盤上にて 168

夜陰の中、遠くで微かに人の悲鳴が聞こえた。
既に仮眠の準備をしかけていたケグスは、それに気付いて跳ね起きる。素早く小声で周囲の人間たちを起こした。
「起きろ。何か来た」
「何か?」
男たちは最初の一言こそ怪訝な声を上げたが、皆歴戦の傭兵たちである。
すぐに何も言わず武器を取り、靴の紐を確認した。うちの一人がぼろぼろの木の扉に耳を寄せる。

彼らがいる場所はケランより南東にある小国エファミである。
コダリスと国境を接しているこの国は、その位置関係にもかかわらずシャーヒルの標的になったことがない稀少な国だ。
それは先代王の時代から友好的な関係を保っていたからとも、また武器の材料となる鉄鋼を多くコダリスに上納しているからとも言われているが、半ば属国的な扱いを受けているエファミが、実は隣国の支配から脱したいと考えていることは、秘された事実である。
表立っては同盟に属していないエファミは、けれどケランより内密の打診を受け、来るべき大規模な衝突でコダリスの側背をつくため自国内に同盟軍を引き入れる準備をしていた。 その為の先行隊として、コダリス側国境まで馬で約三日程の廃街に到着していた傭兵部隊は、けれど周辺を偵察し終わったその夜、何者かの襲撃に遭遇する。
見張りを交代して休憩を取っていたケグスたち七人は、扉越しに様子を窺うと、すぐに寝床にしていた空き家を裏から脱出した。
ひとまず敵のいる方角から距離を取りつつ、意見を交わす。
「相手は何だ?」
「分からん。ただ野盗の類じゃなさそうだ。かなりの人数いるようだし魔法士が混ざってる」
「まさかコダリスか?」
「コダリスが国境を越えたという知らせは入ってきていないが、転移座標くらいは取られているかもしれないな」
軍隊を移動出来る程の大規模転移用の座標は、本来なら他国に知られていないことが普通であるのだが、エフェミはその歴史からしてコダリスに国内座標を把握されている可能性もある。
そうでなくとも侵入してこようと思えばどのようなやり方でも入ってくることが出来るだろう。
むしろ相手がコダリスであるのなら、何故侵入してきたかの方が余程問題だ。
七人は夜の中、足音を殺して路地を移動する。遠くで剣の鳴る金属音が聞こえた。
先頭を走るケグスに後ろの男が問う。
「どうする? 相手を確かめるか逃げるか」
「確かめろと雇い主は言うだろうな。俺たちがここで死んでもあちらさんには痛手にならない」
「といっても、どれだけ敵の総数がいるか分からない。退いた方が賢明だ」
「だが敵も多くなかったらどうする?」
状況を把握するのか撤退するか、結論は容易に出せない。ケグスは面倒なことになったと顔を顰めた。
「ともかく他の奴らと合流しよう。礼拝堂地下まで行けば三十人くらいいるはずだ」
この村には約七十人の傭兵部隊が先行してきている。
本来偵察などには向かない彼らが選ばれたのは、万が一衝突前にコダリスに発見されたとしても正規軍でなければ言い訳が立つという理由が一番ではあったが、開戦後はこのまま遊撃部隊としてコダリスを奇襲する意味もあった。
同盟の対ケラン布陣はここだけには留まらず各所で進行している。
今現在コダリス軍との衝突が起きている箇所もあると噂で聞けば、偵察任務で報酬が貰えるということはありがたいのかもしれない。
ただその衝突がいつ自分のところに回ってくるかは、局所しか見られぬ彼らには予想もつかないことであった。
ささいな探し人の依頼から始まって、長く戦場を渡り歩く羽目になってしまったケグスは、もはや溜息も使いきって路地を曲がった。
街の中央にある大きな礼拝堂。その影を探そうとして、しかし咄嗟に足を止める。
急に止まったことにより、彼の背に後ろから来た男が衝突した。
「何だよ」
「待て」
何故留められたのか、他の男たちもすぐに分かった。
夜の闇を照らす赤い火。それがこれから向かおうとしていた建物を燃やしていることは方角で分かった。
彼らは緊張に喉を鳴らして顔を見合わせる。
「逃げるか」
「というか、退いて国に連絡を入れなきゃ不味い。こっちの魔法士は生きてるのか?」
「普通真っ先に殺される」
結論にもならない結論が出ると、男たちは頷きあい次々向かう方向を変えた。街の外に出ようと走り出す。
夜の空に立ち昇る煙を見ていたケグスは、少し遅れてその場を動いた。
「まったくろくなもんじゃないな……」
吐き捨てた声が消え入るか消え入らないかのうちに、しかし先の角から悲鳴が聞こえる。
ケグスは無言で長剣を握ると仲間たちが消えた角を曲がった。そしてさすがにぎょっと息を飲む。
闇の中に没した路地。そこには一人の女が彼に背を向けて立っていた。
他には誰もいない。先に行ったはずの傭兵たちは皆、女の周囲にうつ伏せになり、重なり合って倒れていた。
ケグスは女の右手が血に染まっているのを見て、何も言わずに長剣を構える。
相手が魔法士であるなら誰何の時間も惜しい。彼は呼吸の間もおかず踏み込んだ。女の薄い背を狙う。
黒い絹服越しに彼女の体を貫くはずの剣先。しかしそれは標的に届く直前で静止した。
ケグスは反射的に剣を引き、大きく後ろへ跳ぶ。
―――― 死角からの攻撃を完全に止められる程、強固な防御結界を張っている魔法士などそうはいない。
それなりに腕の立つ傭兵たちが一瞬で無力化されたこととあわせて考えると、尋常な相手でないことは明らかだった。
即座に相手から見えぬところへ移動しようとするケグスを、彼女は気だるげに振り返って見やる。
若く美しい女。初めて会うはずの女はけれどその時、彼を見て黒い目を大きく見開いた。
何に驚いたのか分からぬそれだけの変化。しかしケグスは、何かを感じて口を開く。
「ダニエ・カーラ?」
「お前……」
どうしてそう思ったのか、彼自身よく分からない。
ただ女の黒い瞳に見えたものが、何故か彼の弟子にまとわりついていた残滓の女を思い出させたのだ。
甘ったれでひどく短気だった選出者の女。彼女と直接言葉を交わしたことは二度程しかないが、その印象は強烈だった。
女は瞠目した表情を元に戻すと、不機嫌そうに吐き捨てる。
「さっさとどっか行っちゃえば」
「は?」
「次は見逃さないから」
拗ねた子供のようにそれだけを言うと、女の姿はその場から掻き消えた。
唖然としたのも束の間、我に返ったケグスはすぐに別の路地へと走り出す。

