盤上にて 165

神殿の通路は何処までも真っ直ぐ続いているように見えた。
薄白い石で四方を囲まれた通路。果ての見えぬそこを、クレメンシェトラはカルディアスの後をついて歩いていく。
選出者ではなくなった男と神に従う娘。
はたから見れば異色としか言いようのない取り合わせが何故共にいるのか、奇異に思う者もいないわけではない。
ただ時折すれ違う神官たちは、あえて彼らに関わるまいとしているようだった。目も合わせず存在しない相手のようにその傍らを通り過ぎていく。
クレメンシェトラは、そうして行き過ぎていく彼らと同様、さしたる感情もない紅い瞳を目の前の男の背に向けていた。
やがて通路の終わりが近づいてきたのか、辺りに外界の匂いが混ざり始める。
彼女は、足を緩めぬ男に尋ねた。
「何処まで行くのです」
「もう少しだ」
「外に出ることは禁じられています」
「見るだけだ。お前の言いつけを破るわけではない」
断定的な男の口調に、クレメンシェトラは再び沈黙した。
冷たい石の壁。だが出口が近いのか周囲には温かみのある光が届き出す。彼女はそれ以上言うこともなく口を閉ざした。
まもなく目の前の男は足を止める。
「さあ、見てみればいい」
瞼に刺さる光。クレメンシェトラは思わず両目をきつく閉じた。前にいたカルディアスが急に横へどいた為だろう。神殿の外を見たこともない彼女は、初めての日の光に両手で顔を覆う。そのまま固まってしまった彼女に、苦笑する男の声が聞こえた。
「クレメンシェトラ」
「ですが」
「大丈夫だ」
背を押す断言。彼女はそれでも躊躇っていたが、やがておそるおそる手を下ろした。そうして眼前に広がる景色を目にする。
神殿の裾から伸びる草原。なだらかな傾斜を持つ緑は、色鮮やかに煌きながら遥か遠くにまで伸びていた。その先には小さな町があり、白い石壁の家が数十戸あまり慎ましやかに寄り添って建っている。
遠く草原を行く家畜の群れ。その傍らを歩く子供の姿に、クレメンシェトラは目を細めた。
「ああ……」
胸にこみ上げてくる感情というものが何であるのか、彼女にはまだ分からない。
ただそれでも世界は紅い目に美しく映り―――― クレメンシェトラは精神が焦げ付くような思いを、その時初めて味わったのだ。



眠る女は、懐かしい記憶を反芻し続ける。
始まりの時、まだ神が彼らを見ていた時代のことを。
何処までも続く罅割れた白い空間。一つだけの玉座から女の夢を概観するレアリアは、美しい口元を歪め微笑んだ。優しい声が壊れかけた世界に響く。
「眠りなさい。何もかも忘れてしまえばいいわ。思い出の中に浸っていればいい」
ゆっくりと染み渡るように、女の声は作られた空間を渡っていく。
応える言葉はない。クレメンシェトラは己の夢の中にいる。レアリアは足下に見える穴に視線を落とした。
異なる位階を貫いて負の海へと繋がる穴。その上に在る玉座は、大陸に打たれた楔そのものだ。
レアリアは己の真下に広がる闇をじっと見つめる。
「眠りなさい、クレメンシェトラ。いつまでも幸福な夢の中にいればいい。あとの幕は私が下ろすわ」
壊れ、剥がれていく空間は、近づく終わりを予感しているかのようだ。
ゆっくりと下りてくる天。女皇は微笑んで目を閉じる。
彼女はそうして白い右手を上げると、何の迷いもなく己の腰掛けた玉座を、罅割れた空間ごと割り砕いた。






