神の憧憬 164

赤みがかった紫の瞳は、再び彼を見上げた時には既に青紫に戻っていた。
意思ある人間の目。かつては孤独と憂いが多く見られたそこには、今は冷え切って鋭い糸が見える。
何処から何処へ続いていくのか分からないその糸は、アージェの知らぬ遠い場所を貫いているようだ。
彼はそのことに意識せぬまま驚いて、レアリアを見返す。
―――― 疑う必要もないことであったからこそ気付かなかった。
クレメンシェトラがレアリアの回復を隠すとは思えない。彼女はいつも負い目に苛まれていた。
そしてそれ以上に、レアリアがクレメンシェトラの振りをすることなど考えてもいなかったのだ。
周囲には長く昏睡していたことさえ知られていない彼女。
そのような状況でクレメンシェトラの振りをして意味がある相手と言えば、それはアージェしかいない。
何故彼女が自分を欺くような真似をしたのか、心当たりのない青年は問うべき言葉を見失った。
近いはずの距離が、夜の闇が入り込んでしまったかの如く見通せなくなる。
「レア」
彼女だけを呼ぶ名。白金の睫毛がゆっくりと上下した。
そうしたささいな動きに目を留めなければ、彼女が生きている人間だということさえ分からなくなるだろう。
底のない表情を見せるレアリアは、小さな唇を僅かに動かした。
「どうして分かったの?」
「何となく。クレメンシェトラとは外側が同じなだけで違う人間だろ? ところどころで違和感があった」
「そう」
ふっと口元を歪める女は、苦笑しているのか落胆しているのか判別がつかない。
或いはその両方なのかもしれず、角度によっては少しだけ喜んでいるようにも見えた。
掛布に落ちている白金の髪。赤く照らされた一房をアージェは見つめる。
「いつからだ?」
「あなたが呼びにきてくれたから。その後」
「呼びにきた?」
それがいつのことなのか、彼には具体的な心当たりはない。
ただ花籠を渡した時には既に、レアリアは目覚めていたのだろう。
クレメンシェトラはそれをアージェから受け取ったという記憶がなかった。ただ部屋の中に増えていた籠を見て「彼が置いていった」と判断したのだ。
入れ替わりの可能性に気づいてしまえば、執務中ふっと眠りに落ちた彼女が、その後僅かに様子を変えていたことも理解出来る。
自嘲的なクレメンシェトラと断定的なレアリア。
いつからか女皇は二つの人格によって動いていたのだ。アージェはディトーへの書簡を渡された時のことを思い出す。
「ディトーを動かしていたのはレアか?」
「ええ」
「イクレムと通じさせたのも?」
レアリアは微苦笑しただけでそれには答えなかった。
何を考えているか分からない女への苛立ち。アージェはそれに動かされながら、だが声は荒げまいと息を大きく吸う。
「クレメンシェトラはそれを知らないんだろう? 何がしたい? 何を考えてる」
本来、表の為政者はレアリアなのだ。回りくどい真似をしなくても、大抵のことは彼女の采配が通る。
にもかかわらず裏で動いているのはどういった意図の為か。
アージェはまるで夜の沼に一人立っているような気分になった。踏み出せば深く沈んでいく気がする。

「アージェ」
女の、自分を呼ぶ声。
それはひどく懐かしい感慨を与えながら、しかし不信を全て拭い去るものではなかった。
いつの間にか少しずつ開いている距離。レアリアは冴えて揺るがぬ目を彼に向ける。
「私にはやりたいことがあるの」
「やりたいこと?」
「クレメンシェトラが知れば、きっとそれを妨げようとする」
彼女はそこで掛布を撥ね退ける。夜着のまま素足を下ろし立ち上がった。
薄紫の上衣を羽織りつつ暗い部屋を歩いていく女。傲然と顔を上げ窓辺へと向かう彼女は、作られた人形には決して見えなかった。
ただ不遜とも言える孤高だけがそこにはある。レアリアは月の見える窓を背に青年を振り返った。
凪いだ海にも似た静寂。彼女は当然のようにそれを纏って佇む。
自らの知らぬ女皇を前にして、アージェは緊張を味わった。
彼以外の人間には冷厳とした統治者と看做されている女は、温度の無い視線を己の騎士に向ける。
「今の私はその為に動いている。あの怪我をした時からね、クレメンシェトラと私は繋がりが弱くなったの。
 どうしてか分からないけれど、クレメンシェトラは私が起きていることも、何をしているかも分からない。
 だから上手く立ち回れば充分に裏で動ける。そしてクレメンシェトラは表に出ている分、少しずつ長い休眠が必要になってくる」
レアリアの話を聞きながら、アージェはルクレツィアがあの時何かをしたのではないかと思い当たった。
胸の怪我を治した後に額に触れていた指。人の精神に触れることなど容易いと少女は言っていたが、彼女はその性格からしてわざわざ人の心を読みに行くような真似はしないだろう。むしろ何か別のことをしたからこそ、副産物としてレアリアの思考が分かったのではないか。
彼はルクレツィアとの会話を思い出す。
「クレメンシェトラを殺すつもりか?」
言外に刺した釘。彼女はその意味に気づいたのか、困ったように微笑んだ。少しだけ彼の知るレアリアが垣間見える。
「最初は……そうしようと思った。そうやって死んでもいいって思った」
「俺は、それは嫌だ」
「アージェ」
笑っていた女の口元が凍る。レアリアは一瞬目を伏せると、改めて顔を上げ泣き出しそうな笑みを作った。
今まで何度も見たことのある表情。彼女は目頭を指で押さえる。
レアリアはそうして崩れかけた壁をゆっくりと戻していくようだった。ややあって濁りのない声が続く。
「ありがとう、アージェ。でも目覚めてから私、それだけじゃ駄目なんだって思ったの。
 それだけじゃ上手く行かない。先に続かない。私はだから」
女はふっと息をついた。月光がしなやかな躰の輪郭を白く浮かび上がらせる。
途切れた言葉の先に何があるのか。アージェは聞かないまでもそれを直感した。
異例尽くめの女皇レアリア。最古の女皇から離反を試みる彼女は、異端児であるディアドを見つめる。
「あなたがクレメンシェトラに与するというなら、私はあなたも排斥するわ。
 ……危害は加えない。何も奪わない。ただこの国から出て行ってもらうだけ」
「レア」
「そうでなくても……きっと私の傍にいない方がいい。ここはいずれ、戦場になる」
堂々とした宣告に、それを予想していたアージェでさえ息を止める。
冴えて冷たい月の輝きが、一瞬燃え上がる炎のように見えた。
狂気というには理性的な女の貌が、ほんの束の間苦渋に染まる。
しかしそれは彼の見間違いなのかもしれない。アージェが固まった息を嚥下して彼女を見ると、レアリアは普段と変わらず微笑んでいた。
彼女は長い上衣を引いて背を向ける。何も言わず月を見上げる後姿は、それ自体が別れの言葉のようだった。
開いて埋まらぬ距離。沈殿する闇が彼の足を引こうとする。



