神の憧憬 156

女皇の執務室にアージェが入室した時、彼女は椅子に深く腰を掛けて半ば目を閉じているようだった。
眠っているのかと思い足音を消して歩み寄ると、クレメンシェトラは薄く瞼を上げる。
「……お前か」
「お疲れですか」
「いや」
気だるげに髪をかき上げた彼女は、体を起こすと途中のままの書類に向かった。ペンを取り目を走らせる。
「体調が悪いというほどではないのだ。ただここしばらく眠気が酷くてな」
「それを体調が悪いというのでは?」
「悪くない。少しぼんやりしているだけだ」
何でもない、とむきになって言い張るクレメンシェトラをアージェは感情のない目で観察した。
確かに顔色は普通であるが、何処となく一つ一つの仕草が鈍い気もする。
三週間近く前にアージェが不調に気付いて休ませた時程ではないが、まだあの時の朦朧を引き摺っているのかもしれない。
彼女は書類を読み終わると小さく息をついた。
「このような時でも面倒事は待ってはくれぬものだな」
「何かありましたか?」
「トライン領の領主が独自に軍備を強化し始めているらしい。領主の息子が先導しているようだが」
アージェはそれを聞いて頭の中に国内地図を広げた。
大陸北東部に位置する皇国ケレスメンティア。
トライン領はその国土の中でも南西の約四分の一を占めており、ケレスメンティアに三つある臣下領の中では最大の広さを持っている。
元々はトラインという名の小国であったこの土地は、約三百二十年前に国王の決定によって国ごとケレスメンティアの支配下に下り、神の国の一領地となった。当時の王は女皇によってそのまま領主として任ぜられ、彼の息子は皇配になったと記録されている。
国土のほとんどが岩山に囲まれ、その内側も緩やかな斜面から成るケレスメンティアの中で、しかしトライン領は元は別の国であった為か、平らで肥沃な土地を持っていた。その代わり領地内では魔法具の核となる空結石は産出されず、国境に大きく面している為、有事の際の責任は重い。領土全体を石の防壁で囲んであるのも、万が一の時、侵攻に対する最初の盾となる為のものであろう。
ただケレスメンティアが外敵の侵攻を受けたことは、長い歴史において一度もない。
その為トライン領もまた、長らく平穏の中に存在していた……はずであった。
―――― にもかかわらず何故今、一領土が独自に軍備を強化しているのか。
壁際に立つアージェは、渋面の主人を眺めた。
「大陸情勢が不安定だから、国境防備を強化するつもりなのではないですか?
 コダリスやイクレム周辺はますます緊張が高まっているようですし、ケランら小国たちも蠕動している」
「だとしても独断でやる意味が分からぬ。何があろうとも動くのはまず国軍だ。
 国内には大規模移動用の転移陣が配されているのだし、いくら国境に面しているといってもそこまで大きな軍備は必要ない」
「なら叛乱するつもりだとか」
「…………」
アージェの意見は、この大陸において諸国を渡ってきた者としては至極一般的なものである。
多大に費用のかかる軍備の増強など気紛れにやれるものではない。攻め込む予定か、攻め込まれる危険があるからこそやるのだ。
しかし大陸の常識が通用しないのが、ケレスメンティアという国でもある。クレメンシェトラは呆れ顔で青年を見た。
「そのようなことがあるわけがない。元は別の国とは言え、トラインは確かにこの国の一部だ」
「そうですか?」
「そうだ。そのようなことを他で言うなよ。またお前が睨まれる」
宮廷の異端児であることに慣れきっているアージェは、主人の言葉に肯定を返さなかった。
クレメンシェトラはこれ以上の平行線を避けたいと思ったのか、話題を変える。
「そういえば妹の誕生日が近づいているのだったか?」
「よくご存じですね」
「エヴェンが言っていた。仲がいいようだな、あの二人」
「エヴェンを始末してきます」
真顔で返す騎士に、女皇はくすくすと笑った。
「だが、お前はエヴェンに勝てぬのだろう?」
「…………」
事実を指摘されてアージェは沈黙する。
確かに異能の力を使えばどうかは分からないが、純粋に剣技では未だエヴェンに及ばないのだ。
彼自身その実力差を何とかしたいと思っており、自由になる時間のほとんどを稽古に費やしているのであるが、今のところ肝心の結果は得られていない。
黙り込んでしまったディアドを見て、クレメンシェトラは不味いと思ったのか、いささか早口に付け足した。
「別に大したことではないのだぞ。ディアドは必ずしも一番でなければならないというわけではないからな」
「いえ、努力します」
アージェが頭を下げると、彼女は喉に何かが詰まってしまったような表情になる。
滑らかに意志の疎通が行われない場。女皇は視線を逸らして書類を見た。
「妹への贈り物で何か必要なものがあれば言ってくればいい。用意させよう」
「お気遣いありがとうございます。ですが、この間の花飾りの店に頼んでおきましたので」
「この間の?」
紫の目をまたたかせてクレメンシェトラは聞き返す。
アージェは補足を面倒に思ったが、真面目くさった顔で口を開いた。
