神の憧憬 161

ただの人間として出会った。
強いられることなく手を取って、当たり前のように友人になった。
ありふれた始まりを経て、他愛無い会話を交わして。
お互いを隣に見た彼らは、平凡な温かさに安堵した。
そしてそれはだからこそ、恐ろしいまでに特別なものとなったのだ。
クレメンシェトラが彼らの出会いを、苦渋と希望を以って後悔してしまうほどに。



夜の闇は、誰しも平等に与えられるものだ。
たとえ月の光が届かぬ場所でも、闇は鍵穴からそっと忍び込み、全ての者の足下を浸す。
静寂と繋がる眠りの時。だが安息を享受出来ぬ人間は、その深さを前に時を待つしかない。
同様に黒衣の少女もまた、人々に畏れと眠りをもたらす底知れなさを、しなやかな体に秘めているようだった。
美しい微笑よりもその得体の知れなさの方が気にかかるアージェは、軽い驚きから覚めると渋面になる。
「何だそれ。だから何だって言うんだよ。それがレアが眠ったままなのと関係あるのか?」
「うーん? 信じても信じなくても別にいいけど。
 正直私もさ、そういう強すぎる感情ってよく分からない。男の為に自分捨てようとか思わないし。
 ただそういうこと出来る人間に、私はやっぱりどこかで憧れてるってのはあるんだろうね」
「憧れる?」
「そう」
少女は細い両腕で膝を抱えた。
光を引く金色の眼。誰にでもあけすけに対する彼女はその時、だが確かに人からは遠い存在に見えた。
憧憬を以って俯瞰するように、ルクレツィアは街の灯を見つめる。
「そうやって足掻いて、予想もつかないことして、短い一生を投げ打って終える。
 人間のそういうとこ分からないとも思うけど、やっぱりちょっと憧れるんだよね。
 ―――― どうして『神』が生まれたのか理解する」
しん、と。
それを聞いた瞬間、アージェは周囲の空気が冷えたような気がした。
馬鹿馬鹿しいと無視したいにもかかわらず、埋まったままの棘のように疑問が疼く。
「聞くならば今しかない」と、誰かが頭の片隅で囁いた。青年は本能的な忌避を抱きながら、金の瞳を見やる。
「神って何だ? あんたは何の娘だったんだ」
覗き込む闇の中に何が現れるのか、彼は予想の欠片さえ抱くことが出来ない。
それを聞いたルクレツィアは、薄く笑うと鮮やかな両眼を閉ざした。



