神の憧憬 159

トライン領は肥沃で広大な土地が多く、農耕が盛んな場所である。
特に領内中央部に広がるアグス平野には大きな畑がいくつも並んでおり、作物が実をつける時期などは辺り一帯が金に染まって、その美しさは見る者に感嘆の溜息をつかせてやまない。
実り多い土地がとかく略奪の対象となる現状において、三百年以上もの間踏み荒らされたことのないこの土地は、存在からして稀有なるものである。
アージェはトライン領について説明を聞いた時、名だたるアグス平野を一目見てみたいと思ったが、領内への移動自体は城から城への転移で行われた。
外に一歩も出ることなく会談の部屋に通されたディアドら一行は、そこで領主ウーサンとその息子ディトーから歓迎の挨拶を受ける。
本来なら城からの警告の意味も持つこの視察だが、女皇はあくまでも「事を荒立てないように」との姿勢を崩していなかった。
トライン側もそれを承知しているのだろう。形式的な和やかさで挨拶が交わされると、話題は領内についての質疑応答へと移る。
既にどちらも知っているはずの事柄について、腹を探りながらのやり取りをするということは、アージェには滑稽な一幕にしか見えなかった。
だが、それも宮廷においては必要なことなのだろう。
立会人的な位置にいるディアドの彼は、会議机を挟んで行われるシンとディトーの応答を熱のない目で眺める。
シンは普段と同じく淡々と疑問点を挙げていった。
「先月の記録を拝見しますと、作物の備蓄量を増やしておられるようですね。
 それだけではなく商人たちからも食料を多く買い上げているとか。
 特に天候が不順である様子も見受けられませんが、これはどうしたことですか?」
「周囲の情勢が不安である為だ。強国同士がぶつかり始めれば、物の値段が高騰する。
 そうなる前に備えておくことは当然のことだろう。現に五十年前の大戦時は塩と薬草が不足してしまった」
「当時は城がその不足を補ったはずですが」
「陛下の御手を煩わせることもない。領内で賄えるのならそれに越したことはない」
全ては情勢が不安定な為だと主張するディトーに、シンが納得しているのかどうか表情からはまったく分からない。
ただ彼は次々矛先を変え確認を繰り返していった。
アージェはそれを聞きながらも、不毛さを覚えて室内を見回す。
今彼が胸元に持っている封書を出せば、この会談は意外とあっさり終わりを見るのかもしれない。だが、「誰にも見られず渡せ」と命じられている以上、そのような暴挙に出ることは出来なかった。 後でディトーと二人きりになれる時を待つしかないだろう。
アージェはトライン側より渡された報告書を手持ち無沙汰に眺める。
ぱらぱらと数枚を捲った彼は、領内状況のある一箇所に目を留めた。
トライン領全体を囲んでいる石の防壁。その補修作業が進行していることと、作業の為に領民を雇い上げているとの簡単な記述。
青年はそれらを読みながらあることを確認したくなり、トライン領内の略地図を探そうと顔を上げた。
しかし彼が机上の地図を見つけて手を伸ばす前に、シンが書類の束を机で揃える。
「では予定通り視察させて頂いてよろしいでしょうか」
「ああ。今準備をしよう。しばらく待っていてくれ」
テーブルの上の書類が、複数の手でそそくさと片付けられる。
その中にはアージェが確認したかった地図も混ざっており、それを回収したディトーは一瞬青年を窺うような視線を投げかけた。だが男は、何を言うわけでもなく挨拶をして部屋を出て行く。
アージェはその後を追うべきか迷ったが、今それをしても怪しまれるだけだろう。
彼は隣に座るシンを見た。
「どんな感じ?」
「あなたは今までの話を聞いていなかったんですか?」
「聞いてたけど。上面のことじゃなくてシンの感想が聞きたい」
声を落して問うと、政務官の男は部屋に残るトラインの兵士を一瞥する。その上で小声であれば聞こえぬ距離だと踏んだのだろう。シンはあっさりと結論を述べた。
「向こうの言い分は半分は建前のようですね。情勢が不安定なことによる備えは事実でしょうが、それだけではない」
「何処かに戦争をしかけるつもりとか?」
「まさか。せいぜい利権絡みのことでしょう。何処の商人が動いているかはまだ不明ですが、度が過ぎるようなら特定が必要ですね」
「……なるほど」
アージェは軽く驚きつつもそれを隠して頷く。
彼からすると、言い分が建前なら本音は戦争準備であろうと思うのだが、シンはその可能性を疑っていないようだ。
この食い違いが政務における知識や経験の有無から生じているのか、それともケレスメンティアの人間であるか否かに因るのか、青年はいささか疑問に思う。だが彼はすぐに、専門家の意見を重んじることにした。
「まぁ、軍備増強っていったって、これくらいじゃ何処の国も落せないだろうしな」
「ええ。国境南のパラドはそう大きな国ではありませんが、軍隊自体はトライン領の二倍は有しています。
 まともに戦ってどうにかなる相手でもないでしょう」
「だよな」
少しだけ腑に落ちない気分も残るが、ケレスメンティアの人間として生きていくなら、その常識にも慣れなければいけないだろう。
アージェは気分を切り替えようと両手を上げて大きく伸びをし―――― シンに「行儀よくしていてください」と窘められた。

