盤上にて 169

「宣戦になったか」
クレメンシェトラは執務椅子に膝を抱えて座りながら、まるで物を放るようにそう言った。
ただ事実を確認するだけの言葉。そこには嘆きも気負いも感じられない。アージェは若干の倦怠感を抱えて姿勢を保つ。
「規模が日に日に広がっていきますね。ケラン側とコダリス側あわせて十一ヵ国ですか」
「そのほとんどが小さな国だ。皆自国だけで戦うのは不安だが、周囲が立てば欲も出るのだろう。
 味方を利用し巧く立ち回れば、賭けた以上のものが手に入る」
クレメンシェトラは子供たちの砂山遊びを見るように嘯いた。母親には見えない、だが永くを見てきた目が苦笑に細まる。
アージェは薄ら寒さに顔を顰めたくなった。
「同盟に救援を出しますか?」
「まだ早い」
クレメンシェトラはきっぱりと即答する。注意深く天秤を見つめる商人の如く、紫の瞳が机上の簡略地図を見た。
「ろくに始まってもいない今介入しては、ケレスメンティアの公平は疑われる。爪の長すぎる王を盤上から弾くとしても機を見なければな」
「手遅れになりませんか?」
「そのようなことを言うなら全てが手遅れだ。もっとも私は、何一つ手遅れなものなどないと思っているがな」
最古の女皇はそこで話を区切ると、両手を上げて大きく伸びをした。
気紛れに見える姿。だが不意に目眩でも起こしたのか、彼女は姿勢を崩して倒れかける。その体をアージェは脇から支えた。
「気をつけてください」
「……平気だ」
青年の手を借りてクレメンシェトラは姿勢を戻す。
彼女はそうして机上から一枚の白紙を取り上げると、そこに何かを記した。同時にまるで見計らっていたかのように執務室の扉が叩かれる。
「入りなさい」
間髪置かず入ってきたのは、扉枠に頭をぶつけそうな程の大男だった。
短く刈り込んだ髪にむすっとした顔。怒っている訳ではないのだろうが強面の容貌は、子供が見たら慄くことは確実である。
騎士とは異なる黒服に身を包んだ男は、ケレスメンティア軍の頂点に立つ軍部総将ガイザスであった。
いつも飄々としているエヴェンでさえも一目置いているらしい彼は、その巨体にもかかわらず少しの足音もさせずに執務室の床を踏む。
ガイザスは女皇の傍にいるアージェを一瞥すると、改めて主君に向かって一礼した。
愛嬌のまったく見られない無骨な男に、クレメンシェトラは今しがた書き上げたばかりの一枚を差し出す。
机の前に歩み寄った彼は、丁重にその書類を受け取った。
「軍の移動でございますか」
「そうよ。いつでも出られるように準備しておきなさい。伸びすぎた草を刈り取る手が必要だわ」
「承知いたしました」
もう一度頭を下げ踵を返すガイザスに、アージェは表情こそ変えなかったが焦りを覚えた。
―――― 今までクレメンシェトラが、直接臣下に命令書を渡してしまったという事例はほとんどない。
命令の伝達はアージェが間に入って行っており、そこでレアリアの確認を取って、場合によっては修正の手を入れていたのだ。
今回も些細な内容であれば流してしまっても問題ないだろうが、戦争介入の為の軍の移動とあっては見過ごすことは出来なかった。
アージェは短い時間で決断すると、クレメンシェトラの傍を離れガイザスを追いかける。
「すみません」
扉に手をかけていた男は、ディアドに呼び止められ真顔のまま振り返った。
他の者であったら怯んでいたかもしれない重い眼光。けれどアージェはそれに物怖じせず、軽く会釈する。
「それを見せて頂いてもよろしいでしょうか」
「何故だ? いくらディアドであっても無礼であろう」
突然の要求に驚きもせずガイザスは返す。クレメンシェトラは目を丸くしていたが、アージェは彼女を振り返らなかった。
青年は真顔のまま重ねて要求する。
「ケレスメンティアの軍についてほとんど知識がありませんので、勉強の為に」
ディアドには軍の指揮権はない。
その為アージェはこの言い訳が通用するかどうか、いささか自信がなかったのだが、ガイザスはじっと彼を見返すと頷いた。
「分かった。―――― 陛下、よろしいでしょうか」
「あ、ああ」
クレメンシェトラの返事が素であることに内心呆れつつ、アージェは差し出された命令書を受け取る。
そこには城都が擁する全軍のうち約三分の一を、西部砦に移動させる旨記されていた。
機が満ちればそこから国外に転移させるつもりなのだろう。三年前のログロキアへの介入もこの砦から移動して行われたという。
アージェは具体的に上げられている指揮官たちの名前を確認して、それをガイザスへと返した。
男は受け取った書類を懐へとしまう。
「勉強になったか?」
「はい。ありがとうございます」
「もっと多くを知りたいと思うなら私のところに来ればいい。意欲があるうちに学べば吸収も早い」
岩山のような男はもっとらしくそう言うと、執務室を出て行った。
戻ってきたアージェに、クレメンシェトラは驚きの抜けぬ声をかける。
「指揮に興味があったのか」
「それなりには」
アージェが平然と答えると、女皇は「そうか」と困ったように微笑んだ。



レアリアが目覚めた時、日は既に沈んでいた。
