神の憧憬 157

アージェの頼みを聞いたアナは、「ちょっと待ってて」と言って席を外すと、数分後に着替えて戻ってきた。
掃除をしていた平服とは違うその姿を見て、アージェは驚く。
丈夫な麻で出来た上下に皮の胸当て。あちこちを細い革紐で縛ってあるのは動きやすいようにだろう。
栗色の髪も革紐で束ねている彼女に、青年は唖然として声をかけた。
「その格好、何か訓練着みたいなんだけど」
「うん。実際動きを見ないと分からないから。ちょっと裏に行きましょう」
アナは当然のように頷くと、厨房隅にある裏口へと彼を手招いた。そこにある練習用の長剣を手に取る。
何故そのようなものが若夫婦の家庭に置いてあるのか。アージェは疑問に思ったが、口にはしなかった。青年は着替えた彼女の後姿を注視する。
「ちょっと狭いけれど、ごめんね」
そう言って裏口を開けアナが示した場所は、建ち並ぶ家によって囲まれた小さな円形の広場だった。
普段は子供たちが遊び場にでも使っているのだろう。雑草が生えている外周には、錆びた人形や木の棒などが土に塗れて転がっている。
あちこちに石が埋まり、固い土が罅割れて窪みが出来ているそこは、ひらけた空間ではあるがきちんと整備されているわけではない。
ただアージェはこれくらいの悪条件を悪条件と思ったことはなかった。もっと酷い場所で剣を振るったことは何度もある。
アナは他に人のいない広場を見回すと、練習用の剣を手にその中央に立った。
「最初に聞いておきたいんだけど、あなたの剣のことを周りの騎士は何か言っていた?」
「うーん、乱雑とか予想外とかかな」
エヴェンからは「あちこち気にせずにびしっとしろ」などと言われたりもするが、よく意味が分からない。
ただ親衛隊の他の騎士たちと手合わせをした際には、往々にして彼らは「予想がつけにくい」と感想を述べてきていた。
アナは頷く。
「騎士になる前は何をしてたの? 誰かに剣を教わったりした?」
「傭兵やってた。教えてくれたのも傭兵。細かいことは実戦に出ながら身につけていった」
「なるほどね」
彼女はそう言うと持っていた剣を鞘から抜き去った。刃を潰してあるそれを両手で持って構える。
「じゃあちょっと私と打ち合いしてみましょう」
「え? 平気? 俺、普通の剣なんだけど」
「大丈夫。いつも自分がやるようにやってみて。ただ速度と力は落として。ゆっくりと。出来る?」
「分かった」
青年が近づいてくると、アナは何かに気付いて声を漏らした。
「っと、まだ名前聞いてなかったわね。私はアナ。あなたは?」
「あー、グラフ」
ディアドである自身の名を名乗っては不味いかと、青年は咄嗟に父の名を口にした。彼女は穏やかに微笑む。
「よろしく、グラフ。―――― じゃあ、始めましょうか」
「うん」
アージェは自分も護身用の長剣を抜くと彼女に向き直った。アナが頷くのを合図として、二人はゆるやかに手合わせを始める。



日陰の広場に響く剣戟の音。
ゆったりとしたそれは、時折間隔を狭め、そしてまた間をあけながら続いていった。
アナの額に汗が滲む。彼女は真剣な目でアージェの剣から腕にかけてを捉えていたが、不意に数歩下がると片手を上げた。
「ちょっと中断」
「分かった」
アージェの方は疲れていないが、彼女は何度か息をついて呼吸を整えようとしている。
そうして調子を取り戻したらしいアナは、一旦剣を鞘に戻すと、改めて青年を見た。
「うん……多分あなた、今のままでもかなり強い方でしょう?」
「そうなのかな」
「だと思うわ。ただやっぱり、よくも悪くも癖がついてる。普通の騎士とは意識の構え方が違うっていうか……。
 それを状況に応じて調整出来れば違ってくると思うの」
「どう違ってるのか自覚がないな。どうすればいい?」
「ちょっと待ってね」
アナは言うなり自分の家の裏口に向かう。そして戸口の前にしゃがみこみ何かをすると、再び戻ってきた。
「もう一回手合わせしてみましょう」