この晩、襲撃を受けた先行部隊のうち、街を脱出できた者は僅か十数名に過ぎなかった。
彼らの証言からこれがコダリスの仕業であると判明し、ケラン同盟には緊張が走る。
水面下で同盟に協力を約束していたはずのエフェミ王が突然の死を遂げたのは、この二週間後のことだ。
そしてシャーヒルは、新王が即位したエフェミを加え四ヶ国の連名の下―――― 同盟に宣戦布告を行った。






毛足の長い敷物の上には大陸全土の地図が広げられている。
その上に駒を転がすシャーヒルは、片胡坐をかいて敷物に直接座りながら、隣に寝そべる娘の頭を撫でていた。イリデアは澱んだ瞳で地図の上の駒を眺める。
五十歳近くには見えない逞しい肉体を持つ王は、太い指で己の顎髭を摘んだ。
「さて、これで若造どもがどうでるか見物だな」
野獣と恐れられる男。彼にとって他国への侵攻はいわば子を養う為の狩りのようなものだ。
コダリス本土は決して恵まれた土地ではない。国土の四割以上は南西にある砂漠から常に風に乗って砂が入り込み、農作物を育てることが難しい上、他に目立った産業や採出物があるわけでもない。
そのような状況で、民を飢えさせない為に彼が選んだ手段は戦争と略奪だった。
他国を襲い、その戦利品で国を潤す。
武器を始めとする軍需品は、属国から安く材料を買い上げて国内の職人に作らせ、平民にまでその利益が行き渡るようにした。
侵攻においてシャーヒルが諸国から忌避される程の獰猛性を見せ付けているのは、報復の意欲を削ぐ為であり、支配地を広げないのは今いる国民だけが彼にとって養うべき存在だからである。
他者の住む土地を奪えば報復は必ずやって来る―――― そう考えるシャーヒルは彼なりに己の分を守っており、コダリスの民からは頼れる王者として高い人気を誇っていた。
平素には潜在的な敵国の力を策謀によって削ぐに留めている男。
その彼が今回同盟に宣戦したということは、周囲の人間からすると意外なことであったろう。
他国からの印象とは別に、シャーヒルは無駄な出兵を嫌う。
確実に勝てる敵を屠ることが彼の本分であり、そこからするとケラン同盟はいささか手を焼く相手であった。
イリデアは楽しげな父を見上げる。
「宣戦してよかったの? ケランたちはセーロンにぶつけてやる気なのかと思っていたわ」
「最初はそのつもりであったがな。ケランの小僧は余程儂が憎いらしい。友が死んだのは儂のせいではないというのに」
「殺してしまえばいいわ。私がやってもいい」
「イリデア」
呼ばれた名は、重みを持って彼女に圧し掛かった。イリデアは僅かに蒼ざめる。
ひょんなことから手に入れた力を容易く振るおうとする娘に、シャーヒルは底知れない笑みを向けた。
「気がはやるのは分かるが、お前は兵士ではない」
「でも」
「そうへそを曲げるな。いずれ機はやって来る。
 ……儂も若造たちの気にあてられたか、少し欲が出てきた」
「欲?」
それはどういう意味でのことなのか。イリデアにとって父は、元から欲を隠すような人間ではなかった。
怪訝そうな顔をする女に、シャーヒルは剣傷のついた右手をかざす。
ほんの少年時代から戦場で獰猛に戦ってきた男の手は、日に焼けて厚い皮を持っていた。そこに刻まれた深い皺に、イリデアは目を細める。
「歴史に名を残してやろうなどと思っているわけではないぞ。名で腹は膨れぬわ。
 ただな、一度でいい。思うが侭に力を揮い、己を試してみたくなった。生意気な小僧どもを捻じ伏せて頂に手をかけてみたいとな。
 ―――― このような欲が出てきたのは、老いた証拠かもしれん」
にやりと笑って見せる男は、しかしこの時彼女の目には少年のように見えた。
イリデアはぽつりと聞き返す。
「だから宣戦を?」
「五十年前の大戦時に儂が父であったならどうしていたか、若い頃は毎夜考えていたものだ」
悪戯めいた返答に女は目を瞬かせた。
理解出来るような出来ないような男の野心。彼女はそれに呆れながらも文句を言うことはしない。
父とは違った意味でイリデアもまた野心家なのだ。彼女は両手をついてゆっくりと体を起こした。
「ケランを潰したら後はどうするの?」
次の標的はイクレムかセーロンだろうか。終わりがあるのかも分からぬ父の欲の先を、イリデアは尋ねる。
シャーヒルは貪婪な目で地図上の駒を眺めた。
「さて……泥の味を知らぬ女を引き摺り下ろしてやってもよいかもしれぬな」
男の視線の先にあるものは白い女王の駒。
イリデアはそれを見て、赤い唇を吊り上げて笑った。