夕食後すぐに強い眠気を訴えたクレメンシェトラを、抱き上げて部屋に運んでいたアージェは、腕の中で女が身じろぎする気配に視線を落す。
「陛下」
まだ半覚醒の只中にいるのか、レアリアは焦点の定まらぬ目を己の騎士に向けた。
小さな唇が動いて彼の名を呼ぶ。
「アージェ」
囁くようなか細い声は、甘く重くアージェの中に響いた。彼は表情を消し軽い体を抱きなおす。
「もう少しで部屋につきますので」
「うん……」
こくりと頷いたレアリアは、しかし次第に意識がはっきりしてきたのか僅かに赤面した。アージェの服をそっと引く。
「あ、あの、下ろして」
「あと少しですよ」
「でも重くない?」
「軽いです。もう一人分くらいは平気」
「…………」
彼としては本当のことを言ってみたのだが、レアリアは何とも言えない表情で黙り込んでしまった。
付き従っていた二人の女官たちが背後でくすくすと笑う。
まもなく女皇の私室に到着すると、彼女は人払いをしてアージェに向かった。
「昼の命令書、見たよね?」
「見ました」
「思い切ったことするから吃驚した」
苦笑するレアリアに、アージェはようやく自分の行動があまり意味のあることではなかったと思い至った。
クレメンシェトラが起きている時であっても、レアリアはその五感を受け取ることが出来るのだ。
干渉することは出来ずとも、彼女はクレメンシェトラが書類に何を記したか知っているはずだ。
後で彼女が困るかと思い無理矢理その内容を確認してきたアージェは、気まずさを隠す為に近くの椅子の背に寄りかかる。
向かいの長椅子に座ったレアリアは、けれど彼の行動についてはそれ以上言及せずに、思案する視線を薄暗い部屋に泳がせた。
「あの命令自体はいいと思うのだけれど……もう少し兵力を割きたいくらい」
「変更させますか?」
「そうね……」
女皇から一度直接下された命を変更するには、多少の用心が必要だろう。上手く立ち回らねばクレメンシェトラとガイザス両方の不審を買ってしまう。
主人の決定を待つ青年に、レアリアはしばらく考えたがかぶりを振った。
「とりあえずそのままでいいわ」
「かしこまりました」
「様子を見て私から直接言う」
小さく鳴らされる両手。
意識を引く音にアージェは注意を向ける。レアリアは冴えて冷たい目を床上の月光に向けた。
繊細な窓格子を黒く映し出す光は、白い床をまるで海底のように色づかせている。
静寂を形成する温度の無い色。情味のない清冽は、彼ら二人だけを閉塞した世界に囲い込んでいるかのようだった。
レアリアは薄く息を吐き出す。
「そろそろね、戻ろうと思うの」
何ということのない言葉は、しかし状況の転換を意味している。
アージェは無意識のうちに息を止めた。
「表に戻る?」
「ええ。このままだと出来ることが限られてしまうから」
そう言ったレアリアは微笑してはいなかった。むしろ苦々しい目で自らの十指に目を落とす。
ディアドとなってから見るようになった彼女の苛立ちは、おそらくもっと昔から続いてきたものなのだろう。
レアリアの一面しか知らず、それが全てだと思っていた少年時代。アージェは自らの無知を思い出した。
そしてこれからのことを思う。
「クレメンシェトラを抑えて変わる?」
「それは……出来るかどうか分からない。やれるとしてもかなり力を使うだろうから、もしもの時の為にとっておきたい」
「なら普通に起きますか?」
「うん。今回復したことにして表に出るわ。閉じていた部分を開けば、向こうからは元通りに見えると思う。
 それに、その方がクレメンシェトラも安心して眠れると思うから。その間にまた動ける」
「分かった」
この件に関して嘘をつかねばならないのは、レアリアを除けばアージェ一人である。
彼女は青年の肯定を聞きながらも不安げな目を向けてきた。
「本当に大丈夫?」
「……信用ないですね」
嘘が下手だということは、はたして努力して改善出来るようなものなのだろうか。
アージェ自身そういった疑問は持っていたが、やらねばならないことには変わりがないだろう。力強く頷いてみせる。
「ちゃんと喜ぶ振りするから」
「振り?」
「レアが起きて嬉しいって」
「…………」
安心させようと思いそう言ったのだが、何故かレアリアからはじっとりとした目で睨まれた。
アージェは内心その視線に怯みつつ、けれど何が問題なのかは分からない。一応念を押してみる。
「確かに演技には自信ないけどな」
「演技?」
「何で怒るんだよ……」
青年は主人の膨らんだ頬を摘みたい衝動に駆られたが、これ以上機嫌を損ねてもいいことはないだろう。
引き際を感じ取ったアージェは、椅子に寄りかかっていた体を起こした。
「えーと、じゃあ他にやっておくこととか困ってることは?」
「……特にないわ」
「ならまた明日参ります。ゆっくりお休み下さい」
恨みがましい視線を受けつつ、彼は一礼するとそそくさと踵を返す。
扉を開けた瞬間、背後から穏やかな女の声が聞こえた。
「ごめんね」
淋しげな後悔の言葉。
何故そのようなことを言うのかとアージェが振り向いた時、けれど彼女はもう寝室に消えた後だったのである。