「分かった」
彼女の狙いが何であるかは分からないが、アージェは言われた通り剣を構える。アナの剣を狙ってゆっくりと長剣を薙いだ。
一合二合と続いていく打ち合い。その途中で彼女は不意に、剣を片手に持ちかえる。
普通の女性であれば長くは持たないであろう片手持ちを、彼が怪訝に思ったのはほんの数秒間のことだ。
高い音を立てて打ち合わされた剣。お互いの刃が引かれる際に、アナは左手で何かを投げる。
アージェの斜め右側を通り抜けて転がっていくそれは、赤い影を彼の視界の隅に引いていった。
青年は振り返りたい気分を抱きつつ、打ち込まれてくる剣を受ける。間髪入れず女の声が続いた。
「止まって。動かないで」
「うん?」
刃を接触させた状態のまま二人は静止する。アナはそのままの態勢でアージェに問うた。
「今、私が投げたもの見た?」
「見た。赤い球に見えたけど」
「他には何か分かった?」
「顔が描いてあったな。子供の落書き?」
球を目で追った際に見えたものを口にすると、女は笑った。彼女は剣を引くよう指示すると自らが投げた物を拾いに行く。
それはアージェの言った通り、子供が忘れていったらしい赤い革張りの球だった。黒いペンで顔が描きこまれている。
アナは落書きの顔を青年に見せると結論を口にした。
「つまり、この顔が分かっちゃうってことがあなたの強みでもあって弱みでもあるの」



傭兵をやっていた二年間、アージェは雇われて大規模な戦場に出たこともあるが、それよりも少数で動く戦闘や護衛の依頼の方がずっと多かった。
面倒な仕事をわざわざ選んでいた彼は、戦闘の場において多対一になることも多く、足場の覚束ない場所で剣を振るったことさえある。
何があるか分からない状況で、命を賭けて戦う。―――― その経験は確かにアージェを急速に鍛え上げていった。
ただしそれは、思わぬ弊害をも彼に植え付けていったのである。

「多分、あなたが経験してきた実戦でそれが必要だったからだと思うのだけれど……あなたは戦闘中に維持している視野が普通よりも広くて強固なのよ」
「視野が強固?」
「そう。何処からか伏兵が現れないか、矢が飛んでこないか、足場が崩れないか、あなたは常に周囲に注意を払ってる。
 それはいいことなんだけど、でも時と場合によるのよね。
 そうやって意識を広げている分、目の前の敵に対してはほんの僅か、反応が鈍るわけだから。
 訓練場で試合をする時とか、周囲に気をつけなきゃいけない必要なんてほとんどないでしょう?
 でもあなたは多分、そういう時でも無意識に辺りを警戒してるんじゃないかしら。それは或る意味、枷と同じよね」
「…………」
お互い剣を収めての説明。そこで指摘された内容は、アージェ自身まったく意識していないことであった。戦闘の際、呼吸をいちいち把握していないことと同じであろう。
だが、言われてみれば思い当たることはある。
まだ剣を取り始めた少年の頃、多くを知らぬ最初の頃は、彼はもっと目前の相手だけに集中出来ていたのだ。澱を操作するだけのことにさえ、周囲を忘れ全神経を集中させなければいけなかった。
けれど何度も戦闘を経験するうち、彼はそれだけでは生き残れないと悟った。
常に周囲に気を払い、自分が不利に陥らないよう気をつけつつ、相手の意識外からの攻撃を狙うようになったのだ。
それが、彼が重ねてきた実戦で得たものであり、騎士たちをして「予想がつかない」と言わしめる戦い方なのであろう。
アージェは考えながら顎に手をかける。
「そういう癖があるのは気付かなかった。けど、これを直したら試合でしか勝てないってことにならない?」
「程度問題よ。世の中には妙に立ち回りの要領がいいって人もたまにいるけど、そういう人は最初からこの切り替えが出来てたりするの。
 私の推測だけど、あなたは全意識のうち、常に三、四割を使って周辺把握をしているみたい。
 でも初めから出来る人は、一割くらいを周辺に回して、必要になった時にだけ無意識にその割合を増やしてる。
