神の憧憬 158

広い執務机の上には、懸案事項が書類となって積まれている。
ほとんどが緊急のものであるそれらを、机に向かう男は脇目もふらず目を通し、振り分け続けていた。
まずは彼自身が決定を下すものと二時間後の会議にかけるものに大別し、平行して各事案を担当するにふさわしい候補者をも選び出しておく。既に動き出しているものについては、報告を見て予算の微調整をしていった。
ここ二ヶ月程続いている激務に、けれどトライン領主ウーサンの息子、ディトーは精力的な姿勢を崩していない。
やらねばならぬことは山のようにあるのだ。
軍備の増強から始まって、耕作地や住居の確保、資源の買い上げと備蓄、人材の囲い込みや情報の統制など、一つ一つ挙げだせばきりがない。
今いる領民の生活を揺るがすことなく、更に多くの人間を受け入れる為の準備。
三百二十年前、国としての体裁を捨てケレスメンティアに寄った、その逆の流れを起こそうと、彼は必死になっていた。
扉が叩かれ、一人の文官が入ってくる。
文官は軍備費用の状況について書類を交えて報告すると、顔色の悪いディトーを心配そうに見やった。
「少しお休みになった方がよろしいのでは……」
「まだ大丈夫だ。会議が終わったら仮眠を取る。全てが動き出せば、信頼の置ける者に任せて休めるからな。
 その為にも今は動かねば」
「ですが今、あなた様に何かがありましたら」
「何があるはずもない」
ペンを置いたディトーは文官を見上げて笑う。その顔はやつれてはいたが、自信と誇りに満ちていた。
「私は大義の為に動いている。これを果たすまで倒れることはないさ」
男は書類を受け取ると末尾に署名を加える。それを受け取った文官が恐縮して退出すると、彼は引き出しから一通の書簡を取り出した。紙に押されたケレスメンティアの紋章。女皇から送られてきた書面を、ディトーは見つめる。
「ディアドの視察か。早ければそろそろ来る頃だろう」
彼は文面を最初から最後までもう一度読み直した。
そうして深い溜息と共に椅子を立つと、男は主君より届けられたそれを、燃え盛る燭台の上にそっとかざしたのである。






教えを請うてから一月程。アージェの教師役を担うアナは、「教えることは普通の騎士より分かっている」と言うだけあって、何をどうやればどういう効果をもたらすのかよく分かっているようであった。多くの騎士たちが修めるという型を必要なものだけ抜き出して彼に伝え、二人はそれを元にして応用の手合わせをする。
先入観なく一つ一つの動きを丁寧になぞってみるという過程は、アージェに読み書きを習った昔のことを思い出させた。
そうした稽古を重ねるうち、彼は自分でも「何が無駄で、どうそれを省けばいいのか」が分かり始める。
「ちょっと本気で誰かと手合わせしてみたいな」
いつも通り型を確認し、軽い打ち合いを終えた後の広場。アージェは休んでいるアナを見てふと洩らした。
壁際の椅子に座る彼女は、首筋の汗を拭って苦笑する。
「多分、私とじゃ無理ね。すぐ負けちゃう」
「ちょうどいい相手が城にいるんだよ。私的にも勝っておきたい奴が」
「私的にも? 何で?」
「妹と仲がいいから」
正直なところを口にすると、アナはぷっと噴き出した。
「何それ。何か駄目なの?」
「別に。女癖悪くて有名な奴ってくらい」
「あはは。でも、確かにそろそろ私の教えられることは一通り伝え終わったかしら。
 後はちゃんとした騎士と手合わせして、相手の動きをよく見ればいいわ。
 他人の長所や短所が分かれば自分にも得るものがあるし。そうやってあなたはあなたの剣を確立すればいいの」
彼女は家の壁に立てかけてある自分の長剣を振り返った。
過去を懐かしむだけではない、今を思う目。アージェは女の横顔を見て、言おうかどうか迷っていたことを口にする。
「アナもさ、本当は騎士だったんだろ?」
「…………」
騎士を間近に見てきたという彼女。だが、それだけでは到底ここまで彼の相手をすることは出来なかっただろう。
筋力からして彼女は普通の女性とは違う。おそらく彼女自身が正統な騎士の剣を修めた人間だったのだ。
指摘を受けたアナは、アージェを見上げると肩を竦めた。
「分かってしまう?」
「実は最初に着替えたのを見た時から。稽古着着てると筋肉のつき方とか分かるからさ。
 歩き方とかでも少し分かる。俺、傭兵やってた分、そういうの敏感なんだ」
「そっか……そうよね」
気まずげに微苦笑した彼女は、その時まるでただの少女のように見えた。皮袋を嵌めた両手が、節くれだって長い指を組む。
彼女は擦り切れかけた指先に、労わるが如き視線を落とした。
「私は、ほんの子供の頃から必死で剣を振っていたわ。手の皮が破れて血が滲んでも、何度も、何百回も。
 どうしても騎士になりたくて、女だって不利をなくそうと足掻いてた。
 だからよく他の騎士たちの動きを観察していたし、どうすれば彼らに勝てるかって散々考えたの。
 そうやって拘る私に周囲はいい顔しなかったけど……どうしても力が必要だった」
身体的な不利を補おうと苦心してきた彼女。その成果を、アージェは違う形で受け取ったのだろう。
彼は自分とは違う道を歩いてきた女の、常に引いていく影を見た。
「どうして騎士になりたかったか、聞いてもいい?」
「ええ……力になりたい人がいたの。その人に仕えて、支えて、守りたかった。
 それだけのことなの。私はずっとその為に剣を振るっていた」
名誉の為でも地位の為でもなく、ただ主人の為に剣を取る。
そうして騎士となった。それはアージェもまた同じだろう。
―――― ならば彼女はどうして騎士を辞めてしまったのか。
主人と離れ、国を離れ、何故この国へと行き着いたのか。
アージェはそれを知りたくて仕方なかった。レアリアのことが脳裏を過ぎる。

