神の憧憬 162

継承者のうち唯一物質としての神具を与えられなかったダニエ・カーラ。
彼女にはその代わり膨大な魔力と知識が与えられた。
それが何を意味するのか、知る者はほとんどいないだろう。
限られた割合の者が誕生前に魂で訪れ、そして忘却する「楽園」という名の庭園。
人に魔力を与える楽園を、ダニエ・カーラは選出者となった後、神に招かれてもう一度訪ねた。
別位階と繋がる場。楔を打たれた接触点。
そして彼女はそこでの記憶を持ち続けることを許されたのだ。
途方もない力の平原を前に、人の限界を知る絶望。
それこそが、選ばれし彼女に神が贈ったものだった。



大陸において、約四十人に一人の割合で生まれ続ける魔法士たち。
彼らのうち魔力の強い者はほとんどが各国の宮廷に召し上げられ、戦闘をはじめとする任務や王侯貴族の医療、魔法具の開発と作成に携わっている。
一方そこまでの魔力がない者たちは市井で医術を学び、魔法と併用として医者になる人間が多い。
同様に細工を学んで細々とした魔法具を作る者や、戦闘に特化して傭兵となる者もおり、彼らは町の有力者などの援助を得て、大陸のそこかしこで己の能力を生かしていた。
―――― それらの魔法士が皆、いなくなるのだとしたら。
「え、それって滅茶苦茶不味くないか? あちこち大混乱になるぞ」
「なるかもね。私の知ったことじゃないけど」
しらっとしたルクレツィアの感想は、彼女がこの大陸の人間ではない為のものだろう。
しかし当事者の一人とも言えるアージェは、到底暢気に構えていることは出来なかった。
確かに辺境の村に住んでいた頃は、魔法士の力を借りることなど稀であった。年に一回、村人の誰かが怪我をしたり厄介な病を得たりで魔法士を呼ぶことがあるかないかというくらいである。
だが、諸国を巡り宮仕えの騎士となった今なら、魔法がいかに多くの場所で不可欠なものとなっているか実感出来ている。
代表的なところで転移や治癒、防御結界が失われるというだけでも、大きな混乱があちこちで巻き起こるだろう。
アージェは嘆息しそうになって口に手を当てた。
「だからエイディアは諦めたのか……」
「まぁ普通怯むんじゃないの? 魔法士が多くいる環境で生きてきたなら尚更。
 ただ今いる魔法士が魔力失っちゃうっていうわけじゃなくて、新しい魔法士が生まれなくなるだけだからさ。
 何十年か猶予があるっちゃあるんだけど」
「ああ。それなら何とかなる、のか? いやでもな……」
「知らない方がよかった?」
からかいを含んだ声をかけられ青年は顔を上げた。見るとルクレツィアは欄干に寄りかかり、人の悪い笑みを見せている。
「知らないままだったらクレメンシェトラを消す方法を探すことだけに集中出来てたよね。
 あんたはその方がよかったんじゃない? 変に迷わなくて済んで」
「何だよそれ」
あからさまな揶揄にアージェは顔を顰めたが、少女の言うことには一理あった。
おそらく同じことをクレメンシェトラも言っていたのだ。彼は「聞かない方がいい」と言った時の、彼女の淋しげな微笑を思い出す。
義務として、死ねないということ。
それは一体どのような気分なのだろう。彼はルクレツィアを見た。
「嫌にならない?」
「何が?」
「楔やってて」
「別に?」
彼女の声は、冷えた空気の中を軽やかに踊る。少女はふわりと浮き上がると欄干に座りなおした。
「だって私普段、自分の役目なんて覚えてないし。言ったでしょ、忘れてるって」
「いつもは魔女なんだっけ?」
「そそ。魔女も長命だからさ、似たようなこと聞かれることもないわけじゃないんだけど。
 長く生きてるの楽しいわよ? あちこち行ったり、揉め事に首突っ込んだり、気に入った男と遊んだり。
 全然飽きないし、まだまだ時間欲しいって思うし……それに、死にたくなったらいつでも死ねるって思ってるし?」
赤い唇が微かに歪む。
その自嘲に、気付きたくなかったが気づいてしまったアージェはやりきれない思いを味わった。内心に落ちた石が重くなる。
冴えた月光。露台を塗り分ける光と影は、今はただ己の領域を示しているだけだ。
青年は目を閉じると肺の中の空気を吐き出した。代わりに入り込む冷気に、少しだけ体の中が痛む。
手袋を嵌めたままの左手。今はもう胸元にまで達している黒い肌を、彼は服の上から押さえた。
何処までも優しい少女の声が問う。
「それで、あんたは諦める決心がついた?」
何を諦めるのかなどと聞かずとも分かる。そしてその返答も。
既にクレメンシェトラに答えているのだ。彼の姿勢はその時から変わらない。
アージェは金の瞳をただ見返した。
「レアは、俺の異能を消す為にクレメンシェトラと死のうとしたのか」
「多分ね。あんたのその呪いは楔によって繋がれたものだから」
かつて異能を消す為に旅をしていた彼のことを、レアリアはよく知っている。
あの頃の彼女は、自分が生きている限り消えぬ異能のことをどう思っていたのだろう。
彼がディアドとなることを散々拒否したからこそ、レアリアはそのようなことを考えたのかもしれない。
多くの人が不自由を味わい、彼一人が解放される―――― 愚かなその天秤はアージェもまた向き合うものなのだ。
青年は重みに眉を顰める。
「俺は……それを聞いた今でもレアが長く生きられればいいと思ってる。
 何と言われても諦める気はない。俺はあいつの為の騎士なんだ」
どれ程無理だと、不可能だと突きつけられても、この一点は譲ってはいけない。
それをしてしまえば最後、何故今ここにこうしているのか意味が失われる。ただ目の前のことを処理するだけの人間になってしまうのだ。
多くの矛盾を孕みながらも、そうして踏み止まるアージェの返答を聞いて、ルクレツィアは嬉しそうに笑った。
「だから人間って面白いと思うのよ」
透き通る憧憬の声。少女はからからと笑うと小さな踵で露台の柱を蹴った。



