盤上にて 167

訓練場を後にしたアージェが執務室に戻った時、そこにいたのはクレメンシェトラであった。
執務机を前に椅子の上で両膝を抱えていた彼女は、青年を見てほっと肩を下ろす。
「何だ、お前か」
「どうしてそんな格好なんです」
「落ち着くから」
ばつが悪そうに首を竦めて、クレメンシェトラは己の膝を抱えなおした。
レアリアならばまず執務室でしないであろう姿勢は、他の人間に見られたら不味いことになるに違いない。
しかしクレメンシェトラは、アージェが来たことで安心してしまったようにますます体を縮こめた。
彼女は膝の上に乗せていた書類を眺める。
「近いうちに国外に出ることになるかもしれぬ」
「ケランですか?」
先程の会話を思い出しながらアージェが問うと、クレメンシェトラは首肯した。
「そうだな。他にも可能性はあるが」
「と仰いますと?」
「コダリスが少々鬱陶しい。勢いづいているだけの国であるならば放置も出来るが、あの王は厄介だな。
 これからの状況によっては排除も視野に入れなければならないだろう」
クレメンシェトラは膝に乗せていた書類を指で机上へと弾く。
諸国の現状について記した一枚は、ふわりと空気を孕んで他の書類の上に舞い降りていった。
女皇は両手を揃えて小さな顎を乗せると溜息をつく。
「均衡を取るというのは中々面倒なことだ。時には一人の存在で容易く動いてしまう」
「コダリスの野獣がいなくなればましになるということですか?」
「野心か才覚か、どちらか片方のみの人間であればそこまで害はないのだがな」
苦笑は肯定と同義であろう。
大陸に現存する国家の中で、ここ百年もっとも他国に侵攻した回数が多いのはコダリスだ。
それも九割が今の王シャーヒルの治世に起きているというのだから、どれ程の危険人物か容易に分かるというものだろう。
ただコダリスはそうして十を越える国を滅亡に導いた代わりに、自国の領土を広げることはほとんどしていない。
シャーヒルは周辺諸国に己の力を見せつけ、その報酬のように徹底した略奪を行うだけで、また自身のねぐらに戻ると爪を研いで次の獲物を選ぶのだ。
陰謀家でも知られる男はそのため多くの国の忌避を買っているのだが、長らくコダリスと無関係でいたケレスメンティアも、不穏な情勢を前に黙っていられなくなったのだろう。
アージェは未だ顔を見たことのない男と、その娘のことをまとめて思い出す。クレメンシェトラが自嘲気味な目を向けた。
「ダニエ・カーラについても何とかせねばな」
「ええ」
それについてアージェは、誰よりも自分の負う責が大きいと思っている。
ディアドである以上、勝手に国を離れることは出来ないが、もしこの立場がなければおそらく彼女を抑えにコダリスまで行っていただろう。
クレメンシェトラもまた憂いの濃い目で彼を見上げる。
「ケレスメンティアは基本何処の勢力にも傾倒はしない。
 コダリスと相対するとしても、こちらから相手の本隊を叩くことは避けたいのだ。
 やるとしてもせいぜい同盟の支援として向かわせた後方軍を『コダリスに襲わせる』ことくらいであろう。
 もしそうなった時、シャーヒルを殺せるか?」
「ご命令下されば」
相手が誰であろうとアージェには関係ない。
シャーヒルは自身も戦士として名を馳せている人間だが、年齢は既に四十代後半だ。
戦場でまみえればその首を落すことも可能だろう。むしろ厄介なのはイリデアの方かもしれない。
どうやって彼女を無力化させるかアージェが考え始めた時、クレメンシェトラはようやく足を下ろした。眠そうな目で今度は机にもたれかかる。
「それよりイクレムの方が何を考えているのか分からぬな。機に乗じてコダリスを討つつもりか違うのか……」
「…………」
イクレムが何をしようとしているのか、それはアージェにも分からないことだ。
レアリアは彼より多くを把握しているのだろうが、彼女はそれを教えることに躊躇いを見せた上、彼自身も聞くことを断った。
嘘が下手だとあちこちで言われてきたアージェは、自分がそれを知った状態でクレメンシェトラを欺ききれるかどうか、いささか自信がなかったのだ。
その点本当に知らないことであれば反応に迷う必要もない。細かいことはその度ごとにレアリアに確認を取って行けば確実だろう。
知らないからこそ沈黙を保つアージェに、クレメンシェトラは軽い問いを投げかけた。
「お前はイクレムと揉めたこともあっただろう? フィレウスの人となりをどう思う?」
「そこまで接触があったわけではないですから。……ああ、そう言えばやけに継承者に執着していましたね」
「お前が神具を破壊した時のことか」
クレメンシェトラの笑い声に、アージェは少しだけ眉を寄せる。
少年時代の一件は、既に遥か遠い日のことに思えたが、だからと言って忘れてしまったわけではなかった。
青年は目を伏せて視界の半分に過去の記憶を見る。
「イクレムも神具が欲しかったのでしょう。
 あの時フィレウスは、コダリスを威嚇する為に充分な力を手に入れたがっているように見えました」
「結局はコダリスが問題か」
クレメンシェトラの嘆息を聞きながら、だがアージェは引っかかるものを覚えて沈黙した。
あの時、フィレウスの執務室でアリスティドと引き合わされた時のこと。その時、確か何かを聞いた気がするのだ。
今聞けば違和感に気付いたであろうそれは、しかし当時のアージェにはおかしさが分からなかった。
