神の憧憬 163

トライン領を訪ねてその現状報告を目にした時、アージェがもっとも違和感を覚えた箇所は石壁の補修についてだ。
経年劣化の為、村人を雇い上げ大規模な補修をかけるという話。そこで主に雇われていた人間たちは、彼の記憶が正しければ皆、北部境界近い町の者たちだったのだ。
民を雇って行うような補修に、わざわざ遠くの町から人を募るだろうか。
そこに引っ掛かりを覚えたアージェは、補修が「どの場所から優先的に行われているか」知りたいと思った。
もしもそれが他国に面している南部境界であれば、彼は己の抱いた疑念を捨て去ることが出来ただろう。
―――― ただもし北部境界側から着手されているのであれば。
周辺諸国の情勢が不安定であることを理由に軍備を強化しながら、ケレスメンティアの直轄領に面している側を優先して補修するというのは奇妙である。
万が一そうであるなら、それは叛乱の徴候ではないかと、アージェは怪しんでいたのだ。
そして今、フィレウスからの書簡の切れ端を手にした彼は、決定的な証拠を前にディトーを見据えていた。
鼻先に剣を突きつけられた男は、陸に上げられた魚のように口を開閉させる。
「そ、その手紙は」
「全て焼いたかどうか確かめなかったのか? これが本物かどうか、城に持ち帰ればすぐに分かる。
 イクレムに与して叛乱を起こそうというなら、お前には相応の処分が下されるだろう」
もし叛乱が確定であれば、ここでディトーを斬り捨てても許されるのだ。ディアドにはそれだけの権限がある。
そのことを思い出したのか、男はみるみる顔を蒼ざめさせた。無抵抗の表れか両手を上げた彼は、抗弁を試みる。
「待ってくれ……君は、聞いていないのか?」
「何を?」
相手に一応の権利を与えながら、しかしアージェはこの会話が造反を誤魔化す為のものだと半ば断じていた。
聞くだけは聞いてやるという態度の青年に、ディトーは息も絶え絶えに呟く。
「私は……いや、これはやはり……」
「何だよ。言いたいことがあるならはっきり言え」
きつい口調で促されて、男は手に持ったままの書簡を一瞥した。瞳の中に惑いが浮かぶ。
だがディトーは結局それについては何も言わぬまま項垂れた。深い溜息が敷物の上に落ちていく。
「分かった。私から弁解することはない。だがこれについては公にする前に陛下のご意見を伺って欲しい」
「陛下の?」
「ああ。その上で陛下が私を処罰するというのならそれでいい。だからどうか今は内密に……」
―――― 奇妙さを覚える。
それが何であるのか具体的には分からないが、アージェはまるで自分が激しく誤解を抱いているような感覚を抱いた。剣を引くことまではしないが、僅かに息を緩める。
「何を企んでいる?」
「私から言えることは何もない」
神妙な顔で、だがきっぱりと言い切るディトーに、青年は訝しむ目を向けた。彼は手の中の紙片を一瞥する。
クレメンシェトラは「事を荒立てるな」と再三念を押していた。
その彼女がこの件を聞いてどのような反応を返すのだろう。途端に揺らぎ始める予想に、アージェは落ち着かない気分を味わう。
無言での張り詰めた間。彼は決断すると剣を下ろした。
「分かった」
ディトーはほっと顔を緩める。しかしアージェにはここで退いてしまう気はなかった。紙片を持ったままの手で部屋の扉を指す。
「転移陣を使えるようにしろ。今から陛下にお伺いを立てに行く」
「今から!? しかし、もう時間が……」
「俺にはいついかなる時でも陛下にお会い出来る権限がある。
 他の人間には余計なことを言うな。 公にされたり、殺されたくなかったらな」
青年は長剣を鞘にしまうと、代わりに左手の手袋を取り去った。
武器がなくとも人を殺せる異能。ディトーはそれを知っているのか否か、漆黒の指を見て息を飲む。
アージェは手袋と共に紙片をしまいこむと、男を急かした。
「ほら、行くぞ」
「あ、ああ……」
よろめくように動き出しながらも、ディトーは手に持ったままの書簡を不安そうに見やった。その視線が机の上の燭台を捉える。
「これを」
「何だ?」
「処分して行ってもいいだろうか。内容は陛下が把握している」
アージェ自身は内容を知らない手紙。だが、ディトーの言うことは事実である。