ルクレツィアはひとしきり話してしまうと、それで気が済んだらしい。
「またね」と転移しかけたところを、アージェはすかさず留めた。腕を掴まれた少女は顔を顰める。
「何よ」
「いや。ついでに手伝ってくれ。領主の息子のところに行きたい」
「ああ、そんなこと言ってたわね」
途方もない話を聞いて、危うくアージェ自身も忘れかけるところであったが、彼には仕事があったのだ。
魔女でもある少女は、面倒そうながらも転移させてくれる気らしく「座標は?」と聞いてきた。が、当然そのようなことは分からない。
そもそもディトーの部屋が何処にあるのかさえ知らないのだ。そう伝えるとルクレツィアは嫌な顔になった。
「あんたちょっと私に借りが多すぎない?」
「自覚はある。いつか返すよ」
「その言葉、忘れないようにしなさいよ。倍返しさせてやるから」
彼女は悪態も多いが、基本的に面倒見のいい性格らしい。アージェからディトーの容貌について聞き出すと「ちょっと待ってなさい」と姿を消した。数分後何の前触れもなく露台に戻ってくる。
「座標取って来たから。行きは送ってやるけど撤退は自分でしなさいよ」
「別に暗殺しに行くとかじゃないんだけど」
「そう? まぁ好きにすれば?」
転移門を開くつもりか詠唱を始めるルクレツィアに、アージェはもう一つ言っておかねばならないことを思い出した。
今はこの場にいない人間のことを口にする。
「そう言えばネイって一緒にいないのか?」
「んー? 別の用事やらせてる。って詠唱中断させないでよ」
「ごめん。あとこっちの国にはネイ殺したがってる人間いるから注意しろって言っといて」
「あんたがそんな忠告してくるなんて、どういう風の吹き回し?」
皮肉げな笑みを含んだ揶揄に、アージェは「さぁ?」とだけ返した。自分が原因である為それくらいは教えた方がいいかとは思ったのだが、所詮何の義理も好意もない相手だ。大して反省はしていない。
そうこうしているうちに、露台には水鏡に似た転移門が現れる。
「ありがとう。助かった」
「はいはい。全身全霊で感謝なさいよ」
「神を信じる気になったらあんたを信仰しとくよ」
腰の剣と懐の封書を確認し、アージェは一歩を踏み出す。
ふわりと足下が覚束なくなる一瞬、ルクレツィアの声が歪んだ空間に響いた。
「あんたはそれで、クレメンシェトラを殺すわけ?」
淡々とした問い。人ならざる楔からの問いかけ。
それを受けたアージェは、重石がまた己の中で大きさを増したのを感じながら、無言で向かう先へと足を進めた。



