盤上にて 166

国の興亡が激しい大陸において、年月を区分する暦を日々正確に把握している人間はあまり多くない。
生きることが第一の民たちは皆、自分の生活に必要なことだけを覚え、その日一日を足掻いていく。
彼らの多くが、月の満ち欠けや草木の様子などによって日々の経過や年の移り変わりを大まかに捉えており、覚えているとしてもそれは精々一年の終わりの日や祭りの日、親しい者の誕生日くらいのものであろう。
一方多大な苦労を経て生まれた国などはしばしば、未来の繁栄を夢見て自国の暦を制定するが、皮肉なことにそういった暦は国の記録の中などでしか用いられない。職務や研究などで年代を把握せねばならない者たちが、日常的に使用している暦は大半においてケレスメンティアのものであり、それは大陸暦と同義でもあった。

そのケレスメンティア暦では今年は千八百五十二年。
大陸では五十年前の大戦の深い傷痕の上に、約三十年もの間細かい傷が加えられ続けていたが、比較的波の小さかった小康時代もそろそろ終わりを告げ、新たなる厚い暗雲が訪れようとしていた。
周辺諸国からは猛禽の如く恐れられるコダリスをはじめとして、コダリスと日々敵対関係を深めているケランら同盟諸国、そして代々賢王が支配する国として大きな戦からは遠ざかっていた強国イクレムが、それぞれ戦の準備を整えているとの情報が広まっている。
また睨みあう三勢力だけではなく、イクレムと関係深いセーロンや強国に好意的な周辺小国、他にもコダリスに追従する二カ国などが加わり、大陸には五十年ぶりに十を越える国々が衝突しあう戦乱が起きるのではないかと、人々に予感されていた。
近づく暗雲を前に、戦火の届かぬであろう辺境を目指して旅立つ者、微かな希望を抱いて住み慣れた場所に残る者。
のし上がる好機を待つ者、己の才覚を持ってして大波をやり過ごそうとする者など、人々はそれぞれの考えを抱いて動き始める。
しかしそこに共通してあるものは拭いようもない諦観であり、多くの者が近く訪れる嵐を「起こって当然のもの」と、初めから不可避の運命であるかのように受け止めていた。

数多の人命を巻き込んで刈って行く嵐。
その欺瞞を知る数少ない女は、無数の死体が転がる戦場跡にて乾いた笑声を上げる。
「馬鹿みたい。こんなことをするならとっとと滅ぼしてやった方がよかったと思わない? 
 バルフィニロはそれをしたのに。あの大陸にはもう楔以外誰もいない」
砂に混ざる骨。クリュアは鈴を振るような声で笑い続けた。
傍らに立つネイは、神の血を継ぐ娘を忌まわしいものを見る目で見やる。
何と返すべきなのか、ケレスメンティアで生まれ別大陸に渡った男は小さく息をついた。
「神の意志が未だに人の生を左右しているというのか?」
「楔がある限りは。そうでしょうね」
「お前も楔なんだろう?」
「父は人が自由であることを望んだわ。一番最後に現出した父は、自分たちが憧憬によって生まれた存在であることをよく覚えていた」
途方もない過去の話。まったくそれに共感を覚えないネイは、足下に転がる白い頭蓋を見下ろした。
大人のものより一回り小さく見える骨は少年兵のものであろうか。彼はそこにかつての自分を見る。
国を飛び出したあの日、子供だったレアリアは去っていく彼の背を透き通る目で見つめていた。
不変を命じられた楔が大陸に残る神の意志だというのなら、あの日彼女がそうして彼を見送ったことも神の掌の上であるのだろうか。
呪われた異能から今は解放されている男は、何処までもつきまとう苦々しさを味わう。
ネイはそれら影を振り払うようにかぶりを振った。
「遺跡に関しては可能性があるところを全て見てきた。ほとんどが空っぽだったがな」
「神具が残ってるところはあった?」
「三つ程。印を置いてきたがそれで分かるのか?」
「充分充分。他には?」
「神具があったと思しき場所は他に五つ。持ち出されたのか壊されたのかは分からない」
「選出者が全部で十二人で、そのうち神具貰ったのが十一人だっけ? 全然足りないじゃないの」
「俺に怒るな」
神代から二千年近くが経過していて、それでも所在の分かる神具があること自体、奇跡のようなものだろう。
ネイは、歴史上実在を確認された神具と言われている武具を記憶から拾い上げてみる。
高名なシノンの弓をはじめとして四つ程思い当たるそれらは、破壊されたという説もあるが、激動の中で行方不明になったままだという話もあった。
やはり全ての神具を追うなど到底無理な話であろう。ネイは雲の多い空を見上げる。
「大体、神具を見つけてどうする? お前には必要ないものだろう」
「私にはね。でも使える駒は多い方がいいし。馬鹿に渡って変な使い方されても困るから」
飄々とした神の娘が何を考え何をしようとしているのか、同伴者である彼は知らない。
クリュアは人の遺骸で埋め尽くされた砂地を眺め渡すと、軽く指を弾いた。
途端、全ての骨は形を失い、さらさらとした白砂となって地に溶け入る。
それが慈悲であるのか否か、ネイには分からなかった。彼は泰然とした女の横顔を眺める。
「お前も半分は人間だったか」
「母は人間だったわね」
未だ神の意志に左右されている大陸。
別大陸から来た女は、ならばここにも父が重んじたという自由を与えようというのか。
無言のうちに真意を問う男の視線に気付いたのか、クリュアは軽い声を立てて咲った。
「人がどうなるかなんて、最後にはやっぱり人が決めるのよ」
砂を舞い上げる風。少女は手で髪を押さえ、目を閉じる。
神代より変わらないというその姿は、美しくはあったが何処か別の世界に立っているかのように、ネイには見えたのだった。