視察というからには領内のあちこちを回るのかとアージェは思っていたが、どうやらそうではないらしい。
予定として知らされた視察箇所は、トライン城内の武器倉庫と食料倉庫、城下街の文化設備と市場で全てということだった。
これら全部を回る頃には日も落ちるであろう。一晩城に滞在し、翌日は聖堂での礼拝後帰るのだと聞いて、青年は気のない相槌を打った。
「これで足りるのか? 俺、石壁の補修見に行きたかったんだけど。南北の防壁には砦もついてるんだよな?」
「ええ。ですが陛下が城周辺だけでよいと仰っていましたから。何か気になることがあるなら追加視察の要請を出しますが」
「うーん……」
これといった確信はなくただ多少気になるだけなのだが、それだけの理由で滞在を伸ばしていいものかどうか、アージェは決断出来ない。会議机に頬杖をつく青年は、蔓草の彫刻が施された天井を見上げた。
「ロディが来てればさっとあちこち行けたんだけどな」
「国内は魔法士を呼ばずとも転移陣が設置されていますからね」
今回は、アージェとシンを代表者として、あとは神兵が三人付き従っているだけである。
最小限の人数での訪問は、定期的に行われる領内視察としては不自然ではないが、アージェは転移の使える魔法士が欲しかったと今更ながらに思った。冷めてしまったお茶の匂いを嗅ぐと、少しだけ口をつける。
そうこうしているうちに準備が出来たらしくディトーらが戻ってきた。
「お待たせした。城内を案内しよう」
にこやかな笑顔で先導しようとする男。
アージェは女皇から預かった書簡を意識しつつも、立ち上がり彼の後に続く。
―――― もし本当にトラインを怪しむのなら、予告をしての視察など意味がない。
そう思いながらもアージェは予定通り各所を回り、最後の夕食の席まで何とか問題なく女皇代理を務めたのだった。



「疲れた……」
アージェに割り当てられた部屋は、広い露台のついた客室である。
ディアドということで気を使われたのか、ケレスメンティアの彼の居室より豪奢な部屋の寝台で、青年はうつ伏せになりぐったりと四肢を伸ばしていた。息をつくごとに疲労が全身から染み出していくような気がする。
彼にとってあちこち歩き続けることは苦ではないが、食事の席などで領主らと当たり障りない会話をせねばならないことは、普段使わない神経を使った。慣れない社交の場からようやく解放されたアージェは、低い唸り声を上げる。
「こういうのこそエヴェンがやれよ……」
生まれながらの貴族であり無駄に社交的な男であれば、このような任務でも難なくこなせるに違いない。
そう思いつつもアージェは、これが自分に託された役目であることを忘れていなかった。寝返りを打って仰向けになると、まだ渡せていない封書を取り出す。
周囲に人がいなくなったら渡そうと狙っていたのだが、そのような機会は残念ながら一度もなかった。
しかしそれもお互いの立場を考えれば当然のことだろう。このままでは明日も渡せないと踏んだアージェは、苦い顔で体を起こす。
「今夜中に何とかディトーに接触するしかないか」
内密の話は夜するものだと相場が決まっている。
アージェは乱れた髪を更にかき回しながら立ち上がった。まずはこの部屋が城のどの辺りに位置しているのか、確認しようと露台に出る。
夜の帳に包まれた景色。露台の遥か下には小さな庭が見え、暗い中を巡回の兵たちが持つ明かりが動いていた。
欄干にもたれかかりながら、青年はその人数と動きを無意識に確認する。
庭の向こうには高い城壁があり、外には街の灯が広がって見えた。
その様子からして日が昇れば眺めのよい部屋なのかもしれない。アージェは街の灯の中に、昼間視察した市場の尖塔らしきものを見つけて目を細めた。
「こっちは東側っぽいな……ディトーの部屋は何処だよ」
この城の者に聞けば分かるのかもしれないが、不審に思われることは確実である。
アージェはせめて、兵士たちよりも女官に聞いた方が口止めしやすいだろうかと首を捻った。白い欄干に頬杖をついてぼやく。
「魔法士がいればな」
「何したいの?」
艶のある少女の声。
アージェはそれに驚いたが、必要以上には驚かなかった。彼女がいつでも気紛れに現れることを知っていたからだ。
青年は顔だけで宙に浮かぶ少女を見上げる。
「領主の息子の部屋に行きたいんだよ」
「へえ。変わった趣味ね」
「趣味じゃない。仕事」
表情を変えず返すアージェに、ルクレツィアはにやりと笑った。
夜空に浮かぶ月よりも蠱惑的な金色の瞳。
魔女は黒い服の裾からはみ出す両膝を抱えると、ふわりと彼の隣に下りて来て石の欄干に腰掛けた。