灰色の石壁。日の差さない広場は、埃に汚れたがらくたがあちこちに転がっている。
汚れた酒瓶に溜まる雨水は、窓硝子の反射を受けて鈍い光を宿していた。
枯れかけた草の中に、白い小花が一輪咲いている。
ありふれた、特別なところのない景色。女は立ち上がると、何の悔いもない笑顔を見せた。
「色々苦労もして身につけたことだけど、あなたの役に立ったならよかった」
「うん。ありがとう」
「また何かあったなら訪ねて来て」
そうして長剣を片付けようとするアナは、少なくとも不幸であるようには見えなかった。
アージェは彼女の後について裏口へと向かいながら、最後と思う問いを口にする。
「あのさ……アナが仕えていた主人って、今どうしてるんだ?」
決別があったのか、死別があったのか。
目覚めぬ女皇を思いながら尋ねる青年に、アナは一瞬きょとんとした顔になった。
しかし次の瞬間、彼女は片手で顔を隠して俯くと―――― もう片方の手で食堂の中を指す。
「あそこにいるわ」
「……え?」
「うん?」
本を読みながらお茶を飲んでいた彼女の夫は、自分を指差されて首を傾げた。



「すっげぇ価値観を狂わされた……」
「どうかしたのか?」
女皇の執務室に帰って来たアージェは、主人から「何か面白いことはあったか?」と外出時のことについて問われ、思わずそう洩らしてしまった。だがすぐに我に返ると「何でもありません」と言い直す。
ここ一ヶ月あまり、剣の稽古の為にといって定期的に空き時間を貰っていた彼だが、それも今日で終わりだ。
そう報告すると女皇は軽く笑ったようだった。ヴェールの下からくすりと笑い声が聞こえる。
「何か得るものがあったか?」
「ええ。いずれ結果もお見せします」
「楽しみにしている」
執務机の前に座る女は、最近では執務中もヴェールを被っていることが多い。
アージェははじめそれを、ベルラと入れ替わっているのではないかと疑ったが、そうではなく単に眠気や疲労を臣下たちに見せたくないが為のものであるようだった。薄白いヴェールの上から見える耳と細い首筋、うっすら浮かび上がる顎の線を、アージェは壁際から眺める。
彼女はその間、書類に向かっていたが、不意にペンを動かす手を止めると彼の方を見た。
「何だ、一体」
「何がですか?」
「何を見ている」
「あなたを」
「…………」
平行線どころか進む程間が開いていくような会話は、彼ら主従にとっては珍しいものではない。
主人である女の方はそれを理解しているらしく「見るな」と端的に話を打ち切った。
滑らかな耳元に朱が差す様を見ながら青年は頷く。
女皇は書いていた書類を手元で折り畳むと、封書にして蝋印を押した。壁際に佇むディアドを手招く。
命じられて自分の足下を見ていた青年は、視界の隅でそれに気付いて主人のもとに歩み寄った。目の前に書簡が差し出される。
「トライン領を訪れたら、これを領主の息子に渡せ」
「ディトーにですか?」
「あまり物事を荒立てたくないからな。ただ誰にも渡すところを見られるな。城の者に勘付かれるな」
「かしこまりました」
アージェは受け取った書簡を懐に入れる。
不穏な動きが報告されるトライン領を、彼が視察しに訪れるのは二日後の予定だが、女皇はこの問題を大して重要視していないらしい。
「形式的なものに過ぎない」と何度か臣下たちに洩らしていた。
アージェはその認識を甘いのではないかとも思ったが、ケレスメンティアのことについては当然ながら彼女の方がよく把握している。