青年は少し迷ったが「構わない」と結論付けた。おかしな真似をしないよう見張りながら、ディトーが手紙を燃やしてしまうのを見届ける。
男はそれが余さず燃えてしまうのを見て、深く息を吐き出した。
「これでいい。行こう」
ディトーは振り返ると、何処か擦り切れたような表情で笑った。



人を離れた空間に運ぶ転移魔法において、術者だけが移動する個人転移や、術者以外の人間も移動出来る転移門は、どちらも魔法士がいなければ使用出来ない単なる「魔法」の一種である。
ただ転移陣となると、それは「魔法具」の一種であり、魔力と構成を込めた紋様を床などに刻み込むことによって、魔法士がおらずともいつでも転移が可能になる。勿論定期的な整備は必要ではあるが、魔法士が常駐していない場所などでも転移が使える為、非常に重宝される代物だ。
ただその代わり、作成時に設定された転移先を変えるということは不可能であり、転移陣は基本転移先と転移元の一対で使用されている。
相互に行き来が可能かどうかは設定にもよるが、これらは各国の城や主要な街などに配されており、大陸においてなくてはならない移動手段の一つとなっていた。
夜更けにケレスメンティアの城に連絡を取り、トライン城から転移で向かう為の制限解除をさせたアージェは、転移陣の集められた広間を眺め渡す。
石床の上に行き先の異なる転移陣がいくつも並べられたそこは、まるで棺の納められた部屋のように静謐を保っていた。
見張りの兵士や魔法士たちは、何が起きたか分からないまでも異常を察しているらしく、緊張を面に出している。
アージェは、部屋着の上に外套を羽織っただけのディトーを急がせた。
「お先にどうぞ」
石畳に刻まれた円形の転移陣は、薄青く光り始めている。
それはケレスメンティアの城で制限解除が為された証で、ディトーは頷くと陣の上に踏み出した。
たちまちその姿が揺らいで消えると、間をおかずアージェも後を追う。
シンさえも知らない突然の帰城。
アージェはそうしてトラインを去りながら、しかし何故か正体の知れない違和感に付きまとわれているような気分を味わっていた。
いつからそこにあったのか分からぬ違和感は、足下を浸す靄のように彼の歩みを遅くする。
城に戻った彼は、不審がる神兵たちを手振りだけで収めると、ディトーを連れて女皇の部屋へと向かった。

時刻はもうすぐ日が変わろうかという真夜中だ。勿論クレメンシェトラは既に床についているだろう。
体調の不安定な彼女を深夜に起こすということはアージェに罪悪感を抱かせたが、事態は緊急である。
叛乱が確定すれば即座に対応を取らなければならない。相手はトラインだけではなくイクレムもなのだ。
控えの間に来たアージェは、そこにいた護衛の騎士に一旦ディトーを預けると、女官に女皇を起こしてくるように頼んだ。
待っている間、親衛隊の所属である騎士は、声を潜めて問うてくる。
「何があったんだ?」
「ちょっと面倒事。陛下のご判断が聞きたい」
「こんな時間にか?」
「俺が怒られるよ。怒られ慣れてるし」
大きな椅子に座らされたディトーは、彼らの会話は聞こえないはずだが、既に覚悟は出来ているのかじっと目を閉じて動かなかった。
そうこうしているうちに寝室から戻ってきた女官が、アージェのみに入室の許可が出たことを伝える。彼は頷くと武器をその場に置いた。
「じゃ、ちょっと行ってくる。その人を頼んだ」
「ああ」
夜は誰しもに平等でありながら、その平等は酷薄でもある。
まとわりつく違和感。原因の分からぬ気分の悪さ。
だが見通せない闇の先にあるものは、踏み出して手に取るしかない。
彼は一瞬、自分が誰もいない空間を一人歩いているような錯覚を覚えると―――― その幻想を振り切って、女皇の部屋の扉を開けた。



見慣れているはずの部屋は、深夜に訪れたせいか乏しい明かりの中、まったく見覚えのない場所であるようにも思えた。
窓から差し込む月光が硝子の飾り戸棚を照らし、中に置かれたもの一つ一つにささやかなる輝きを与えている。
暗い部屋の中で唯一薄赤く浮かび上がっているものは、広い寝台に張られた紗布だ。
魔法の燭台によって灯された明かり。それは体を起こした女皇の顔をもおぼろげに照らし出していた。