それが一体何であるのか、思い出そうとして青年は押し黙る。クレメンシェトラが彼の顔を覗き込んできた。
「どうした?」
「いえ。確かイクレムは、陛下の皇配を出そうとして王太子の弟が死んだんでしたっけ」
「ああ住んでいた離宮が放火されたからだと言われているが、おそらく襲撃を受けたのだろうな。
 セノワとかいう名であったか……こちらに責はないとはいえ、気の毒なことをした」
「襲撃犯はコダリスですか?」
「そうとは発表されていないが、その可能性は高いだろうな。
 現にイクレムとコダリスの関係は元々よくはなかったが、あの一件から更に悪化している」
「なるほど」
机に突っ伏すクレメンシェトラを見ながら、アージェはしかし自分が違和感から遠ざかってしまったという印象を抱いた。後でレアリアに確認してみようと意識の隅に置いておく。
女皇は眠気に抗っているのか、自分で髪の一房を引っ張った。
「何か話してくれ。気が紛れる」
「話していたら執務が出来ませんよ。眠かったらお休みになってください」
「あまり眠りたくない。現実に戻ってこられなくなるような気がする」
ぼそりと吐露された言葉は、抑揚はなかったがその分、彼女の不安が凝縮されているような気がした。アージェは驚いてクレメンシェトラを見やる。
「限界が近いのですか?」
「分からぬ。このようなことは初めてだ。自分が何もかもから切り離されているような気がする」
白い瞼が、夜露を滑らす花弁のように重みを増す。しかし彼女は目を閉じることはせず、薄く開けた目でアージェを見た。
透徹した紫の瞳。虚実を見通すかのような感情のない眼差しに、青年は内心緊張を覚える。
彼女はけれど、何を弾劾することもなく視線を逸らすと、机上に置かれた黒い硝子ペンを注視した。
クレメンシェトラがよく握りにくそうにしているペンは、優美で冷ややかな姿をペン立てに佇ませている。
それを見ていた彼女は、不意に顔から微笑を消した。
「お前に残せるものもそう多くはないかもしれぬな……。苦労ばかりをかける」
「そのようなことは」
―――― 途端沸き起こる罪悪感は、容易には割り切れるものではない。
ただアージェは、自分がそれを抱いていることを誰にも悟らせまいと思っていた。
レアリアにもクレメンシェトラにも、気取らせてしまえばそこに生まれるものは彼女たちへの甘えであろう。
無表情を保つ青年に、クレメンシェトラは穏やかな声をかける。
「私自身が持つものなど極僅かだ。蓄積された断片の記憶だけで……あとは皆レアリアのものだ。
 面倒に付き合わせた分、何か礼になるものを返せればと思うのだがな」
「不要です」
きっぱりと断じながらも、しかし彼は決まりの悪さに顔を顰めたくなった。
クレメンシェトラの引き摺る自責。何処から始まっているのかも分からぬそれは、いつまでも途切れぬ気配を漂わせている。
おそらく彼女が楔として生きている限り、負うものは増えこそすれ減じることはないのだろう。
そして盤上の外にまで続く悔恨の、まさに先端に置かれているアージェは、自分の存在が彼女を苛んでいることにちりちりとした咎めを味わっていた。困ったような紫の瞳から目を逸らしたくなる。
青年はクレメンシェトラの気分を切り替えようと口を開いた。断片の記憶という言葉から思い出したことを問う。
「ならば少し、お伺いしてもいいですか」
「何だ?」
「昔、知人が探していたものなのですがご存知ですか? 終わりの箱と真実の扉について」
それは、今は亡き二人がそれぞれ探していたものだ。神具よりも御伽噺めいた伝説。
あるはずのない夢物語のようなそれらはアージェに、子供の頃寝台で聞いた話のような郷愁を呼び起こした。
クレメンシェトラは執務机から体を起こす。
「終わりの箱と真実の扉?」
「やはり存在しないものですか? 開ければ全ての戦がなくなるという箱と、全ての真実を閉じ込めた部屋の扉。
 俺も人伝に聞いた話なんで、何か間違ってるかもしれませんが」
「いや…………ああ、そうか、なるほど! あれのことか」
「実在するんですか?」
「実在というか、あれは―――― 」
女の言葉はそこで途切れた。
ふつりと明かりが消えたようにクレメンシェトラは沈黙する。
同時にそれまであった表情も、まるで心を剥ぎ取ったかのように白い貌から消えてしまった。
アージェは驚いて女皇の顔を覗き込む。
「陛下?」
呼びかけても彼女は微動だにしない。青年は脈拍を確かめようと細い首に手を伸ばした。
しかしそこで、クレメンシェトラの両眼に光が戻ってくる。
彼女は首に触れている男の手を見下ろすと目を丸くした。
「どうした?」
「いや、それこっちの台詞……」
「何かあったのか? ……何の話をしていた?」
嘘をついているのではない本気の問いかけに、アージェは思わず息を飲んだ。躊躇いながらも答える。
「終わりの箱と真実の扉についてです」
「ああ、そうだったな。しかしそのようなものの話は知らないぞ。大方後世の作り話であろう」
クレメンシェトラは苦笑すると「期待を裏切ってすまないな」と付け足した。
何らおかしなところはない自然な様子に、アージェは自分が幻覚でも見たのかと疑う。

一時間後、現れたレアリアにアージェは「何かしたのか」と確認したが、彼女もそれを訝しんでいただけだった。
そしてそれきり彼は二つの伝説について、やはり御伽噺なのだろうと、当面の意識の中から追いやってしまったのである。