとされる言葉だ。
今は昔。真偽も分からぬ伝説。
だがアージェはその命に何処となく釈然としないものを覚えて、顰めてしまった顔のまま主人の待つ執務室へと向かったのだった。