意識を集中する。
それが極限まで上手くいった時、相手の剣先は緩やかな速度の中にあるように見えた。
アージェは自分に向かって突き出されたそれを、ぎりぎりまで引きつけて避ける。
軽く身を斜めにするだけの最小限の動作は、稽古時によくアナがやっていたもので、彼女は相手の攻撃を見切ることが上手かった。
青年はしかしそこでは終わらず、がらあきになった相手の脇腹を手で突く。
訓練中とあって鎧を身につけていない男は、小さな呻き声を上げて態勢を崩した。すかさずアージェは長剣を男の眼前に突きつける。
お互いの視線が衝突する一瞬。暗黙のうちに二人は二人とも力を抜いて距離を取った。
手合わせの終わりを示す礼。近くで観戦していたエヴェンが感心の声を上げる。
「アージェ、お前、最近どんどん動きがよくなってきたな。何かしたのか?」
「まぁ色々。研究中」
「ふーん? じゃあ、次俺とやるか」
「よろしく」
アージェはそれまで手合わせしていた親衛隊の騎士に礼を言うと、エヴェンに対する為に剣を握りなおした。額の汗を袖で拭う。
自らの無駄を自覚し基礎の型をアナから習った青年は、今は騎士たちの動きをよく観察して自身の剣を確立させようとしているのだが、当面の目標はやはりエヴェンである。ケレスメンティアでも屈指の腕を持ち親衛隊の筆頭騎士となっている男に、勝率五割以上を保てるようになれば、あとは経験次第だろう。
ここのところ実戦から遠ざかっているアージェは、そのことを不安に思いつつも今は自分の動きを見直す時期だと考えていた。
顔立ちだけ見れば優男であるエヴェンは、不敵な表情で剣を構える。
アージェは自身もそれにならいながら、視界の隅に見える観戦者たちを一人一人確認した。最後にその全員を意識から締め出す。
「いいか?」
「いいよ」
軽い応答。アージェは剣を構えるエヴェンを見返した。
練習用の長剣とそれを握る腕。切っ先から肩までを一本の線として捉えた時、エヴェンは剣を上げ踏み込んでくる。
まずは様子見と上から打ち込まれる長剣を、アージェは己の剣で受けた。
手首に伝わる衝撃。彼は剣を軽く押し返す。だがエヴェンはその場から下がらず、今度は左脇を狙ってきた。
アージェはその攻撃を剣を縦にして受ける。そしてそのまま相手の刃上を滑らせ、正面にいる男の胴を切り上げようとした。
エヴェンはしかし自身の剣に力を加え、向かってくる切っ先を逸らす。
すかさず側面に回りこんでこようとする男に、アージェは牽制で蹴りを放った。
息をつく間もなく振りかかる三度目の斬撃。
次第に速度を上げてくる攻勢に、青年は意識を縒って保つ。少しずつ知覚する世界が緩慢になっていくように感じられた。
剣を振る動作、刃を払う動き、足捌きや体重の動かし方まで手に取るように分かる。
アージェは落ち着いてエヴェンの攻撃を防ぐことに集中し続けた。

剣の腕はともかく、持久力においてはエヴェンよりアージェの方が上であるらしい。
長く続いた打ち合いのすえ休憩を入れることになった時、若干の疲労を滲ませたエヴェンは、呆れた目で平素と変わらぬアージェを眺めた。
「お前、無駄に体力あるのな」
「無駄って何」
「防戦ばっかしてないで攻撃して来いよ。疲れる」
「だから研究中だって。それにこういうことに慣れてると、殺しちゃ不味そうな人間相手にする時役立つ」
「何だそりゃ。どんな相手だよ」
「ケランの王とかさ」
以前ひょんなことから剣を交える羽目になった男のことを口にすると、エヴェンもその話を聞いていたのか「ああ」と納得の声を上げた。
「そんなこともあったんだってな。っていうかお前、ケランの王に会う時どうするんだよ。気まずそうだな」
「会わないからいい」
「会う可能性は高いぞ」
断定的な言い方にアージェは首を捻る。
二人は訓練場の隅に移動すると、草の上に直接腰を下ろした。エヴェンは剣を脇に置いて空を仰ぐ。
「今、ケランの同盟とコダリスが小競り合いやってるの知ってるだろ?」
「うん」
「あれコダリスの方に他の国がついて、同盟側が劣勢になってきてる。
 ケレスメンティアとしてはガージリアとクアイスを仲裁した件もあるし、同盟の方に救援を出すかもしれないわけだ」
「ああ」
そういった状況になれば、確かに盟主国の王とディアドは顔を合わせる機会があるかもしれない。
アージェは面倒な予感を抱いて頷いた。
「顔でも隠していくか」
「余計怪しいだろ。まぁ向こうも援助される側だし、何も言わないとは思うけどな」
当然と言えば当然の補足にアージェは肩を竦める。彼は脇においた剣に視線を落すとぼそりと呟いた。
「それはそれとして。エヴェンに勝てるようになったら次は誰にするか……」
「気が早すぎるぞ若輩。俺はまだ負ける気はない」
「そういや軍部総将って強いのか?」
ほとんど接点のないケレスメンティア軍の頂点にいる男。その強さについて問うと、エヴェンは乾いた笑いを見せた。
「ガイザス将軍か。あの人は岩山みたいな人だ」
その声音は彼にしては珍しく、苦味を帯びた響きに満ちていた。