ならばこの視察も周囲を納得させる為のものに過ぎないのだろう。書簡は裏から領主の息子に釘を刺すものであろうと彼は推察した。
女は大きく溜息をつくと、背もたれに体を預ける。
以前は主人がこのような様子を見せる度に、寝室に戻ることを促していたアージェだが、最近はこのちょっとした浅い眠りが彼女には必要なものなのだと理解していた。すっかり体力がなくなってしまった女皇を、青年は顔を曇らせ見下ろす。
「そのような顔をするな。少し眠るだけだ」
「陛下」
「何も聞くな」
囁くような命令。アージェは黙してそれを受けた。まもなく小さな寝息が聞こえ始める。
いつまでこのような状態が続くのか。
彼は予想される未来のいずれにも楽観的な希望を持つことは出来なかった。ヴェールの下から零れ落ちた髪をそっと指で拾い上げる。
眩い白金。光を思わせるレアリアの色。
そうしていると留めようのない焦燥が沸いて、彼は叫び出したい衝動を嚥下せざるを得ない。何もかもが一時しのぎに思えて腹立たしくなる。
「レア」
誰にも聞こえぬ呟きは、彼女を起こすことはない。
アージェは髪から指を放すと、掛布を取って来るため踵を返した。
その時、背後で女の苦しげな呻き声が上がる。
「陛下、いかがなさいましたか」
「う……」
溺れる者に似て空をかく手は、ヴェールを煩わしげに撥ね退けた。赤紫の瞳がアージェを見上げる。
「ここは?」
「執務室です」
「ああ……そうか……」
覚醒しきらない目で辺りを見回すと、クレメンシェトラは再び背もたれに寄りかかった。浅い息を繰り返し目を伏せる。
「私はどれくらい眠っていた?」
「ほんの一、二分です」
「そうか……もっとずっと眠ってしまったかと思っていた」
彼女は書類の一枚を手に取ろうとしたが、どうにも指先が覚束ないようだ。諦めて腕を下ろすと女皇は渋面になった。
「……甘いものが飲みたい」
「独り言ですか」
「何か女官に頼んでくれると嬉しい」
ディアドの嫌味にも負けずクレメンシェトラは要望を述べる。
拗ねた子供のような顔で睨まれ、アージェは思わず苦笑した。隣の部屋に控えている女官を呼びに行く。
「すまん」
背にかかる声。もう何度聞いたか分からない謝罪の言葉が何を指しているのか。
それに慣れてしまいそうな自分が、アージェは嫌だった。






汗を流し着替えたアナは、鏡で己の姿を確認すると夫のいる食卓に戻った。
本を読んでいる男は、顔を上げぬまま笑う。
「楽しかったかい?」
「はい。いい訓練になりました。ありがとうございます」
夫に対する時、まだ口調が固くなるのは仕方のないことだろう。
王族であった彼は、随分長い間アナにとって目上の存在であったのだ。夫婦となった今でもそれを忘れることは出来ない。
彼は本の間に挟んでいた封書を取り出すと、それを妻に差し出した。
「兄上からだ。トライン領について」
「何か動きがありましたか」
「城から視察が向かうらしい。上手く乗り越えられるかどうか」
封書を開いたアナは中の文に目を通す。
定期的に送られてくる連絡。 ただその内容は、そろそろ事態が大きく動き始めているということを示していた。
ケレスメンティアに身を潜めてから五年。ようやく見え始めた波に、アナは緊張の面持ちになる。
「私たちは勝てるでしょうか」
思わず洩らした不安に、けれど男はただ頷いた。
ここに至るまでの道程において、今まで何度も彼女を支えてきた相手。アナは夫の首肯に胸の熱さを覚える。
―――― そして彼女は、イクレム王太子フィレウスからの書簡を、元通り丁寧に折り畳んだ。