 何処に意識を集中させればいいかが分かってるっていうか、経験とか才能とかによるんだろうけど、戦いながらでもその切り替えが瞬時に出来るの。
 だからと言って、努力すれば必ずそういうことが出来るようになるかって言ったら難しいのだろうけど」
「いや……ためになる。ありがとう」
アナの話を踏まえるなら、エヴェンなどはおそらくそういった切り替えが無意識に出来る人間なのだ。
アージェは彼女の話に納得しつつ、だがいささかの不安をも覚えていた。問題点が分かったとして、それを改善出来るのか、していいのか、判断が出来ない。
一方教師役の彼女も考え込むように、視線を宙に泳がせた。
「どう意識を切り替えるのか、実は私もちゃんと教えられる自信がないの。
 相性のいい相手と戦ったりすると、妙に引きこまれて集中出来たりするんだろうけど……」
「―――― ああ、いるな。そういう人間」
アージェはその言葉に、遺跡の奥で神具を賭けて戦った相手のことを思い出した。
セーロンの王子アリスティド。彼と剣を交えた時には、確かに途中までは妙に集中出来ていた気もする。
青年はその時のことを思い起こし、ふと己の右手を見た。今はない剣のことを想起する。
「そうか……」
必要以上に周囲を意識する癖。
それが何に起因するのかといえば、きっと始まりは「あの時」のことだ。
乱戦となった広場にて、兵士の影に潜んで敵の隙を狙った騎士。ダルトンを殺した男の姿を、アージェは今でも何処かで探し続けている。
彼はまざまざと思い出せる一瞬を前に、右手をきつく握った。
「親父さん……」
あの時のダルトンは、何を思い何を見ていたのだろう。腕に抱いた女の死を悔いていたのか。
アージェは故人の視界を思い描いて目を閉じた。
今を響く女の声が聞こえる。
「あなたのその視野の広さは強みでもあるから、多分普通の騎士相手だと思ってもみない方向から意表を突けるんだと思うわ。
 ただそれが通用しない相手もいるし、逆に意識を集中させれば、あなたは正攻法でももっと強くなれるんじゃないかと思う。
 騎士の剣っていうのは、言うなれば正面から相手を下す為に最適化された剣でもあるから……。
 ね、幾つか型を教えるからやってみない? あなたならそれを足がかりにして何か掴めるかもしれない」
アナの話を聞きながら、アージェは初めて騎士の服に袖を通した時のことを思い出していた。
騎士を嫌悪し侮蔑しながら、自らがそうなることを選んだ時のこと。
あの時彼は、確かに割り切れぬ煩悶を飲み下して、新たなる境遇を受け入れたのだ。
親しい人間たちを喪って抱いた感情を、一人の友人の為に押し殺した。
それでいいのだと思う。どちらも代わりのない彼の大切な人間だ。
そして今、ディアドがどのような存在かを理解した今であれば―――― 残る蟠りをも捨てられるのかもしれない。
力が欲しいと願うアージェは、瞼の裏に遠ざかる光景を眺める。
「俺さ、結局色んなこと考えすぎなんだよな」
「用心するのは当然のことよ。そうでなきゃ今までやってこられなかったのかもしれないんだし」
「うん。でも、いつまでもこのままじゃいられないから」
青年は握った右手を開く。
何もないそこには、けれど確かにこの時、過去の剣が握られていた。アージェはそれを手放し顔を上げる。
「騎士の型を教えて欲しい。迷惑かけて悪いけど」
「迷惑じゃないから気にしないで。私も体が鈍って動かしたかったんだけど、相手がいなくて困ってたの」
アナは困ったように微笑んだ。
おそらくは苦労を知っているのであろう女の顔は、けれど既にそれを乗り越えているようにも見える。
そうして笑って立っている人間の姿は、彼の目にはひどく眩しく映った。だが、いずれは自分もそこにたどり着けるのかもしれない。
アージェは建物に囲まれた空を見上げる。
遥か遠い有限。その下で続いていく道を思って、青年は今ある剣を固く握った。