神についてその実態を問うた時、研究者であるカタリナとユーレンはどちらも「何かはいただろう。それが何かは分からない」と言っていた。
魔法ではあり得ない力を持つ神具。それを与えた神。
もしその存在が真実であるなら、一体正体は何であったのか。
ケレスメンティアの宮廷において一人異端である彼は、僅かばかりの緊張を乗り越えて人知の空白に向かい合う。
神の娘は人の子を一瞥すると、可憐な微笑を見せた。
「前に言わなかった? 人の似姿だって」
「あれ? それ逆だろ。人が神の似姿」
「違うってば。人の話を聞かない男ね。人間が先! 神が後!」
「ええ?」
あらかじめ持っていた知識とは逆のことを言われ、アージェは眼を丸くする。ユーレンに聞いたことを思い出し確認した。
「大陸って元は一つだったって本当?」
「そうね」
「それが割られる前は、人間は神に統治されてたってのは?」
「まぁ本当。私その頃まだ生まれてなかったけど」
「じゃあ支配されてたんだから人間の方が後だよな?」
「先。あんた、若い癖に頭固いわね」
「…………」
沈黙するアージェと、彼を白い眼で見るルクレツィア。
自分が先導しなければ話が進まないと悟ったのか、少女は露台の中へと下りる。
彼女は小さな両手をぱっと広げた。
「あんたさ、この世界が位階構造になってるって知ってる?」
「あー、下に澱があったり上に魔力があったりするやつ?」
かつてコデュにそのような説明を聞いたことがある。
世界には多くの位階が積み重なって存在しており、上には神や魔力の位階が、下には澱や負があるのだと。
ルクレツィアはそれを聞いて頷いた。
「そそ。今、私たちは人間階に存在してるわけだけど、世界には他にも数百の位階が在る。
 上下って言っても、本当に空の上や地の下にあるってんじゃなくて、概念的な上下だからね。
 普通の人間の目にはこの位階の物質しか見えないけど―――― 別の位階はすぐ、同じ場所に、重なってる」
白い指が一本、闇の中を優美に掻き分ける。
右から左へついと動かされた指先。
金色に塗られた爪先が通り過ぎていく場所から、空間に切れ目が入るのを見てアージェは愕然とした。
黒布に鋏を入れたかのような切れ目。その向こうには、いつか見た花畑が遥か遠くにまで広がっている。
甘い香りが夜気に混ざり漂ってくると、青年は息を飲んだ。
「それが別の位階?」
「そう。あんたにも感覚出来るよう変換してるけどね」
少女が指を弾くと切れ目は掻き消える。元通り何もない夜が広がる露台をアージェは凝視した。ルクレツィアは続ける。
「人間は位階構造を説明する時、便宜的にこの世界を中心とするけど、それは或る意味で真実なの」
「真実? 本当に中心ってこと?」
「核っていった方が分かりやすいかしら。上下の別がつけられてるように全部の位階には特性がある。
 でもこの位階は中庸なのよ。偏りがない。全てがあって、全てがないの。
 そしてここは、もっとも物質的要素が大きくて、固定された位階でもある」
ルクレツィアは右手の人差し指を立て天を指した。
金の爪の先に白い硬質な球が現れる。その周りには何重もの光の膜が漂い始めた。
薄い膜はゆらりゆらりと形を変えつつも、己の場所から大きく動くことはない。
美しいような忌まわしいような眺め。ルクレツィアは赤い唇を動かした。
「無理矢理具現化してみるとこんな感じ。分かる?」
「真ん中の球がこの位階ってことか」
「そう。で、神はそれ」
まるで物を放るに似た言い方。ルクレツィアの左手は露台の床を指差している。
アージェは何も落ちていない白い石床を素直に見下ろした。
「何もない」
「あるでしょうが。見えてるでしょう」
「ないって。小さいものなのか?」
「本っ当頭が固いわね……それよ。その影」
「影?」
言われてみればそこには月光に照らされ、小さな球とぼんやりとした膜の、濃さの異なる影が落とされている。
水草の塊にも似た影。アージェは意味するところを掴みかねて、そのまま聞き返した。
「世界の影が神?」
「っていうか、複数の位階があることによって生じる同一と差異。
 勿論ここを除いてほとんどの位階は流動的だから、何が同じで何が違うかは変わり続けるわけ。
 でも光と影が像を結ぶように、同一と差異は存在を生んでそこに意識が宿った。それが神の原型」
「うん。ごめん。もう分からない」
「言われると思ったわよ!」
ルクレツィアは大きく溜息をついたが、怒ってはいないらしい。「魔法士でさえない人間じゃ仕方ないか」と白い球を消した。
「まぁ色々細かいことは置いといて! なんかこうもやもやーっとした存在は、この真ん中にある人間階に惹かれたのよ」
「何で?」
「さぁ? 固定されてるからとか、物質に拠ってるからとか、中庸だからとか、挙げればきりがないけどさ。
 多分……一番確かだったからじゃない? 自分たちの存在を生んだ外縁としてさ」
欄干に寄りかかった少女は、自らに繋がる過去に向けて微苦笑する。
それは子を見る母のようであり、父を見る娘のようでもあった。ルクレツィアは夜風に舞い上がる髪を耳にかける。
「ともかくこの位階に惹かれた原型は、そこで更に人間に興味を持ったのよ。
 同じで違う存在がいっぱいいてさ、新しいのを生んで死にながら衝突したり協力したりしてるの。
 目まぐるしくて複雑で、変わりながらも変わらない生き物―――― それを識った原型は、人間に憧れて、人に似たものに、成った」
心地よく耳を打つ声。
ひんやりとした風。
アージェは少女を見つめた。
「それが神?」
「うん。ただ肉体を伴っての位階内現出なんてそう簡単には変換出来ないからさ。
 存在のほとんどはそのままだったし、現出出来た部分も五人に分かれちゃった。
 でも彼らは人間の中に入っていって、その力で人々を助けて統治者になったの。これが神代の始まり」
少女の手を鳴らす音が夜空の下響く。
アージェは何処か乾いたその音を聞きながら、与えられた情報の途方もなさに大海と向き合うに似た気分を味わっていた。



憧れによって生まれた神を、自らの憧れによって理解すると言ったルクレツィア。
その憧憬の向かう先であるレアリアは、ならば人間と見ていいのだろうか。
アージェはそもそもの話の始まりである主人に意識を戻した。傍らの少女が頷く。
「あの子はほとんど人間よ。核はクレメンシェトラの方だし」
「人の心を読むなよ」
「適当に言ってみたんだけど。あってた?」
「ほぼあってる。ついでにクレメンシェトラが何で生き続けなきゃいけないか、知ってたら教えて欲しい」
ここまで聞いたのだから、ついでに聞けることは聞いてしまおうとアージェは割り切った。
神代が遠い現在、その真実について知っている者といえば、クレメンシェトラかルクレツィアしかいないであろう。
ならばこの気紛れな少女に会えた今が好機だ。
またよく分からない話が始まるのかと内心身構える青年に、ルクレツィアは「知らないの?」と首を傾ぐ。
「知らない。知らない方がいいって教えてもらえなかった。俺の母親は聞いてたみたいなんだけど」
「じゃあそれ、私が教えちゃ不味いんじゃないの?」
「別にいいよ。教えて」
重ねて促すと、ルクレツィアは呆れ顔になった。
しかし彼女にとっては隠すようなことでもないのだろう。それ以上の反対はなく教えてくれる。
「あのさ、今はこの世界、神がいないでしょ?」
「いないんだ?」
「いないの。元の存在に戻ったから。でも、この位階にはまだ神のもたらした力が残ってるわけじゃない?」
「神具とか?」
「そそ。あと魔法とか、あんたの異能とか。で、そういう神が持ち込んだ力をこの位階に残す為には、楔が必要なのよ。
 それぞれの神がどの力を残すか決めて自分の大陸に据えたやつがね。
 それが私とか、クレメンシェトラなわけ」
「なるほど。……なるほど?」
先程までの話よりは大分あっさりとしている内容。
個々の単語とその繋がりを理解したアージェは、流れのままに相槌を打った。
そして文脈のおかしさに気付く。
「え、それってもしかして、クレメンシェトラが死んだら魔法は……」
「うん。この大陸にはもう魔法士は生まれなくなるわね」
軽い調子で首肯された話。
アージェはその内容を反芻して、さすがに目の前が暗くなった。