たとえば異能が存在しない世界であれば、彼はそもそも生まれることがなかっただろう。
育ての母を失うことも、村を追われ旅に出ることもなかった。彼女に出会うことも。
望んで巡ってきたわけではない多くの節目。だがいつでも彼は、その中から一つを選んできた。
選べなくとも選ばなくてはならないのだ。人が自らの意思で生まれてくるのではないように。
―――― それに比べれば、踏み越えることは難しくなかった。

「レア」
距離を詰める。
そして彼は女の背後に立った。彫像のように動かぬ彼女を見下ろす。
剣はない。置いてきてしまった。
ただ本当の誓いにそれは不可欠なものではないだろう。アージェは黒い左手を伸ばす。
かつて忌んでやまなかったこの手を、何の躊躇いもなく握ってくれた少女。
彼女はきっともう何処にもいない。あの時の彼がもういないのと同じく。
だからアージェは光の如き髪にも、白い肌にも触れることなく、彼女の眼前に漆黒の掌を曝した。銀の指輪が薄く光る。
「最後まで傍にいる」




終わりまでを誓う約束。
手の平に温かいものが滴ったのは、その後のことだ。
背を向けたままのレアリアは、小さな両手で彼の左手を支える。
声を殺してすすり泣く主人のか細い体を、彼は抱き寄せるような真似はしなかった。あえて軽くした口調で問う。
「大体俺まで騙すなよ。そんなに信用ないのか?」
「ア、アージェは、嘘が下手だから……」
「おい」
「あと……クレメンシェトラは、人に好かれるから……」
消え入りそうな声で呟かれた言葉。その理由に思い当たったアージェは神妙な顔になった。
既にいない人間たちの話。それらが幼い頃からレアリアをどう苛んだのか、想像も出来ぬことに思いを巡らす。
溜息をつきたい感傷が通り過ぎたが、面に出すことは出来ない。
それをしても仕方ないだろう。罪悪感を抱くことによって免罪された気分になっても、ただの欺瞞に過ぎないのだ。
「俺の主人はレアだ。クレメンシェトラじゃない」
「うん」
「嘘については努力する」
「うん……」
少しだけ曇った声に、アージェは何か言おうかとも思ったが、結局溜息をつくに留まった。
緊張が解けたのか寄りかかってくる女の体を受け止める。
大きな窓越しに見える月。欠けて翳の差すそれはひどく青白かった。
光と共に霜を降らすかのような冷たい色。その下では金砂も雪に似た銀に変わる。
けれど青年は、その色に安堵した。






トライン領の視察は、何の問題もなく終了した。
帰ってきたディアドからそう報告を受けたクレメンシェトラは、ほっとした表情で頷く。
「まったく、お前が散々脅かすおかげでおかしな夢を見てしまった。夜中に叩き起こされる夢だ」
「夢の中で目が覚める夢とは、器用なものをご覧になりますね」
草の上に広げられた昼食を食べながら、アージェがそう切り返すと女は不満げな顔になった。風で乱れる髪を押さえ、彼が淹れたお茶に手を伸ばす。
彼は女の指にまた小さな火傷が出来ていることに気付いたが、何も言わなかった。
ただ黙って目を閉じる。残滓となった母が、最後に残した言葉が浮かんだ。
(どうか、守ってね)
その言葉が指していたのは、一人ではない。
クラリベルとレアリア。―――― そしておそらくクレメンシェトラもだ。
かつての平穏な時代、母と友人であったという女の横顔を、アージェは目を開けて眺める。
クレメンシェトラは不思議そうに首を傾げた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「いえ」
「そうか」
小さく微笑んだ後、けれどレアリアのことを思い出したのか、女は眉を曇らせ「すまぬ」と付け足す。
いつもと変わらぬ風景。平坦な寧日。アージェは守れぬ約束から意識を引き上げた。
そして木漏れ日の下、沈黙する彼らはやがて広げたものを片付けると、共に並んで城の中へと帰って行ったのである。



Act.4 - End -