転移門を抜けた先は、それまでいた場所と同じく城の露台だった。
ただし見える景色は大分異なる。面している方角が違うのだろう。
アージェはきちんと位置を把握したく思ったが、いつまでも露台にいて見張りにでも目撃されては困る。
彼は薄く開いている硝子戸を見つけると、中の気配を窺いつつ声をかけた。
「ディトー殿、いらっしゃいますか?」
何も言わずに入って騒ぎになるより、声をかけてから入った方がいいと思ってそうしたのだが、名乗らなければ結局怪しまれるのかもしれない。
アージェは自分が転移で来たことを思い出すと、再度声をかけなおそうと口を開きかけた。
だがそれより一瞬早く、ディトーの誰何が返って来る。
「誰だ。そこで何をしている?」
「ディアドです。陛下より内密の書簡を預かって参りました」
「ああ……」
深く吐かれた息は、まるで彼の来訪を待ち望んでいたかのように感じられた。露台へと駆け寄ってくる足音がして、すぐに硝子戸が開かれる。
現れたディトーは既に部屋着に着替えていたが、アージェの顔を見るなりほっと安堵の表情になった。
「よく来てくれた。さぁ中へ」
「遅くにこのようなところからすみません」
「いや、私の配慮が足らなかった。手間をかけさせてしまって申し訳ない」
感極まっているらしい男は、アージェが何故露台にいたのかはどうでもいいらしい。
この辺りはケレスメンティアの民の信仰心によるものだろう。ルクレツィアがレアリアの怪我を治した時もそうだったが、何かあると彼らは結局「神のご加護」で思考停止してしまう。アージェは内心それを「大丈夫かよ」と呆れていたが、場合によっては言い訳の必要がなくて便利だった。
女皇の使いとして来たディアドの青年は、部屋に入ると懐から封書を取り出す。蝋印が見えるようにしてディトーへと差し出した。
男はそれを強張った両手で受け取ると、そっと胸に押し戴く。
「少し待っていてくれ。読ませて頂く」
「はい」
クレメンシェトラからは返事を貰ってくるよう命じられはしなかったが、特に断る理由もなかったのでアージェは部屋の隅へと下がった。
一方ディトーは明かりの灯る書き物机へと向かうと、そこで封を開ける。

男がそれを読む間、アージェは品のよさを窺わせる広い部屋を漫然と眺めていた。先程の会話が甦る。
―――― クレメンシェトラを殺すか否か。
それはいつからか彼の中に落ちていた石だ。レアリアに負担を課す彼女を忌みながら、だが敵意も抱けずにいることの重石。
つかず離れず主従の振りをしていた四ヶ月間、アージェはこうなることをずっと恐れていた。
母と同じ轍は踏みたくないと、彼女に情を抱きたくないと思いながら、だが彼はいつの間にかその存在に同情をも覚え始めている。
もしいつかクレメンシェトラだけを消す方法が見つかったなら。
自分が迷わずそれを実行できるか否か、アージェの頭の中は様々な要素が渾然となって覚束なかった。
手段の分からぬ今が幸運なのか、そのような考えまでが脳裏をよぎり、彼は咄嗟にかぶりを振る。
その時ふとアージェは、近くのテーブルの足に踏まれている白い何かに気付いた。
小さな紙片らしいそれは、燃やされた残りであるのか端が焼け焦げている。
彼は身を屈めると、その紙片を破らないように引き抜いた。



書簡に書かれていたことは、ほぼ予想通りの内容だった。
ディトーはそのことに胸を撫で下ろしつつ、ディアドの青年に何と言付けようかと考える。
端的に了承の旨だけを述べた方がいいだろうか。女皇もそれを予測しているだろう。
こういったことは無難であるに越したことはないと判断すると、ディトーは書面を丁寧に畳んだ。待たせていた青年を呼ぼうと振り返る。
そして彼は体を硬直させた。
鼻先に突きつけられた剣。夜の部屋に浮かび上がる白刃が、燭台の炎を受けて輝く。
理解が追いつかず口を開くディトーに、アージェは左手に持った紙片を見せた。
「これはどういうことだ? 陛下を裏切る気か?」
燃え残っていた手紙の切れ端。それを見たディトーは目を見開く。
そこにはイクレムの紋章と、王太子であるフィレウスの署名が記されていた。