「ご覧にならなかったのですか」
「いや……、……ああ、あの花籠か。確かによく出来ていたな」
眠気が襲ってきてたまらないという女皇は、そこで額を押さえた。白い瞼がとろりと下りる。
彼女は再び背もたれに寄りかかると、深く息を吐き出した。
「どうにもぼんやりしているようでな。すまぬ」
「お疲れならお休みになってください」
「平気だというのに」
クレメンシェトラは硝子のペン軸を握りにくそうに手の中で持ち変えた。時間をかけて読んでいた書類に走り書きをすると、それを脇に置く。
「トライン領については様子を見るが、これからの状況如何によってはお前を私の代理として視察に向かわせることもありうる。
 一応心づもりをしておいてくれ」
「かしこまりました」
彼の答でクレメンシェトラは幾分安心したのか、微笑んで目を閉じた。
そのまま眠ってしまうのではないかとアージェが観察していたところ、しかししばらくして彼女は再び机に向かう。
女皇は先程脇に置いた書類をもう一度手元に戻すと、硝子のペンを手に取り、さらさらと何かを書き足した。そうして手元を見たままアージェに命じる。
「そこでそうしていても退屈であろう? 体を動かしてくればいい」
「あなたの護衛が俺の役目です」
「あの一件以来、何処もかしこも厳重になった。少なくとも城にいる時はそこまで心配する必要もないであろう。
 こういう時間をお前も上手く使ったらどうだ? 何も今だけを見ていることはない」
彼女の言葉は、エヴェンとの実力差についての話題を引き摺っているようである。
目先の役目に拘泥せず先を見据えて腕を磨けと揶揄されているようで、アージェは眉を顰めた。美しい横顔の女は口元だけで微笑んでみせる。
「それに、お前がそこで見張っていると転寝も出来ない」
「転寝なさる方が悪いのでは?」
とりあえず嫌味で返したアージェだが、彼女の言うことにも一理あるだろう。
時計を確認した彼は、数日前から考えていたことを試してみる時かもしれない、と考えた。主人である女を見やる。
「では、数時間城を空けてもよろしいですか?」
「妹にでも会いに行くのか?」
「いえ。ちょっとした試行です」
具体的ではない返答を聞いて彼女はアージェを一瞥したが、すぐにまた書類へと視線を戻した。穏やかな声で「構わぬぞ」と許可を出す。
その言葉に甘えて、彼は一通りの手配を済ませると―――― 先日本を拾った女の家を訪ねた。



不在であったら諦めようと思っていたのだが、扉を叩いて数秒で中から人が現れた。
用のある女とは違う金髪の若い男。柔らかな物腰と中性的な顔立ちを持つ彼は、アージェを見て軽く驚いたようだった。
怪しまれる前にと、青年は用件を口にする。
「すみません。ここに住んでる女の人に、剣のことについて用があるんですが」
「ああ……君か。アナから話は聞いてるよ。ちょっと待っていて」
男はそう言って一旦引っ込んだ。おそらくアナというのが彼女の名前なのだろう。
そのまま戸口で待っていると、しばらくして先日の女性が顔を覗かせる。掃除をしていたのか両袖を捲り上げている彼女は「いらっしゃい」と快くアージェを中へ迎え入れた。
外から見る印象と同じく綺麗に整えられている室内。食卓に通された青年は彼女に謝る。
「ごめん。突然訪ねて来て」
「いいのよ。入ったばかりの騎士だと抜けてくるのも大変でしょう?」
「まぁそんな感じ」
女は彼に椅子を勧めるとお茶を淹れ始めた。平凡な一家庭の空気。久しく遠ざかっていたその中で、アージェは室内を見回す。
「ここに二人で住んでるの?」
「ええ」
「旦那は元々ケレスメンティアの人?」
「違うわ。私たち二人でこの国に来たの」
二人の髪色や顔立ちが似ていないところからして、血縁者ではないのだろうと踏んだのだが、やはり夫婦であったらしい。
納得して頷く青年は、ふと壁の一点で目を留めた。そこには童話の一場面のような絵がかかっている。
森を背景に白い服を着た少女が、透明な冠を拾い上げている絵。
愛らしい一枚でありながら、何処か見る人間を引きこむような奥行きを持っているそれを、青年は見つめた。
かたりと音がして、テーブルにお茶のカップが置かれる。
「それ、あの人が描いたのよ」
「凄い」
夫への純粋な賛辞に、アナは嬉しそうに微笑んだ。
レアリアよりも年上であろう彼女は、そうして幸福そうな笑顔の上に、けれど一抹の郷愁を漂わせる。
「この国に来て不自由なこともいっぱいあるけれど、逆に自由になったこともあるの」
変化したものを思う述懐。それは、自由に絵が描けるということなのだろうか。或いは自らの手で自らのことを出来るということなのかもしれない。
アージェは、上流の出ではないかと思しき若夫婦が、駆け落ちか何かでケレスメンティアに来たのではないかと推察した。
何処か過去を見るような目で少女の絵を見ていたアナは、不意に我に返ると苦笑する。
「そんなことはどうでもよくって。ええと、私のところに来たってことはやっぱり」
「うん」
波紋一つないお茶の表面。彼はそこから視線を上げると、真っ直ぐに女を見た。
「俺にちょっと騎士の剣について教えて欲しい」