神の憧憬 160

『私は今でも、お前たちは出会わなければよかったと思っている』






燭台の下に落ちていく灰は、黒い雪のように無音で舞いながら、小さなテーブルの上にはらはらと降り積もった。
紙数枚分の欠片は、吹けばすぐに散り散りになってしまうだろう。ディトーは手に持っている最後の一枚を火の中に落す。
後に残してはいけない多くの書簡。これは、そのようなもののうちの一通だ。
極秘裏にイクレムの使者から届けられた手紙。これからのことを指示する文面が、赤い火の中でたちまち燃え上がる。
ディトーは目を閉じると呟いた。
「もはや神はいない」
夜の静寂に落ちる言葉。
何千何百と繰り返したそれはだが、今なお彼の手を微かに震えさせる。
ディトーは聖句を吐き出したい衝動を堪え、唇を噛んだ。胸にあてたくなる両手をきつく握り締める。
決して人には見せられぬ煩悶は、いつになったら消えていくのか。
息苦しさを覚え月の光る窓を見た彼は、その時強く吹き込んでくる風の冷たさに、我知らず息を止めた。






月が皓々と輝く空。
光の降り注ぐ露台の欄干に座る少女は、細い足を無造作に外へ投げ出しているにもかかわらず、恐怖心の欠片も見せなかった。
もっとも彼女にとっては落下などはなから恐れる意味がないのだろう。闇に紛れる黒衣の魔女は屈託ない仕草で大きく欠伸をする。
「あー……疲れた!」
「何だよいきなり。何しに来たんだよ」
「面倒くさい作業が一段落ついたから休憩しに来たのよ。ちょっとは労わりなさいよ」
「何で俺が」
反射的にそう返したアージェは、しかし彼女のおかげで女皇が一命を取りとめたことを思い出した。意識を改めると背後の室内を指差す。
「疲れてるなら寝台使っていいよ」
「……相変わらずどっかずれてるわね、あんた」
「何処が」
気を使ってみたというのに呆れ果てた顔で返され、青年は嫌な顔になった。
しかし少女の方はその反応が楽しかったらしい。鈴を振るような笑い声を上げる。
彼女は隣で頬杖をついているアージェに、もたれかかるようにして顔を寄せた。
「で、調子はどうなの?」
「別に普通」
「あの子も?」
問われて彼は押し黙る。喉の奥を重いものが転がっていった。
だが言いたくないことでもルクレツィアには知る権利があるだろう。アージェは溜息を飲み込む。
「体は大丈夫だ。クレメンシェトラが動かしてるから体力ないけど」
「クレメンシェトラが?」
「ああ」
「それって何で? あっちは肉体操作の人格じゃないでしょ?」
当然の疑問。しかしその問いは、錆びた刃物を押し付けられるような焦燥をアージェに与えた。
彼は徒に動揺を出すまいと、金色の瞳を避けて目を伏せる。
「レアはあの時から眠ったままだ。いつ起きるか分からないってクレメンシェトラは言ってた」
あの事件があってから四ヶ月。
まだそれしか経っていないと思いながら、だがアージェはいつまでこのままなのかを考えずにはいられない。
きっかりと決まっているわけではない期限。しかしそれは確実に迫ってきている。
このままレアリアの体が耐え切れず死んでしまうか、もしくは子を身篭りクレメンシェトラが出て行くのか。
やがてはどちらかの結末に至らなければならないのだろう。青年は暗澹たる気分で夜の庭を見下ろす。
ルクレツィアは腕組みして「ふぅん?」と首を傾げた。

左手の指輪は、拳を握れば確かにその存在を訴えてくる。
細く固い感触は、初めてこれを渡された日のこと、そして彼女が彼をディアドとして任じた日のことを思い出させた。
今は遠い日。いずれの日にもレアリアは泣き出しそうな顔で微笑っていた。彼は左手をそっと握る。
友人であった女を思い出す度考えることは、どれも彼女にしてやれなかったことばかりだ。
彼にとってはささいな一つ一つを宝物のように喜んだという彼女。
後にそれを知ったアージェは、そのようなことでよかったのかと思いつつ―――― それだけしか出来なかった自分に歯噛みした。
大したことではなかったのだ。瑣末な拘りを抱いていなければ、彼女に贈れたものも多かっただろう。
人はいつまでもそこにいるわけではないと知っていながら、彼はあの時、レアリアだけは不意にいなくなることはないと、何処かで安心していた。
今はただ後悔だけが圧し掛かる記憶。アージェは眼下に揺れる松明を見つめる。
ルクレツィアが隣で空を見仰いだ。
「そっか。やっぱりか」
「やっぱりって何が?」
「余計な手出しかな、ってちょっと思ったから。あの子、死んでもいいって思ってたみたいだし」
「え?」
アージェは欄干から体を起こす。
何を言われたのか分からず怪訝そうな青年の顔を、ルクレツィアは微笑を以って見返した。
金色の瞳に労わるような慈しむような光が浮かぶ。それは去っていく者へ向ける懐古だ。
悠久を見てきた者が、数多の別れに注いできたのであろう慈愛。
彼はその目に不安を覚える。
「死んでもいいって誰が? クレメンシェトラが?」
「違う。クレメンシェトラは生きなきゃいけないって思ってるでしょ。楔なんだし」
「なら誰が」
問わずとも、答は一つしかないと分かっている。
―――― レアリアが。
彼女が、死にたがっていた。