降り積もる砂は、南の砂丘より流れてきたものであろう。枯れた草の根を半ば覆い隠し、辺り一面を風化させようとしているようだった。
白茶けた砂ばかりが見える荒れ地。他に何もない平原のあちこちには、小さな砂山が無数に盛り上がって見える。
その中の一つ、薄くかかった砂の下で、不意に何かがきらりと光った。近くで砂を掻いていた子供が、それに気付いて手を伸ばす。
襤褸布を顔や体に巻きつけた子供は、砂の中から光る何かを探り当てると、ぎゅっと掴んでそれを引き上げた。
手の中を見れば、光っていたものは金色の剥げかけた首飾りである。彼は首飾りを己の懐に入れようと更に引っ張った。
しかし細い鎖は途中で何かに引っかかる。子供は面倒そうにしゃがみこむと、もう片方の手で鎖の根元の砂を払った。
乾いて軽い白砂。その下からは、両眼を限界まで見開いた男の顔が現れる。
死んでからどれくらい経っているのか。茶色く変色した肌は水分を失ってがさがさと固まっていた。
幸い乾いた空気のせいか、それ程腐臭は酷くない。子供は顔に巻きつけた布がずり落ちかけるのを直すと、もう一度思い切り首飾りを引っ張った。死体の首に力がかかり、骨の割れる音がする。
ただそれでも首自体が折れてしまうには至らないらしく、鎖は軋む音を立てて止まったに過ぎなかった。
子供は諦めて両手で死体の頭を持ち上げ、鎖を抜く。贈り主である女の名が彫られた首飾りを、彼はよく見ることもせず懐に捻じ込んだ。そしてまた次の砂山へと向かう。
千を越える数転がる躯は、一つ一つ漁ったとしても日暮れまではかかるだろう。おまけに既に略奪が為された後の死体には、ろくなものが残ってはいない。
ただそれでも子供が一人生きていく為の戦利品くらいは集めることが出来るのだ。
麦粒を拾うように彼は身を屈めて砂を払い、死体に残る細々としたものを拾っていく。
その小さな足跡と乾いた遺骸の上には、また音もなく砂が降り積もっていった。



この国にいると、あらゆる感覚が麻痺してくる気がする。
それはアージェがいつからか抱いている懸念で、おおむね真実でもあった。
傭兵をしていた頃に見た戦場や、戦火に怯える町などとは違う平穏な空気。
子供の頃を過ごした村とも異なる、富んで落ち着いたケレスメンティアの現状は、大陸の何処にでも漂う諦観がないという点で、明らかに異質と言えるものだった。
そのような国の宮廷にて騎士の任を果たしている彼は、執務机の前に座す主人へと水を差し出した。
ぼんやり椅子にもたれかかっていたクレメンシェトラは、胡乱な目で彼を見上げると、小さく頷いてそれを受け取る。
「……迷惑をかけているな。すまない」
「仕事です。お気にされませぬよう」
青年の乾いた返事にクレメンシェトラは苦笑した。
彼女は水を一口嚥下すると、力尽きたのか背もたれに寄りかかる。深い溜息が後に続いた。
「これ程長い間、人の生身を動かしたのは初めてだ」
「負担が大きいのですか」
「そうだな……」
彼女は目を閉じたまま口元だけで笑った。初めの頃はあまり見ることがなかった擦り切れて柔らかな微笑に、アージェは眉を寄せる。