夜着のままのクレメンシェトラはまだ朦朧としているのか、額を白い手で押さえている。
「どうした?」
「夜分遅く失礼します、陛下」
「言ってみろ」
女皇は苦笑すると先を促した。その様子からして突然起こされたことを怒ってはいないのだろう。
アージェは回りくどい前置きを嫌って結論から述べた。
「トラインに謀反の徴候が見られます。ケレスメンティア側の石壁を補強し、備蓄を増やして防衛準備をしているようです」
「防衛? 侵攻ではなくか」
「トライン単独にそこまでの力はありませんから。その代わりディトーは、イクレム王太子と通じているようです」
言いながらアージェは寝台へと歩み寄る。しまっておいた紙片を取り出し、それをクレメンシェトラにも見えるよう、明かりの届く範囲にかざした。
彼女は紙片に書かれている署名を見て唖然とした表情になる。
「まさかそんな」
「ディトーは連行してきています。このまま拘束しますか? トライン領はまだ気付かれたことを確信していないはずです」
彼が城に連れて行かれたことを、既に見張りの兵士が領主に報告しているのかもしれないが、だとしてもその原因を確定するまでには時間がかかる。迅速に動けば充分に先手を取れるだろう。イクレムに気付かれないよう欺き返すことも可能かもしれない。
決断を促すディアドに、クレメンシェトラはまだ驚きの只中に放り出されたままのような目を向けた。
「本当に叛乱なのか? 私の不備か?」
「ディトー本人に確認なさいますか?」
表に出て自ら執務をしていたせいか、クレメンシェトラは憐れなほどうろたえてしまっている。
眠気と体調のせいもあるのかもしれない。アージェはそう思いつつも主人を動かそうと語気を強めた。
「陛下」
「あ、ああ」
ようやく我に返ったのかクレメンシェトラの目に光が戻る。彼女は大きな溜息と共に目を閉じると、静かな声で言った。
「ディトーをここへ」
「かしこまりました」
―――― 面倒事ではあるが、傷が大きくなる前に片付いてよかった。
そう思いながらもアージェは踵を返す。隣の部屋にいるディトーを呼ぶ為に扉へ向かった。
だがその時彼の背に、女皇の短い呻き声が聞こえる。
「陛下?」
「う……あ……」
振り返った彼が見たものは、両腕で頭を抱えるクレメンシェトラの姿だ。
突然の苦痛に苛まれているのか、彼女は身を二つに折って苦しげな声を上げている。アージェは寝台に走り寄った。
「陛下!」
悶える女の肩に手を伸ばす。
細く頼りない首と背。震える肩口に彼が手を置いた時、だが彼女はぴたりと動きを止めた。
まるで急に風が止んだかのような凪。それが寝台の隅々にまで染み渡った後、ゆっくりと女の顔が上げられる。
彼女の異質を示す瞳。その双眸は、赤紫だった。
作り物めいた美貌は、何の表情も浮かべてはいない。
ただただ空虚な貌。白い額に滲んでいる汗を、アージェは指を伸ばして拭った。そうして彼女の頭を支えると、顔色を確認する。
熱があるわけでも血の気が引いているわけでもない。だが彼は不安を捨て去ることが出来なかった。
「魔法士を呼びます」
「要らぬ。それよりディトーの件だが」
「はい」
「イクレムの動向が見たい。しばらくは何にも気付かなかったように振舞え。
 ディトーもトラインに戻し、決して今回の件は他言するな」
女皇はそこで微苦笑すると、アージェの手から離れ、乱れた髪を押さえた。
翳の濃くなる貌。色の変わった瞳を彼女は閉ざす。視線を逸らした横顔に、彼はまた違和感を覚えた。人形のような貌を凝視する。
―――― 何かがおかしい。
小さな引っ掛かりを覚え始めたのはいつ頃のことか。アージェは思考の半分で記憶を探った。もう半分で違和感そのものを探ろうと意識を広げる。
それらは皆、小さな断片だ。
贈った花籠を忘れていたこと。執務中に被るようになったヴェール。頻繁な眠り。ペンを握る仕草の違い。
不連続な一つ一つが何を示していたのか。
違和感の在りかを考えれば、答はすぐに分かる。
ただ疑うようなことではなかったからこそ気付かなかった。アージェは顔を背けたままの女を見下ろす。
「レア」
待ち続けた主人。彼を繋ぎ留める女。
重傷を負い深い眠りの中に落ちていたはずのレアリアは、己の名を呼ばれてようやく彼を見上げた。