時折強く吹く風は冷たく、体の芯を徐々に冷やしめていく。
遠く北東の海から流れ込んでくる空気。夜を渡る寒気は、少女の長い髪をたなびかせた。
青年は、月光を受け艶が流れる髪を見ながら、言葉を失って立ち尽くす。
頭の中に浮かんだその結論を、しかしアージェは理解することが出来ない。
ただ「そんなはずがない」という感情だけが渦巻いて溢れかけた。喉の奥から掠れかけた言葉が落ちる。
「……でたらめを言うな」
「でたらめと思う?」
「あんたはレアのことを知らないだろ」
「そうだけど。人の精神に触れることなんて、私にとっちゃ絵本を読むより容易いのよ?」
白い指が夜空を指差す。あの時、重傷を負ったレアリアに干渉して治癒した女。
彼女はあの時、何に触れ何を見たのだろう。アージェはルクレツィアの指が、レアリアの額に当てられていたことを思い出した。
だが、だからといって彼女の言うことをそのまま信じられるはずもない。
アージェは少しだけ冷静になると、乾いて罅割れた息を吐き出した。
「まさか。理由がない」
「そうよね。私もよく分かんない」
「何だよそれ。適当に言ったのか?」
「ううん。共感出来ないってこと」
ルクレツィアは青年から視線を外した。
生気ある人間の美貌を持ちながら、人ではないという少女。
誰にも呼ばれぬ真名を秘める娘は、その時何かを探すような目で夜の彼方を見つめた。
ふっと聞こえる息。そうして彼女は細い指先で、遠くに見える街の灯を指す。
冷えた夜の中浮かぶ明かりは、一つ一つは決して強いものではないが、寄り添って温かく見えた。
今なお絶えてしまわない人の営み。少女は花弁に似た小さな唇に笑みを刻む。
「もしさ、あんたが大事な人間一人と大陸中の人間全てを天秤にかけるとしてさ」
「うん?」
「その一人の為に、大陸全部を犠牲に出来る?」
唐突なたとえ話。
アージェは話題の不謹慎さに眉を潜めたが、すぐに首を横に振った。
「多分出来ない……しないと思う」
「そう? あんたもそういう人間か」
「いや普通無理だろ。無茶苦茶言うなよ」
「あんたの普通が本当に普通かなんて、誰にも分かんないわよ」
ルクレツィアが口の端を上げて笑うと、彼の額には指で弾かれたような感覚が走る。おそらく魔法の仕業だろう。アージェは手で額を押さえた。
「何だよ。何かおかしいか?」
「別に責めてないわよ。私もそういう人間何人か知ってるし。
 何よりも大事で大事で、自分の命も惜しくないほど愛している女でも、多数の為には感情を押し殺して犠牲に出来る。
 そういう男はいるわ。あんたを含めてね」
「…………」
棘の感じられる揶揄。
しかしそこにはまた共感も含まれているように聞こえた。
アージェは落ち着かなさを感じつつも先を促す。
「それで?」
「でも逆の人間もいるのよね。一人の為に他を犠牲に出来る人間。
 例えばさ、一人の命と数千万の命を比べるのは無理でも、皆がちょっと不便になって、大事な人一人が助かるっていうならどうする?
 それくらいなら考えちゃわない?」
少しだけ現実味を帯びた比較に、青年は眉を寄せた。
何が言いたいのか、彼はルクレツィアの真意を探ろうとその顔を見たが、まったく何も分からない。
アージェは怪しみつつも、問われるままに答える。
「考える。それなら親しい人間の方選ぶかも」
「そうだよね。そう思うわよね」
神の娘クリュアは誰に憚ることなく微笑む。
「あんたはあの子にとって、その一人なんだよね」