何故女皇に二つの人格があるのかという話になった時、ルクレツィアは理由の一つとして「表に出すぎてしまうと変化してしまうからでは」と言っていた。
もしそれが本当なら、クレメンシェトラは初めての長い負荷に変化をきたし始めているのだろうか。
神の意志を守り続ける女。その変化がこれからに影響してくるのか否か、アージェよりも彼の主人の方が分かっているだろう。
青年は、今もクレメンシェトラの中でこの会話を聞いているであろうレアリアに意識をやる。
人形めいた横顔に別の面影を見出そうとしている騎士。その思考を読んだわけではないだろうが、クレメンシェトラはほろ苦い微笑を浮かべた。
「そろそろこのままで居続けては、肉体にも負担過ぎるのであろうな」
ぽつりと零された言葉は、先延ばしにしていた問題がもはや避けられない段階に来ていることを示していた。
眠ったままのレアリアを置き去りに、自らは新しい体に移ることを躊躇っていたクレメンシェトラは、後悔に紫の瞳を曇らせる。
しかしその悔恨は何処かで、こういった別れは彼女にとって初めてではないのだろうと感じさせた。
アージェは表情を消して主人を見つめる。
クレメンシェトラの貌はただ澄んでいた。疲労が白い瞼に翳を落とす。
萎れかけた花がひどく優美に見えるように、彼女は肘掛にもたれかかり頬杖をついた。
「ケランら小国たちやコダリスは蠕動をやめぬ。これからしばらく諸国は荒れるだろう。
 さしあたって皇配を外から迎えることは避けた方がよいかもしれんな。動きにくくなる」
「そうですか」
素っ気無い相槌に女皇は笑った。
「どうだ? 公的にも私的にもお前がなれば一番問題が少ないぞ?」
それはクレメンシェトラにしてみれば、いつものように拒絶されることが当然の戯れであったのだろう。
しかしアージェは少し考えると顔色を変えぬまま返した。
「そうですね。少し考えさせてください」
「は?」
素っ頓狂な声は、ある程度は予想していたがアージェに苦笑を誘う。
しかし彼は、可笑しかったからといってそこで笑ってしまえるほど単純な性格でもなかった。結果真面目くさった顔で聞き返す。
「何かおかしいですか」
「……そんなことはない、と、思うが……」
言葉を途切れさせながらも、まだ何か言いたげな女皇にアージェは頷いた。
この件に関しては後でレアリアに確認を取ってから出方を考えようと思っているだけで、皇配になる気などやはりないのだが、彼が保留したということ自体クレメンシェトラには驚きだったのだろう。彼女は不審げな視線を青年に向けてくる。
「熱でもあるのか? 疲れているのならば休め」
「ありません。あなたよりも遥かに健康です」
「ならいいが……」
彼女はそれでも心配そうにアージェを見ていたが、手で口を覆うと小さく欠伸をした。長い睫毛が重みを増す。
「どうも駄目だな……長く起きていられない」
「お休み下さい。あとは政務官に任せます」
「すまん」
クレメンシェトラはそれだけ言うと、耐え切れなくなったのか目を閉じた。大きな椅子に埋もれるようにして細い体から力が抜けていく。
そうして頼りない姿となってから数十秒が経過した時、女はふっと目を開けた。
周囲を見回す青紫の瞳。鋭い視線が、最後にアージェを見上げる。
「アージェ」
「おはようございます。陛下」
レアリアは彼の挨拶に美しい笑みを見せて「おはよう」と返した。堂々たる仕草で椅子に座りなおす。
「あなたが優しいから、クレメンシェトラは安心しているわ」
「優しいですか?」
特にそのようなつもりはなかったアージェは意外に思った。
しかし、クレメンシェトラが現状に疑問を抱いていないというのなら事態は上手く進んでいるのだろう。
眠りがちな自分に代わって執務を執り行っている人間が、政務官ではなくレアリアであることを彼女は知らない。
それに気付かせないようアージェは巧みに女皇と周囲の緩衝材として立ち回っていた。
レアリアは投げ出されていた書類を手に取ると、上の一枚に目を通し始める。だがほどなくして彼女は書類を捲る手を止めアージェを見上げた。
「さっきの話なのだけれど」
「はい。どれですか」
「こ、皇配の……」
「ああ」
何か指示があるのだろうかと、アージェは女をじっと見下ろす。
けれど続く言葉は一向になく、ただ妙な沈黙が二人の間に立ちこめただけだった。レアリアはみるみる紅くなる頬を押さえると横を向く。
「わ、私はクレメンシェトラをこの体から逃がす気はないから……」
「…………」
それは半ば彼の予想していた未来だ。アージェの中に一瞬で様々な感情が去来する。
―――― 彼女の望む結末。自分はそれを守れるのだろうか。その先を引き寄せられるのか。
待っているもの、探しているものは可能性だ。彼はまだそれを諦めていない。
青年は肯定の代わりに白金の髪を指で手繰ると、黙ってその一房に口付けた。
光そのものの色。それは出会った時と変わらず、彼の黒い指にも優しかった。